27日 継ぎ足したページ

気がつくと、私は暗闇の中にいた。


 手と足には重い枷がはめられ、鉄の冷たさが皮膚に食い込んでいる。

 身体を起こそうとするが、思うように力が入らない。


 全身を走る鈍い痛み。

 無数の切り傷、打撲、焼け焦げた皮膚のひきつり。


(……そうだ。オルバと戦って……フランを、飛ばしたんだ)


 記憶がゆっくりと戻ってくる。

 フランを逃がすために力を使い果たし、意識を失ったあと――私はここに運ばれたのだ。


 目を凝らす。


 石造りの、十畳ほどの狭い部屋。

 窓はなく、光もない。

 湿ったカビの匂いと、血の匂いが混ざった閉鎖空間。


 重い石の扉が、軋む音を立てて開いた。


 入ってきたのは、見たくもない金色のツインテール。


「あら? 気が付いた? だめじゃない、戦闘中に寝ちゃうなんて」


 オルバはニタニタと笑いながら、私の顔を覗き込んだ。

 その瞳には、底知れない悪意と無邪気さが同居している。


「素敵でしょう、この部屋。昔々、悪い貴族を罰するために作った牢屋なんだって。……今は誰も使ってないけどね」


「私を……どうする気だ?」


 かすれた声で睨みつけると、オルバは楽しそうに肩をすくめた。


「どうするって? 決まってるじゃない。あなたのその力……素敵よね。コントロールできたら、色んな場所にいけるじゃない? あなたが消した、あのアスガルドの虹みたいに」


「……」


「だから……ね。私、決めたの。あなたをペットにするって」


(そんなこと……)


「“なるわけない”って思ってるでしょ? 顔を見たら分かるわ」


 オルバは私の肩に手を置いた。

 その指先はやけに優しくて、それが余計に不気味だった。


「ねえ……」


 まるで恋人に囁くような、甘い声。


「人を支配するのには、何が必要だと思う? お金? 愛? ……ううん、どれも違うわね。人を本当に支配するのに必要なのは――」


 私の耳元に唇を寄せ、吐息まじりに囁く。


「恐怖よ」


 その瞬間。


 ドォン!!


 耳元で爆音が炸裂した。


「がっ……ぁああああっ!!」


 視界が白く弾ける。


 耳鳴りがひどい。

 何が起きたのか理解するより先に、右腕の感覚がないことに気づく。


 遅れてやってきたのは、脳髄を焼き切るような激痛だった。


 私の右腕が、肘から先ごと消し飛んでいた。


 意識が遠のく。

 暗転しかけた視界を、髪を掴まれて無理やり引き戻される。


「ダメよ、寝たら」


 オルバの手から、淡い光があふれ出す。

 優しくて、温かい光。聖なる魔法。


 痛みが引いていく。


 吹き飛んだはずの腕が、骨が繋がり、肉が盛り上がり、皮膚が再生していく。


「すごいでしょう? これが聖なる魔法なの。……あら? まだそんな目ができるのね?」


 再生した腕を握りしめ、睨み続ける私を見て、オルバは少しだけ意外そうな顔をした。


「この顔は生まれつき……」


 ドォン!!


 再び爆発音。

 今度は左足が吹き飛んだ。


「あ……ぐっ……」


 悲鳴すら出ない。

 ただ喉の奥で空気がひゅっと鳴るだけだ。


 オルバは私に近づき、また癒しの光を注ぐ。


「これから何度も、何度も、何度も……あなたを痛めつけては、回復させてあげる。いつまでそんな強い目ができるかしらね」


 ふわりと、私の身体が宙に浮く。

 風の魔法だ。


「ひょっとしたら、逃げられるかも? って思ってる? 無理無理」


 オルバはケラケラと笑った。


「はじめに言ったよね? この場所、貴族の牢屋だって。壁一面が魔力を吸収する石でできてるから――弱りきったあなた程度の魔力じゃ、逃げられないわね。残念」


 壁の黒い石が、私のわずかな魔力を吸い上げていくのが分かる。

 無垢の魔力すら練ることができない。


 オルバは顔を近づけ、またあの甘い声で言った。


「今日は長い夜になりそうね」


 次の瞬間、私の身体はまた爆発で吹き飛ばされた。


 


 ――三日目。


 


 初日以降、オルバは姿を見せない。

 静寂と闇だけが、のしかかるように重い。


 私は何度か脱出を試みた。


 無垢の魔力を練り上げ、身体強化で枷を砕こうとした。

 けれど、練った端から魔力が霧散していく。


 壁の黒い石が、私の命の灯火を吸い上げていくのだ。


「……くそっ」


 鉄の枷が手首に食い込み、新しい血が滲む。


 空腹が内臓をねじ切り、喉の渇きが思考を焼き尽くす。


 それでもまだ、千尋としての理性が残っていた。


(諦めるな。フランも、あの子たちも……私が戻らなきゃ)


 


 ――五日目。


 


