思い返すこと勿れ

@nimo2

第1話

「なぁ、お前はどう思うんだよ」 

 居眠りから覚めるように肩が跳ねると同時に、私は背筋を伸ばして声がした方に向き直る。

 知り合いと呼んでいいのかすらわからない人間から声をかけられた。陰気な私とは対照的に、打算なしに誰にでも愛想を振り撒く、所謂善人であった。

 まさか無視をするわけにもいかない。

 しかし、どう反応するべきかがわからない。相手はどんな返答を期待しているのだろうか。本当に私の考えなんかを知りたがっているのか。そもそも私に話しかけてはいないのではないか。

 余計なことばかり考えているせいか口籠って、ついに言葉は出なかった。

 会話もできない人間だと思われただろうか。あるいはもっと本質を覗く人間なら、自分の考えすらないのだと思ったのだろうか。

 あぁ、怖い。

 馬鹿だと思われることがだろうか。それともこんな善人からすらも嫌われてしまうことだろうか。もしかしたら、こんな会話すらこなせない私自身の将来を案じているのかもしれない。

 だけれども、どれも正しい気がして、どれもどこかズレている気がする。テストで三角をもらったかのようなもどかしさが、何かに入り混じっていく気がした。

「なんだこいつ」

 なんて笑ってる奴がいる。

 恥ずかしい。しかし私だってそう思う。

 彼らにはわからないことだが、これが会話ではなく手紙でのやり取りであったり、あるいは匿名のアンケートであったりしても、やはり私はこのざまであっただろう。ならば私は一体何を恐れているのだ。

「やめろよ」

 その声は少し硬くて、それだけで私を嘲笑っていた少年たちがバツが悪そうに黙り込んだ。

 やめてくれ、と私も思った。

 嗤うことに対してではない。その善人に対してだ。

 この時間がすぐにでも終わってほしかった。腸が破裂するのではないかと思った便秘の時よりも、窓ガラスを割って父に怒鳴られた時よりも、この時間が苦痛に感じられた。だというのに、嫌がらせのつもりなのか、時計は律儀に一秒に一回しか針を動かしてはくれない。ラジオのようにカセットを抜いたり、無理やりにコンセントを抜いたりして終わりにできたらどれだけよかっただろう。

 これでは私は彼らに恨まれてしまう。それに何よりもこの現状に私は所在なさげに身を縮こませるしかなかったことがなんとも情けなかった。肩から顔へと熱が広がっていく。あぁ、恥ずかしい。

 そして恐ろしい。屈託なく微笑む彼はきっとこういうのだ。

「嫌なことは嫌って言っていいんだぞ」

「……はい」

 話を流すためにした返事にはなんの意図もこもってはいなかった。そう意識した。

 彼はなんでもないと言うふうにもう一度笑って、それからやんわりと友人たちを諭すと、チャイムがなる数秒前に席に着いた。

 チャイムが鳴った数秒後、国語の教師が耳障りな声で言い訳をしながら慌てて教室に入ってくると、高慢にも「あいさつをしろ」だなんて宣った。

 特段こんなことにムキになることはない。むしろ、この先に待つ尋問のことを思うと恐怖に勝るものは何もなかった。

 数学や理科ならまだよかった。確かに教師から指名されれば一瞬慌ててしまうし、噛んでしまうことはあれど、計算の答えを言うか教科書に書いてあることをそのまま言えば済むのだから。

 だか国語は少し事情が違った。

 問題によっては教科書の内容を整理すればいいだけのものもあるのだが、この教師は自分の考えを絡めて発表させるのを好むのだ。すると、途端に私は何も言えなくなってしまう。考えあぐねて、否、考えているふりをして、先程のように結局は終始俯いたままで、ため息と小言を揃えて呆れられる。そのくせ毎度指名してくるのだから嫌がらせだとしか思えない。実際、その性格の悪さが滲み出ているのか、単にこの教師の教育方針のせいかわからないが、彼は学校中で嫌いな先生ランキングで不名誉にも一位に輝いている。

