第一章:若き日の「誤先生」
第2話 元服と呉学人の名
歳月は、川の流れのように過ぎていく。
あれから数年、俺も犬千代も、そして吉法師様……いや、今や織田三郎信長様と呼ぶべきあの方も、それぞれに元服の年を迎えていた。
用水路の一件以来、俺の「うっかり」がなぜか良い結果を招くという奇妙な出来事は、村の小さな問題でたびたび起きていた。
その度に俺は頭を抱えたが、周囲の、特に犬千代からの「助兵衛は何か持ってる」という評価は、妙な形で固まりつつあった。
信長様は相変わらず「面白い」と笑うばかりで、その真意は読めない。
そして迎えた元服の日。俺は一つの決意を固めていた。
「父上、母上。本日より、俺は名を改めたいと思います」
両親と、儀式に立ち会ってくれた村長の前に正座し、俺は深々と頭を下げた。
「なんと?助兵衛、お前ほどの親孝行者が、わしらが付けた名を……」
父が寂しそうに眉を下げる。無理もない。
百姓の子が、自ら名乗りを上げるなど前代未聞のことだった。
しかし、俺にはどうしても譲れない一線があったのだ。
「呉の学究の徒たらん……その志を込め、本日より『
「智多星」と呼ばれた男の名。
俺の頭の中に巣食う、もう一人の自分。
その名をそのまま名乗ることは、俺にはできなかった。
あの物語の結末を知っているからだ。
梁山泊の栄光と、その後の悲劇的な末路。
毒酒を呷り、友の隣で果てた軍師の最期。
そして何より、「我は創作の人物にあらずや?」という根源的な問い。
物語の登場人物の名を借りて生きることは、俺自身の人生を放棄するに等しいと感じられたのだ。
呉学人
それは、呉用への決別であり、この世界で「助兵衛」として生きていくための、俺なりのケジメだった。
「ご、がくじん……?」
村長が、難しい顔で俺の名を反芻する。
「どこかで聞いたような……
ああ、そうじゃ! 唐土の物語に出てくる、かの大軍師『呉用』殿にあやかったのじゃな!なんと殊勝な心がけじゃ!」
村長は、俺の意図とは全く違う方向へと思考を巡らせ、勝手に感心してくれた。どうやら、俺が呉用の生まれ変わりだという噂が、まことしやかに囁かれているらしい。 訂正する気力もなかった。
両親も、村長にそう言われては反対もできず、俺の新しい名はあっさりと認められた。
こうして、百姓の助兵衛は死に、呉学人が生まれた。
だが、その背負う期待の重さに、俺は早くも押し潰されそうになっていた。
時を同じくして、尾張の国もまた、大きな転換期を迎えていた。
信長様の父君である織田信秀様が急逝し、若き信長様が織田弾正忠家の家督を継いだのだ。
しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。 家督相続に不満を持つ弟の信勝様や、織田一門の長老たちとの対立が、日増しに深まっていく。
そんな中、犬千代……今や前田又左衛門利家と名乗る彼は、信長様の親衛隊である
ある日、利家が俺の家を訪ねてきた。以前のような泥だらけの姿ではなく、簡素ながらも武士らしい身なりをしている。
「助兵……学人!いるか!」
「又左……いや、利家殿。どうされたのですか、そのような改まった姿で」
「よせやい、昔みたいに犬千代でいいって。それより、お前に話がある」
利家は、いつになく真剣な表情で俺の前に座った。
「信長様がな、お前を呼び出したいそうだ」
「……信長様が、この俺を?」
思わず、声が裏返った。百姓である俺に、織田家の当主が何の用だというのか。
「ああ。どうも、俺のことでらしい」
利家は、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「俺が戦で先走りすぎて、危ない場面があったのを、信長様はえらく心配されていてな。
『犬は手綱を握る者がおらんと、どこへ走っていくか分からん』とかなんとか……」
そこまで聞いて、俺は嫌な予感がした。まさか、とは思うが……
「それで信長様は、お前を俺の側に置きたい、と。物静かで、思慮深そうに見えるから、俺の目付役にちょうどいい、と仰せだ」
「……見間違いでは……?」
俺は自分の耳を疑った。
思慮深い?
この俺が?
いつも自らの存在意義に悩み、ぼんやりと空を見つめているだけの男が?
「ともかくだ!信長様がお呼びだ。断れるはずがねえ。さあ、行くぞ、学人!」
利家は、俺の返事も聞かずに腕を掴むと、那古野城へとぐいぐい引っ張っていった。
百姓の俺が、武士として仕官する。
それは本来、望んでも叶わぬ栄誉のはずだった。
しかし、俺の心は鉛のように重かった。
軍師「呉用」の再来などと期待されては、たまらない。俺はただの、うっかり者の呉学人なのだから。
那古野城の広間に通された俺は、生まれて初めて感じる武家の威圧感に、ただただ縮こまっていた。
中央に座す信長様は、もはや村で会っていた吉法師の面影はない。鋭い眼光は、人の心の奥底まで見透かすかのようだ。
俺と利家が平伏するのを見届けると、信長様は静かに口を開いた。
「学人。久しいな」
「は、ははっ!ご無沙汰しております……」
「貴様の噂は聞いている。村の問題を、奇妙なやり方で次々と解決しているそうではないか」
「い、いえ、それは、ただの偶然と幸運が重なっただけで……!」
「偶然と幸運を味方につける。それこそが、将たる者の才よ」
信長様は、俺の言い訳などまるで意に介さず、続けた。
「利家を、貴様に預ける。こやつは、戦場では千人力の働きをするが、猪武者で危なっかしい。
貴様の『思慮深さ』で、この犬の手綱をしっかりと握っていてもらいたい」
やはり、そうなったか。
俺はもう、観念するしかなかった。
「……身に余る光栄にございます。百姓の身であるこの俺に、そのような大役が務まるかどうか……」
「案ずるな。貴様は、ただ利家の側にいればよい。それで、なぜか物事は良い方へ転がる」
信長様は、そう言うと、再びあの意味ありげな笑みを浮かべた。
「良いか、学人。貴様の初仕事は、間もなくだ」
その言葉の通り、数日後、織田家を揺るがす大きな戦が勃発することになる。
信長様の弟、信勝様が、ついに兄に対して反旗を翻したのだ。
── 稲生の戦い ──
それは、呉学人という百姓上がりの男が、初めて戦というものに直面し、そして、歴史上、最も不名誉なあだ名を拝命する、運命の戦いの幕開けだった。
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