第11話 姉川の戦いと世紀の誤報


 ​ 金ヶ崎での屈辱的な撤退戦から、わずか二ヶ月。


 ​ 信長様の怒りは、夏の陽炎のように燃え盛っていた。

 ​ 裏切りの浅井、そして宿敵の朝倉を討つべく、織田家は徳川家康殿の援軍を得て、再び近江の地へと兵を進めた。

 ​ 姉川を挟んで対峙する、織田・徳川連合軍およそ二万八千。対する浅井・朝倉連合軍はおよそ一万八千。


 ​ 数では我らが有利。


 しかし、浅井の兵は故郷を守るために決死の覚悟で戦に臨んでおり、その士気は極めて高い。

 戦は、序盤から凄まじい激戦の様相を呈していた。


「押されるな!一歩も退くな!」


 ​ 織田軍の先鋒と浅井軍の主力は、川を挟んで一進一退の攻防を繰り広げ、戦線は完全に膠着していた。

 ​ 信長様の本陣では、竹中半兵衛が刻一刻と変わる戦況を冷静に見極め、的確に指示を飛ばし続けていた。


「磯野員昌の隊が突出している。

 左翼から丹羽殿の隊を回り込ませ、側面を牽制させよ」


「徳川殿の動きは?……うむ、さすがは三河武士。榊原の隊が朝倉の陣形を崩しつつあるな」


 ​ 彼の采配に淀みはない。

 だが、戦況を完全に覆すまでの一手は、まだ見出せずにいた。


 ​ 一方、その頃。

 俺、呉学人は、利家と共に後方の予備隊に配置されていた。

 金ヶ崎での一件以来、俺が前線に出ることは固く禁じられている。

 危険な任務を任されなくなったことには安堵したが、自らの無力さを痛感する日々だった。


​「ちっ、じれってえな!

 俺たちも前に出せりゃあ、浅井の奴らなんぞ一ひねりなんだが!」


 ​ 利家が槍の柄を握りしめ、悔しそうに呟く。

 俺は、ただ「そうですね」と相槌を打つことしかできない。


 ​ その時だった。

 近くの茂みから、一人の男が転がり出てきた。

 ​ 身に着けているのは、浅井方の足軽の具足。

 しかし、矢傷を負い満身創痍であった。


「敵兵だ!捕らえよ!」


 ​ 利家の部下たちが、すぐさまその男を取り押さえる。

 どうやら、本隊に何かを伝えるための伝令兵だったらしい。


「学人、貴様が話を聞け。 何か重要な情報を持っているやもしれん」


 ​ 利家に促され、俺は恐る恐るその伝令の前に膝をついた。

 ​ 伝令の男は、荒い息の下から俺たちを睨みつける。 その言葉には、極めて強い近江訛りがあった。


「は、離せ……!味方に、味方に伝えねばならんのじゃ……!」


「何を伝えるつもりだった。正直に話せば、命だけは助けてやる」


 ​ 俺がそう言うと、伝令は一瞬、諦めたような顔になり、そして、絞り出すような声でこう言った。


「……浅井の援軍が……もうあかん……!そう伝えい!」


 ……もう、あかん?


 ​ その言葉が、俺の頭の中で反響した。


「もうあかん」、それは、上方で使われる言葉。「もう駄目だ」「これ以上は無理だ」という意味のはずだ。


俺の脳内で、全ての情報が一本の線で繋がった。


(そうか!膠着こうちゃくしているように見えて、浅井軍の内部はすでに限界なのだ!

 兵糧が尽きたか、あるいは兵の士気が尽きたか!いずれにせよ、彼らはもう崩壊寸前!この伝令は、本隊に「もう戦線は持ちこたえられない」と伝えようとしていたに違いない!)


 ​ これは、千載一遇の好機ではないか。

 ​ 俺は、血相を変えて立ち上がった。


「利家殿!一大事でございます!」


「なんだ、騒々しい」


「今です!今こそ、総攻撃を仕掛けるべきです!浅井軍は、すでに戦意を喪失しております!」


「なにぃ!?本当か、学人!」


「間違いありません!この男が、そう白状いたしました!」


 ​ 俺は、もはや疑うことを知らなかった。

 自らの世紀の「誤報」に気づかぬまま、信長様の本陣へと駆け込んだ。


「申し上げます!上様!」


 ​ 俺は、半兵衛や将たちが訝しむ視線を送る中、信長様の前にひれ伏した。


「今です!今こそ、全軍で総攻撃を!捕らえた伝令によれば、浅井軍は崩れる寸前!士気は尽き、もはやこれまでと!」


「……何?」


 ​ 半兵衛が、眉をひそめる。


「馬鹿な ! 敵の抵抗は未だ激しい。その情報、確かなのか、呉学人殿」


「確かです!私のこの耳で、しかと!」


 ​ 俺の必死の形相を見て、信長様は面白いものを見るかのように、口の端を吊り上げた。

 ​ 信長様は、膠着した戦況と、俺の顔を交互に見比べ、そして、決断した。


「……よし、乗った!」


 ​ 信長様は立ち上がり、全軍に聞こえよがしに大音声で命じた。


「全軍に伝えよ!予備隊も全て投入し、浅井の本陣に総攻撃をかける!

 好機ぞ、一気に敵を押し潰せ!」


 ​ その号令は、膠着していた戦場に、巨大な槌を振り下ろすような衝撃を与えた。

 ​ それまで守りに徹していた部隊も、後方に控えていた俺たち予備隊も、一斉に鬨の声を上げ、浅井軍へと殺到したのだ。


 ​ 浅井軍は、度肝を抜かれた。


 ​ 彼らは、間もなく到着するはずの援軍を待ち、必死に戦線を維持していた。

 それなのに、なぜこのタイミングで、織田軍が捨て身の総攻撃を仕掛けてくるのか。


 ​ その一瞬の動揺が、命取りとなった。


 ​ 勢いに乗った織田軍の猛攻は、ダムの決壊のように浅井軍の陣形を飲み込み、蹂躙し、そして粉砕した。


 ​ こうして、歴史に残る激戦「姉川の戦い」は、織田・徳川連合軍の圧勝に終わった。

 ​ ​

 ​

 戦後、俺は戦場で手当てを受けていた浅井の捕虜から、衝撃の事実を聞かされることになる。


「……はぁ? 援軍が来るはずだった、ですって?」


「おう。 あと半刻もすれば、二千の兵が到着するはずだったんじゃ。 じゃから、俺の仲間は『援軍は、もうすぐ来る』と伝えに行ったんじゃが……」


 ​ もう、すぐ、来る……?


 ​ ……もう、あかん……?


 ​ 俺は、血の気が引いていくのを感じた。


 ​ 近江の言葉で「もうすぐ来る」という発音が、俺の耳には、絶望的な「もうあかん」に聞こえてしまっていたのだ。


 ​ 俺の壮大な聞き間違いが、味方を勝利に導いてしまった……?


 ​ 俺は、その場に崩れ落ち、天を仰いだ。


「ああ、私はなんというミスを~~~~~っ!」


 ​ その俺の背中を、利家が豪快に笑いながら叩いた。


「うるさい! 勝ちは勝ちだ!

 結果よければ、それでいいだろうが!」


 ​ その言葉は、もはや慰めにもならなかった。


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