 私の席からでは窓の外を見下ろすなんてこともできなければ、先生の目を盗んで内職をすることもできない。

 気を紛らわすこともできないまま、授業の終盤に差し掛かった。まさしく生き地獄であった。

 このままやり過ごせるのではないかという諦観めいた希望と、今回も無駄なのだろうという確信が不思議なことに混在している。どうも、どんなに絶望的な状況でも、人間は楽な妄想をしてしまうらしい。虚妄と言ってもいい。だが私は知っている。誰もが知っている。期待を裏切られるくらいなら最初から期待するべきでないと。

 あと五分。

 教師がちらとこちらを窺った。

 おお、怖い。不安だ。

 思えば、私はいつも不安でたまらない。

 不安と共に生きている。自分自身が生涯で一番のパートナーなんていうが、どうにも私にはそれが不安であるような気がしてならない。

 かといって何が不安なのかもわからない。ただ漠然とした不安がいつも腹の奥で呻いている。強いて言うのなら、生涯の相方のことすら何もわからないことが不安なのかもしれない。

 もちろん、そんな息苦しい日々を心臓が圧迫されるような感覚と共に過ごそうとも思わない。だからと言って何かしても、そこからまた不安が生まれるのだ。正体を模索するうちに、仮定した何かを消そうとするうちに何個も増えていては世話ない。イタチごっこどころでは済まない。

 だが全くの無駄というわけでもなかった。そんな古典で教訓とされてしまっていそうな滑稽なことをしていると、今までのある一つの種類の不安が和らいだ気がするのだ。

 例えば、その場しのぎであれ偶然の産物であれ成功した事例があると、やはり多少の不安は抱きつつも同じように繰り返せば、大抵うまくいくのだ。慣れもあるのだろうけれど、馬鹿の一つ覚えのように、もはや言葉とも言えない言葉を、それでも訥々と組み合わせの問題のように並べればある種類の不安は違和感程度でおさまってくれた。

 種類というのは、場面場面によって、足を引っ張ったり、体にのしかかったり、胸を締め付けたり、鳩尾あたりで複雑に絡まったり、催眠をかけたかのように脳を混乱させたりと、必ずしも一つだけが私を悪戯に邪魔する訳でもないのだが、とにかくこれがほんの一部に過ぎないほどの多くの不安があるのだ。

 その覚えていない、そもそも覚えることすら生理的に忌避してしまうような不明瞭になった不安は、それが実際のところ何だったのか気になるし、やはり落ち着かないのだが、それでもこれまでよりは幾分かマシだった。

 けれどもマシというだけであって、いくら塗りつぶしても上書きしても、一度不安が生まれたと言う事実は消せない。だから上辺だけでは消えた、要は見えにくくなっただけの不安はいつも残滓を残していく。

 もしかしたら不安というより焦燥に近いかもしれない。

 あぁ、私はいつも焦っている。何かと気持ちがはやって急いでしまう。

 私は生き急いでいるのだ。

 あるいは死に急いでいるのかもしれない。

 ともあれ死ぬことが不安でないことは確かだ。いや、ある意味では死ぬことが不安なのかもしれないが。

 いいや、やはりそれも厳密には違う気がする。

 生きられないことこそが、何にも変わらない苦痛なのだ。きっと死ぬことなんかよりも、どれだけの美辞麗句にあやかっても生きていると言うには烏滸がましいほどの怠惰の方が恐ろしいのは事実だ。

 だがそれが不安なのかと自問してみても、さぁどうだろう? と曖昧な自答しか返ってこないのだから、また何かと体の中がかき混ぜられたような気分になる。

 そして私は、たまに自分が他人のように思えるのだ。偉そうにも、私は私を俯瞰している瞬間がある。だのに、いや、だからこそやはり自分自身のことはよくわからない。いつまでたっても、内省はするくせ自分が変わらないあたり、それはどうも客観視とは違うようだった。主観で自身を俯瞰しているのだろう。まるで意味がない、ただの現実逃避だ。きっと私は自分ではない誰かになりたいのに、なれないから私を他人のように見るのだろう。その理論が破綻していることに気づいていても。

