第6話 鳳雛だけはご勘弁を
木下藤吉郎という男は、時として神業のようなことをやってのける。
墨俣に一夜にして城を築いたという俄には信じがたい知らせがもたらされたかと思えば、その勢いのまま、なんとあの竹中半兵衛を説き伏せ、織田家に仕官させるという離れ業を成し遂げてしまったのだ。
「あの『今孔明』が、我らの味方に……!?」
吉報は瞬く間に織田家中に広まり、城内は歓迎と興奮の渦に包まれた。
これで美濃攻略は大きく前進する。
誰もがそう確信し、来るべき天才軍師の到着を今か今かと待ちわびていた。
……ただ一人、俺、呉学人を除いては。
「腹が……腹が痛い……」
半兵衛殿が清州城へ到着する当日、俺は朝から腹の具合が悪く、厠と自室を何度も往復していた。理由は分かっている。精神的な重圧だ。
「本物」が来る。
俺という「偽物」の隣に。
その事実が、鉛のように俺の胃にのしかかっていた。
「学人、しっかりしろ!今日は大事な日だぞ!」
利家が、呆れ顔で俺の背中を叩く。
「分かっている……分かっているが、体が言うことを聞かないんだ……」
結局、俺は利家に半ば引きずられるようにして、半兵衛殿の拝謁の儀が行われる大広間へと向かった。
広間には、織田家の名だたる将たちが、いつも以上に緊張した面持ちで居並んでいた。
やがて、広間の入り口が静かに開かれ、一人の青年が姿を現した。
(……あの人が、竹中半兵衛)
年の頃は、俺たちとそう変わらないだろうか。
しかし、その纏う空気はまるで異質だった。
痩身で、顔色は紙のように白い。
一見すれば病弱な貴公子といった風情だが、その双眸だけは、暗い水底から全てを見透かすような、鋭く冷たい光を宿していた。
彼の前に立つと、自分の思考の浅さや隠している弱さまで、全て暴かれてしまうのではないか。そんな錯覚さえ覚える。
将たちが固唾を飲んで見守る中、半兵衛殿は信長様の前に静かに進み出て、流れるような所作で平伏した。
「竹中半兵衛重治、ただいま推参いたしました。これより我が知略の全てを、信長様のために」
その理知的な声を聞き、俺は末席で柱の陰に隠れるようにして、ただただ小さくなっていた。
「うむ、面を上げよ。よくぞ参った、半兵衛」
信長様は、心の底から満足げな声で言った。
「貴様の噂は聞き及んでおる。これより貴様を、我が織田家の軍師の一人として迎えよう」
軍師の一人……
その言葉に、俺の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。まさか……
「学人。前へ」
恐れていたことが、現実になった。
信長様に名を呼ばれ、俺はもはや逃げることもできず、おぼつかない足取りで前へと進み出た。
そして、生まれて初めて、あの「今孔明」と至近距離で顔を合わせることになった。
射抜くような、理知の眼差し。
俺は蛇に睨まれた蛙のように硬直し、視線を合わせることもできずに俯いた。
そんな俺と、涼やかな顔で佇む半兵衛殿を交互に見比べ、信長様は実に楽しそうに声を張り上げた。
「皆の者、聞け!
これにて我が織田家には、二人の天才軍師が揃った!
稀代の知将、竹中半兵衛が『今孔明』であるならば……」
信長様は、芝居がかった仕草で俺を指さし、高らかに宣言した。
「…… 我が福の神、誤先生は、さしずめ『
今、鳳雛……
その言葉が、雷となって俺の頭に突き刺さった。
(ほう、すう……? 鳳雛だと!?)
呉用の記憶が、脳内で警鐘を乱れ打つ。
鳳雛・
諸葛孔明と並び称された、もう一人の天才軍師。その才覚は誰もが認めるものだったが、彼はあまりに早く、その生涯を終える。蜀への進軍の最中、
落鳳坡――鳳、落ちる
その名も知らず、彼は死んでいった。なんと不吉な!なんと縁起の悪い!
次の瞬間、俺は我を忘れて叫んでいた。
「お、お待ちください!信長様!」
静まり返る広間。
全ての視線が俺に集中するが、もはや構っていられない。
俺は信長様の前に這い寄ると、半ば泣きつくように懇願した。
「そ、それだけは!その『鳳雛』という名だけは、なにとぞ、なにとぞご勘弁くださいませ!」
「……何故だ、学人。孔明と並び称される栄誉ある名ではないか」
信長様が、怪訝な顔で問う。
「栄誉ではございませぬ!
死の宣告にございます!
鳳雛・龐統は、落鳳坡にて矢に射られて落命いたします!
三十半ばで無念の死を遂げるのでございます!
あまりに縁起が悪い!
それだけは! それだけは、何卒……!」
俺は、必死だった。
この世界が、物語の法則に縛られているとしたら?
そんな名前を付けられたら、俺は本当に三十代で矢に当たって死ぬかもしれないのだ。
俺の必死すぎる形相と、切実な訴えに広間は一瞬、静寂に包まれた。
そして、次の瞬間……
「……ぷっ」
誰かが、噴き出した。
それを皮切りに、あちこちから堪えきれない笑い声が漏れ始め、やがて広間は大きな笑いの渦に包まれた。
「あははは!何を言い出すかと思えば!」
「縁起が悪いとは!
この男は、まこと面白いことを言うわ!」
将たちは、腹を抱えて笑っている。
信長様も、最初は呆れていたが、やがていつものように腹を抱えて大笑いを始めた。
「クックック……やはり貴様は、ただ者ではないわ、誤先生!」
そんな喧騒の中、ただ一人、笑わずに俺を見つめている男がいた。
竹中半兵衛
彼は、眉間に僅かなしわを寄せ、目の前で繰り広げられる茶番劇を、あるいはその中心で大騒ぎしている俺という存在を、値踏みするように、まるで不可解な生き物でも見るかのように、じっと、静かに見つめていた。
その表情には、ただ一言。
「……変わった男だ」
と、そう書いてあるように俺には思えた。
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