不都合な真実と八つ当たり
石の回廊を抜けた小広間。窓は高く、光は薄い。卓の上には水差しと錫のカップがひと組、封蝋台が二つ、そして沈黙がひとつ。
いつもの執務室ではない。王宮の奥、取り調べが行われている部屋の隣室だ。ノアが一礼し、報告書をルナの机の上に並べた。今日は紙にも喋らせる日らしい。
ルナが報告内容に目を走らせる。室内には沈黙が三つ。しかし、静寂ではない。隣室からは、子供のうめき声が僅かに染み出してくる。ときに悲鳴も。
少年を王宮へ連行し、ルナの私兵へ引き渡した時、立ち会ったノアは驚愕に目を見開いていた。無理もない。少年は、縄で手首を縛られ、薄く割れた額のかさぶたから赤い筋を伝わしながら、俺をにらみ付けていた。
ルナが報告書から目を上げ、ノアへと視線を持ち上げる。
ノアは小さく頷いて応じる。
「簡単にまとめますと……。まず、火を点けた子供……シモンの供述です。『知らない男に金を渡され、松明と小樽を受け取った。夜、白い小屋に火を点けろと言われた』。本人も『やばい疫病持ちを俺たちの近くに住まわせやがって』と日頃から思っていたとのことです」
躊躇なくルナの地雷を踏み抜きやがった。しかし、爆発はしない。ルナは頷き、手を重ねたまま動かさない。組んだ指の節だけが白い。
「次にトラキス公について。公は昨日、王都備蓄から要請分の一部を受領。その中に、現場で見つかったものと同じカーカス樽が含まれていました。そして本日、隊列を率いて東へ発ちました」
ノアはそこで一拍置く。映画俳優がそうするように、間を取る。
「もう一つ。白樹の家の閉鎖布告を触れ回った偽役人について。周辺住人の聞き取りでは、東方の訛りがあった、との証言が」
綺麗に積まれた符号だ。綺麗で、繊細で、どこぞの展示品みたい。『お手を触れないでください、ストーリーが倒壊します』という札を、脳裏で貼り付ける。
「……よく調べてくれました。皆に感謝します」
ルナは顔色ひとつ変えずに言う。が、重ねた両手の親指だけが僅かに震えた。
ノアは首を垂れる。
「いえ……申し訳ございません。これ以上、裁断に耐える証拠となるかは……」
「充分です。これ以上は危険かもしれません。彼を裁けないことは口惜しいけれど、今は……耐える時です」
それがいい。声は澄んで、目は硬い。何人もが、この眼差しに従ってきたのだろう、と納得できる目。見ているだけで、背筋のほうが勝手に姿勢を正す――いや、俺の背筋は自動弛緩機能付きだったな。地球に優しいのだ。
「私は兄上と話がございますので、これで」
椅子が静かに引かれ、裾が石を撫でる。ルナは去る。甘い蝋の匂いだけが辺りに残った。
ノアと俺、二人きり。数秒の沈黙。隣室からの声も、いつの間にか収まっている。
ノアは低く息を吐く。机の角を指先で二度、こつんと叩いた。癖だろうか。顔色は相変わらずだが、表情は少し緩んでいる。嫌な仕事にひと段落――とでも思っているのだろう。
沈黙を破ったのはノアだ。
「すまなかったな。いや、お手柄だった。こんなに早く実行犯を捕まえてくるとはな」
「いや……」
俺は指で机を一度だけ叩く。そして、わざと間を取る。ノアよ、悪いが残業だ。
「……あの子供、どうなるんだ?」
一拍。二拍。三拍。ノアの喉仏が上下した。
「……通常は都市の自治裁判所だ。だが、今回は王家の運営する施設が対象だからな……王国の権威に対する挑戦と受け取られるかもしれん……いや、どちらの裁判でも火刑か、良くて絞首刑は免れんだろう」
声帯が砂を噛んでいるように乾いた声。顔色は羊皮紙より白いのに、目の下だけは鉛色。拳を握っては開き、開いては握る。落ち着かない手の動きが、うるさい。
「酷い話だよな」
「……ああ。だが、人が死んでいる。なにより放火は重罪だ。子供とはいえ」
「いや、そうじゃなくてさ」
ノアが視線を上げる。普段の俺なら、きっとさりげなく目線を逸らす。でも、今は逸らさない。
「貧しいながらに必死で生きてるシモンを利用してさ。今日食べるパンのない子供を小銭で釣って、政治に巻き込んで、あげく火あぶり。いや、社会のお荷物を二つも串焼き肉にすれば、それこそが政治なのか?」