 時間感覚が消えた。


 ここが朝なのか夜なのか、それとも永遠に続く深夜なのか、もう分からない。


 扉が開く音が、恐怖の合図だ。


「やっほー。元気してた? 私のペットちゃん」


 オルバは鼻歌交じりで入ってくると、バスケットから焼き立てのパンの香りだけを漂わせ、それを私の目の前で踏み潰した。


「あーあ。汚い手で触ろうとするから」


 そして、彼女の指先が指揮棒のように振られる。


 見えない風の刃が、私の太腿を薄く、深く切り裂いた。


「ぐっ……!」


「いい声。でも、まだ足りない」


 指が動くたび、皮膚が裂け、肉が爆ぜる。

 指の骨を一本ずつ、丁寧に、小枝を折るように砕かれる。


 私が痛みに耐えきれず失神しようとすると、すぐにあの温かい光が降り注ぐ。


『聖なる癒し』。


 砕けた骨が強制的に繋がり、裂けた皮膚が塞がる。


 その修復の過程こそが、最大の地獄だった。


 神経が無理やり結ばれる激痛。

 そして、「また壊せる状態」に戻されたという絶望。


「ねえ、聞いてよ。今日ね、新しいドレスを買ったの」


 オルバは私の血で汚れた床を避けながら、楽しそうに独り言を話す。


 私の悲鳴をBGMに、まるで友達とお茶をしているような口調で。


「だからね、あなたも綺麗にしてあげる」


 ドォン!!


 爆発が腹部をえぐる。

 内臓が焼ける臭い。


「あはは! 中身が見えちゃった。……はい、回復(なおれ)」


 治される。壊される。治される。壊される。


 痛みと再生の無限ループの中で、私の境界線が溶けていく。


 私は人間なのか?

 それとも、ただ悲鳴を上げるだけの肉の塊なのか?


(……殺して。もう、殺してくれ……)


 千尋の理性が、砕け散る寸前で悲鳴を上げた。


 


 ――七日目。


 


 オルバはもう、私に興味がなくなったのか、姿を見せない。

 あるいは、私がもう「壊れかけて反応が鈍い玩具」になったからかもしれない。


 痛い、という感覚すら遠い。


 寒い。暗い。


 天井から落ちてくる水滴を、舌を伸ばして舐める。

 泥水のような味がしたけれど、今の私には甘露だった。


(……フランは、逃げられたかな)


 思考が霧のように霞む。


 フランの顔が思い出せない。

 ほのかの顔が……二重、三重にブレていく。


 自分の身体の境界線が、闇に溶けて曖昧になっていく。


 手足の感覚がない。

 自分が仰向けなのか、うつ伏せなのかすら分からない。


 ただ、床の冷たさだけが、私がまだ「モノ」として存在していることを教えてくれていた。


 


 ――??


 


 ……死にたい。


 ふと、そう思った。


 それは恐怖からではなく、深い安らぎへの渇望だった。


 もう、痛みたくない。

 もう、治されたくない。


 薄く目を開けると、あるはずのない花が、闇の中に咲いていた。


 彼岸花。


 真っ赤な花弁が揺れている。


 ああ、そうか。これは幻覚だ。


「死」が近くまで迫っていることを、壊れた脳が優しく教えてくれているんだ。


 


 次に気がつくと、私の身体は引きずられていた。


 ズリ、ズリ、と粗い石畳が皮膚を擦る音がする。

 けれど、痛みは感じない。


 私は、重いゴミ袋のように床を滑っていた。


 もはや、話す気力も、指一本動かす力も残っていない。


「全く……汚いったらありゃしない」


 オルバの声が、遠くで聞こえる。

 鼻をつまむような、心底嫌そうな声。


 ふわりと、私の身体が宙に浮いた。


 まぶしい。


 久しぶりの太陽の光が、網膜を焼くように痛い。

 けれど、目を閉じる力も残っていない。


「わたし……壊れた玩具に興味ないんだよね」


 ぼんやりと下を見ると、私は高い崖の上に浮かされていた。


 下には深い森と、ごつごつした岩場が見える。


 美しい緑。澄んだ空。


 ボロ雑巾のようになった私とは、あまりに対照的で綺麗な世界。


「もういいわ。……さようなら、同族さん。別にあなたが死んでも、またどこかで別の誰かが“虹”として生まれる。まあ……世界はそんな感じでできてるのよね」


 ゆっくりと、私を支えていた風が溶けていく。


「大体……魔力すらない田舎町生まれの劣等種族が虹になるなんて、汚らわしい。厚かましいったらありゃしない」


 オルバはそう吐き捨ててから、ふと首を傾げた。


「ん? そういえば……もう一人、田舎町で……虹がいたような……あなたと同じく、ピョンピョン飛んでたっけ……?」


「……」


 言い返す言葉も、怒りも、もう湧いてこない。


 ただ、静寂が欲しい。


「んー、名前は……忘れちゃった。まあ、死んだから一緒か」


 オルバは悪戯っぽい笑みを浮かべ、無邪気に手を振った。


「じゃあね、バイバイ」


 爆発音とともに、身体が吹き飛ばされた。


(あ……)