 なんて益体のないことばかり考えているうちに、気づけば残り一分程度になっていた。

 それでも不安は拭えない。一抹だなんてちっぽけではない不安は月なんかよりよっぽど早く膨らむばかりだ。そして萎むことを知らないようだった。

 心配事の九六パーセントは起こらないだなんて嘘を信じる気にはなれなかった。鬱々とした、確実に灯りが灯ることのない暗闇の底で希望に縋れる人間は、実は勇敢であるのではないかとすら思う。

 まもなくしてチャイムが鳴り響いた。

 それでも私は気を抜くことはなかった。できなかったと言う方が正確だ。

「じゃあ最後にこの問題を」

 案の定、笑いを堪えたかのように歪な音は、私の鼓膜を蠢かせた。脳さえ揺さぶられたような感覚がする。

「おい、休み時間減らすんじゃねぇぞ」

 若干の怒りを内包した、呟きにも近い静かで冷たい声に、歓声でも沸いたかのようにドッと笑い声が響き渡る。

 彼らはどうも私と同様、そう簡単には変わらないようだった。三々五々に揶揄が飛び交い始めた時、誰かの怒りを代弁するかのように引っ掻くような音を立てて、椅子が僅かに跳ねて押し除けられた。

「お前らいい加減にしろよ!」

 姿を見なくたって、声を聞かなくたってわかる。立ち上がったのはあの善人だった。

「よってたかって一人をいじめやがって! そんなんじゃ怖くて何も言えねぇよ!」

 別にそうではなかった。どうも私はこの空気が苦手だ。

 それからも彼の主張は続いた。

 焦り気味の生徒たちや萎縮してしまった教師を見たって痛快だとは思わない。ただ、あぁ、こいつらは彼に屈したんだ、としか思えなかった。彼の思想に彼らの思考は塗り替えられたのだ。少なくとも今だけは。黒板に書かれた文字さえ彼の言葉なのではないかと勘繰ってしまう。

 彼らはついに黙りこくってしまった。そして心の底から申し訳なさそうな表情を浮かべるもんだから気味が悪かった。得体の知れない大きくて禍々しい何かが、彼らを支配しているようにさえ思えた。

 私は戦慄した。

 それをどう勘違いしたのか、彼は世間一般的に優しいと言われる言葉を投げかけてくるのだが、それが私を蝕んでいるようで、せぐりあがる吐き気を咳で誤魔化した。

 もう一度彼らを眺めると、私の理想は彼らの中から消え去っていて違和感だけが残った。

 そこでようやく私は、不安が違和感に落ちぶれたのではなく、昇華したのだと気づく。

 確かに不安の方が私のことを怯えさせていたのだけれど、しかし本当に恐ろしいのは違和感の方だった。だから私は、模範解答以外は脳死で不正解とされる国語という教科事態嫌いだった。道徳だって嫌いだ。そのくせ私は不安が違和感に変わることを喜んでいたのだから滑稽だ。

 多分私は、何もできない。彼らを許容できない限り、誰かの言葉を聞いた時点で私は私とは言えなかったのかも知れない。格言なんて最悪だ。

 何もできないのは癪だったし何より我慢ならなかった。何もしないままただ身を委ねるなんて、そんな囚人のような真似事をするくらいなら、今握っている鉛筆を凶器にしてでも異端者になりたかった。ガリレオ然り、どうも物事の本質をついているものはいつも異端であるらしい。

 順じても反抗しても、それは縛られていて私の選択とは呼べないのだろうけれど、しかしそれが全くの嘘ではないのなら、いつか私は生きられるのかも知れない。

 だから、手始めに私は勇敢にも教室を飛び出した。生まれ変わるのだ。鞄の中の本も、今までの私の証も全て燃やしてしまおうか。行き先は私が倒れる場所でなくてはならない。

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