ノアの頬からさらに血が引く。ちょっとした化粧実演会だ。ここまで見事に土気色になると、逆に健康的じゃないかと錯覚する。死人はいつも静かだ。
何も言わないノアに、俺もたっぷりと間を置いてから続ける。
「……なんでシモンを使ったんだ?」
俺が言葉を重ねるたび、ノアの顔色が一段階ずつ落ちていく。白から灰へ、灰から土へ。人間も段階的に土になるんだな。埋葬の準備運動か。今日、ノアにそれが必要ないとは言い切れない。
「どうかな。私には犯人の考えることなど……」
「そこはさ、『トラキス公のような屑の考えそうなこと』とか言って怒りを見せるのが、お前の役回りじゃないのか?」
俺は笑って見せる。
「ほら、いつもみたいに。自分は正義の側にいるんだって態度全開で義憤を表現すんだよ。やりかた忘れちまったか?」
「さっきから何を言って……」
「もう一度聞く。なんで、シモンを使った?」
「だから! 私は犯人の考え」
「お前がやらせたんだろう。お前の理由を訊いてるんだ、ノア」
ノアの目が大きく見開かれる。唇が震える。色はとっくに紫色だ。陽光が雲に隠れたのか、部屋の石色がさらに沈む。
やがて視線が落ちる。首がゆっくりと左右に振られ――続けて、微かに縦に。
部屋の空気がすべて石になったみたいに重くなる。ノアの肩が一度、上下する。脱力していた身体に、突然、芯が通る。呼吸が変わる。覚悟を決めたか。
魔力が空気を硬くした。沈黙が、ガラスのように割れた。椅子が蹴られて後ろに滑る。ノアの手が柄に触れ、音より速く剣が鞘を離れる。
「悪いが、それは二手遅い」
俺は立ち上がらない。油断もしていない。すでに脳内で組み上げていた術式のレールに、魔力を走らせる。左人差し指――銃口。弾速は、ノアが知っている俺のそれより数段速い。空気の層を割り、魔力防御の展開が不十分だった表皮を破り、剣を握った右前腕に穴を穿つ。
金属音。刃は床を打って弾む。痛みが脳に追いつくより先に、俺は机の角を蹴って距離を詰め、右拳を顎へ叩き込んだ。頸椎を揺らす手応え。ノアの首がぐらりと揺れ、膝が折れる。重いものが落ちた鈍い音が響く。
俺の心拍はさほど上がっていない。ノアのも止まってはいない。床に落ちた彼の影が微かに震えて、窓の粉みたいな光が、その上で揺れた。
「……いつ、分かった」
床に片手をついて、ノアが声を搾り出す。かすれているが、目はもう逃げていなかった。
「確信したのは、さっきだよ。悪いが
俺は息をひとつ吐く。あえて目を逸らす。
「私を疑う理由があったとも思えんが」
「本気で言ってるのか? いっぱいあったぞ」
「どこだ」
「お前、最初からトラキス公へ向けて一直線だったろ。偽役人の情報も大して住人から聴取しなかった。必要なかったからだ。そもそもあの日、珍しくお前が施療院に行ったのは、騒動をコントロールするため。おかしな方向に向かわせないためだ。しかも後から東方訛り? あの場にいた貧民の耳で断言できるか?」
「貧民にもいろいろな出自がある。別に不自然ではない」
「それだけならな。他の要素と組み合わせれば不自然だ。トラキス公が犯人でないとすれば、トラキス公を疑わせる材料が揃い過ぎだ。そしてお前はそれに素直に乗っかり過ぎだ」
「トラキス公が犯人かもしれんだろう」
「トラキス公には動機がない。ルナが民衆の反発受けたって『私は忠告もしたぞ』って言いながら、政敵の失点を待てばいいだけなんだ。それとも、あいつは自領でもない王都住人のために手を汚す優しい男なのか?」
ノアが何か言いかけるが、させない。畳み掛ける。
「だいたい、トラキス公が犯人なら、もっと上手くやる。わざわざ足のつく“補給のカーカス樽”なんて使わない。タイミングも良すぎだ。トラキス公がカーカスを受け取ったのが昨日。出立が今日。ここしかないという夜に事件だ。どうせ人を使うのだから、他の日にやればいいだけだろう」
俺は肩をすくめる。