 重力が私を捕まえる。


 風を切る音。


 枝にぶつかる衝撃。バキ、ボキという音が身体のあちこちから響く。


 何度か木に引っかかり、落下速度が緩んだものの――最後には枝が折れ、地面に叩きつけられた。


 鈍い音がして、視界が揺れる。


 土の匂い。草の匂い。


 もはや、痛みすら感じない。


 ただ、終わったんだという安堵だけがあった。


(……死ぬのか。もう……疲れたな)


 意識の灯火が、ふっと消えかけた。


 


 気がつくと、私は暗闇の中にいた。


 誰かの泣き声がする。


 知っている声。よく聞いた声。


 ――娘の声だ。


 少女は泣いていた。


 場所は……ああ、私の葬式か。


 祭壇には私の写真。参列者はもう帰ったあとみたいだ。


 少女は誰もいない部屋で、一人で泣いていた。


 強い子だったから。


 周りに人がいなくなってから、ようやく泣けたのだろう。


 私は、少女に声をかけられない。


 なんて言ったらいい?


 もう死んだ私には、何もできない。


 声をかけることも、励ますことも、抱きしめることも。


(結局……生き返ってもまた泣かせてしまったな……)


 私はその場に座り込んだ。


(なんで、私は生き返った? いや……エマの身体を借りたのだから、死んでいるのと同じか。全く……情けない)


(こんな事なら……死んだままの方が良かった。あの子もそれを望んでいる。みんな、きっと……)


――違うよ。


 声がした。


 男の子の声だ。


 私の肩に、手が置かれた。優しい、温かい手が。


――千尋さんに、みんな救われたんだよ。


(私に?)


――そうだよ。エマも、そして俺も。


(誰も救ってなんかいない……私は一人でなにも出来ず、足掻いていただけだ)


――そんな事ない。


 今度は女の子の声がした。


 栗色の髪の少女――エマが、私の隣に座っていた。


――私も、千尋さんに救われたよ。あの時、手を掴んでくれなかったら。あの時、私の代わりに戦ってくれてなかったら。あの時、優しい言葉をくれなかったら、私きっと前に進めてない。


(違うよ……それは君自身の力だよ、エマ)


 少女は首を横に振る。


――はじめは……私一人だった。でも今は違う。


――そうさ、今は違う。


 男の子――アルクが、反対側から私の手を取った。


――これは、私達の物語。


 二人が私の手を引いて、立ち上がらせる。


――さぁ、千尋さん。


 私は手を引かれ、前に歩き出す。


 その先には、写真の前で泣いている娘――ほのかがいる。


――話す言葉、あるんでしょう?


――話さないと伝わらない。


 優しく、二人に背中を押された。


 私は、震える足で一歩進んだ。


 ほのか……。


 ごめん。


 ダメな母親でごめん。


 迷惑ばっかりかけて。

 いつも困らせてばっかりで。


 ごめん。


 本当に……。


 私は泣いていた。


 父が死んでから、もう泣かないって決めていたのに。


 娘を前にして、顔も涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。


 ふと、泣いていた娘が顔を上げ、私に一冊のノートを差し出した。


 表紙には『やりたい事リスト』と書かれている。

 私が生前に書いていたノートだ。


 ページをゆっくりめくる。


「膳所高合格」「ママさんバレー優勝」「英語ペラペラになる」……。


 どれも中途半端で、叶いもしないことばっかり書いてある。


 娘は、最後のページを指さした。


『絶対』と書かれた太い文字の横に、『長生きする』と書いてある。


(……結局、中途半端。どれも叶いもしない……)


 娘は、さらに次のページを開いた。


 継ぎ足されたページ。


 そうだ……これは。


 娘の声が響く。


『また……変な事書いてる!』


『せっかく転生したんだ、夢はでっかくだ』


『でも……これ、お母さんらしいね』


『そうだろ? 魔法と聞いてはじめに思い付いた』


『あはは、最高! やっちゃってよ、異世界で最高のやつ』


 継ぎ足されたノートのページには、大きな文字でこう書かれていた。


『異世界で天下をとる』


 その文字が、強く輝き出した。


 光が私を包み込む。


 私はほのかを抱き寄せ、一番言いたかった言葉を口にした。


「愛してる」


 暗闇から、光が溢れ出す。


 周りには、いつの間にか花畑が広がっていた。


 甘く、懐かしい、安堵の香り。


 金木犀の香りが、そこにはあった。


 アルクとエマが先に歩き、私に手を差し伸べる。


「さぁ……帰ろう」


――そうだな……。


 私はゆっくり歩き出す。光に向かって。


「帰ろう……家へ」


 そして、遠くで声が聞こえる。


 優しく、愛しい声が。


(――お母さん)


 


 雷鳴が遠ざかる。


 血の匂いと、マリーゴールドの不穏な香りが満ちる部屋。


 床に倒れたボロボロの少女。


 その瞼が、ゆっくりと開いた。


 琥珀色の瞳が、焦点を取り戻す。


 そこにはもう、怯えも、諦めもなかった。


 ただ、愛しい我が子を見つめる、強い母の光だけがあった。


 少女――千尋の唇が、かすかに動く。


「……ただいま」


 その声は小さかったけれど、雨音にもかき消されないほど、確かに響いた。





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