「つまり、『住民の暴走に見せかけたトラキス公の犯行』に見せかけた、誰かの段取りだ。トラキス公の犯行という強固な証拠は出てこないが、王権への挑戦という印象を一部の人間に残せれば充分……いや、奴への濡れ衣は
ここでもう一度、視線をノアの目にやる。
「考えてみれば、このストーリーに沿って動いているように見えるお前には動機がある。施療院を焼くことでルナを守りたかったんじゃないか? こんなことになれば、城内へ施療院を再建なんて、さすがのルナも考えないだろう。ルナを、これ以上矢面に立たせないで済む」
さらに、あたかも『今、思いつきました』というような態で、重ねる。なるべく軽く。
「あ、事業中止になれば、ルナが戦場に赴けない理由もなくなるな。もしかして王太子も一枚かんでたりする?」
ノアの喉が動く。反論でも、言い訳でもない。ただ、飲み下す。
「……三度目だが、もう一度だけ聞く。なんでシモンだった?」
沈黙。窓の外を雲が流れ、部屋の粉光が少しだけ明るくなる。ノアは視線を外し、拳を開いたり閉じたりするのをやめた。
「……何故だろうな。あの時は、ちょうど良いと思ったのだ」
「あの時、痛めつけられるシモンに同情した。小遣いを渡して、少しでも助けたかった。そうじゃないのか。俺が辿り着くとは思わなかったんだろう?」
再び沈黙。今度は、ほんの少し頷きが混じった。
「昨日、シモンのことを多少知ってるような口ぶりだったな。ルナの福祉事業の一環で知ったか? 子供だけで暮らしてるなんて目立つもんな。でも、俺が辿り着いてしまった以上、お前への疑いを補強する悪手だったよ」
ここまで言って、ふと思いつく。今度は本当に『今、思いつきました』だ。
「……施療院で人を殺すんだ。汚い仕事をする、その罪滅ぼしのつもりだったか? だからって子供に人殺しをさせて……」
言いかけると、ノアが初めて烈火のように反論を始めた。
「そうじゃない! 施療院を全焼させる必要なんてなかったんだ! 壁の一枚も焼ければ、それを理由に城外への移転を説得するつもりだった!」
なるほど。確かに、必ずしも殺す必要まではなかったのか。
「そうか。思った以上に、シモンが丁寧な仕事をしてしまったというわけだ。計画はむしろスムーズに進行するんじゃないか?」
「そのようなことっ……!」
ノアの視線が、床の一点に釘付けになる。その一点に、誰かの影が見えているのかもしれない。殺した子供か、これから殺す子供か、ルナか、あるいは自分自身か。
「私を斬るか?」
ノアは乾いた笑みを作る。
「言っておくが、王太子殿下にこのような詰問をする真似は」
「しないさ」
俺は手を開いて見せる。殴る気も、撃つ気もない空の手だ。
「俺はルナを守らなきゃいけない。お前もだろ。なら、ひとりで抱え込むのをやめろ。それだけだ」
やっと、ノアの目に人間の色が戻る。疲労、後悔、決意――ぐちゃぐちゃに混ざって矛盾だらけの色。
ノアは本来、清濁併せ吞むような男ではないと思う。だから苦しむ。
悪いやつじゃない。悪事には向かないくせに、悪事に手を染める。だから、簡単に
ならば俺がその役割をやるか。いや、それも違うか。ノアよりは、いくらか適任だろうが。
俺は最後に机の角をこつんと叩く。
そして、ノアを残して退出し、自室へと向かう。 歩きながら、少しずつ冷静になる。同時に、先ほどまでの自分が
白樹の家が燃えてからずっと、俺はどこか
今回の事は、もしかしたら失敗だったかもしれない。ノアがどう思ったか分からない。俺は子供のように『はいはい! 僕分かっちゃったもんね!』とはしゃいでみせただけなのかもしれない。
――あるいは、小さな仇討ちの真似事だったのだろうか。
犠牲者が見ていたとしても、結末は期待外れ。そんな筋もない。ただの自己満足。八つ当たり、と言ったほうが、いくらかしっくり来るような気がする。
小火が出たので、今は反省という名の消火活動。明日には乾いてまた火遊びをするのかもしれないが、少なくとも今夜はマッチ箱を閉じておく。串焼きは、休業だ。
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