言葉の意味、命の意味
朝の空気はやけに乾いて、冷たい。
ララと剣を振る。エリサも端で基礎の型。
「へえ、基礎はできてるな。セトよりだいぶマシだ」
休憩。ララはエリサに見やり、目を細める。
エリサは剣術の教育を受けている。魔法も使える。ついでに容姿は信じられないほど整っている。剣を構えるその姿も、様になっていた。汗が銀髪を伝い落ち、砂に吸われていくのを眺める。
伝令が歩み寄ってきた。
「自警団からの知らせです。夜間に火災があり、ルナ王女殿下の施療院が全焼したとのことです」
俺たちは顔を見合わせ、走った。
全焼したとのことなので急ぐ意味もないのだが、それは口にしない。
白い小屋は、白くなかった。
黒く、崩れ、小屋ですらなかった。
自警の連中は、近づきたがらず、遠巻きに棒で地面をつついている。施療院だから、だ。
建物の性質上、他の建物とは空間を隔てており、延焼の心配が少ない。無理に消火をしなかったことも、全焼の原因だろう。
焼け跡の縁に、人が三つ四つ、崩れたように座り込んでいた。灰が雨のように肩に降り、誰も払わない。風が変わるたび、焦げと脂と薬草のにおいがむっと立つ。
そのとき、靴音が灰を割って近づいた。ルナとノアだ。従者は後ろに下げ、二人だけが歩幅を合わせて敷地内へ入ってくる。
(ノア……昨日より顔色が悪いな……)
ルナは裾を摘まんで一度だけ持ち上げ、すぐ離した。躊躇がない。ララが支える女の前に膝をつき、目線の高さを合わせる。
「……ルナ様だ……!」
布で顔を覆っていた女が、ルナの姿を見つけた。立ち上がろうとして膝が抜け、そのまま膝で近寄ってくる。ルナは反射的に手を伸ばし、肩を支えた。
「落ち着いて。話せるところからでいいのですよ」
女は何度も頷き、言葉が出るまでに数呼吸を要した。
「ミーナが……脚の悪いあの子が……逃げ遅れて……天井が落ちて……寝台ごと……! 夜は修道女様もいなくて、患者だけで……私も……私も、あの子のもとへ戻ろうとしたのに……もう、炎が壁を……!」
肺の底からしぼり出すような嗚咽。ルナの指が、女の手を包むように添えられた。俺には出来ないことだ。
(ミーナ……確か、あの時の……)
周りの患者たちも、各々が何かに縋るように口々に言う。
「火の気なんてなかった」
「夜中に火を灯したことなんてない」
「風もなかったのに、急に明るくなって」
薪だってそれなりに高価だ。この世界で夜間に灯りを使うのは金持ちだけ。
ルナは指輪を外し、女の手を包んだまま、ゆっくり呼吸を合わせる。震えが呼吸の拍に乗って、少しずつ細くなる。
「本当に火の気なんて、無かったんです……気づいたら、壁から炎が……」
「わかりました。大丈夫。あなた達が責めを負うことはありません」
言葉は短い。ルナは患者達に毛布とエールを配らせる。
ノアは一歩退いて全体を見渡し、眉間に皺を寄せた。顔色は悪い。何度も見た顔色だが、一段と悪い。
「ノア」
ルナは立ち上がり、灰を払うでもなく、そのまま命じる。
「昨日の件に加え、この件も調査を」
ルナは続けてこちらを振り向く。灰で白くなった頬でも、目は澄んでいる。
「セトなら何か分かることもあるかも。あなたにもお願いします。ララにも」
ルナはもう一度、患者の輪に戻った。泣き崩れる背中に手を当て、同じ高さの声で言葉を置いていく。
風邪が吹く。灰が舞う。俺は一歩、焼け跡に踏み込む。靴底が、炭化した梁の破片を踏み砕く。
最初から気になっていた臭い。僅かに混じるのは、ゆで卵と屁を混ぜ合わせて腐敗させたような悪臭。
「硫黄の匂い……これ、火薬じゃないのか」
俺が呟くと、隣でノアが顔をしかめた。
「この臭いはむしろ……軍用のカーカスに思えるな」
カーカス。獣脂、松精油、硫黄、硝石などの混合物で、投石器から射出しての火責めなどに使うらしい。ナパームのようなものだろうか。確かに脂の燃えた臭いもするが、人が焼け死んでいる現場なので考えないようにしていた。
(それにしても、どこのご家庭にもあるような代物ではない。殺意高すぎるだろう)
「セト様、あれ」
焼け跡の端に、煤けた鉄の輪が転がっていたのを、エリサが指で示す。
「樽の
ララがそう言いながら、はっとする。
「東方の戦域に送られているカーカス樽が、ちょうどこのくらいの大きさだったはずだ」
そう言うノアの顔色は、現れた時よりさらに酷い。
「私はその線から探ってみる。お前たちも何か分かったら教えて欲しい」
言い残し去って行く背中は疲労だろうか、悲嘆だろうか。
黒い煙はもう上がっていない。熱も立ち込めてはいない。なのに、胸の奥にだけは、まだ火がくすぶっている気配が続いていた。ノア、お前は――。
風が一陣。灰が舞い、赤い宝珠が喉元で小さく鳴った。気のせいだ――と、言い切るには悪い予感が濃すぎた。
(それじゃあ次は……やらないわけにもいかないよな……)
崩れた梁の角度と、炭になった壁の剥離の仕方をざっと見る。火の回りは外周から、内に向けて。寝台の位置は――柱の根元から三歩。その手前で一度、膝をついた。
「踏むなよ。ゆっくりだ」
外套を持ち上げて、口と鼻を覆い、軽く巻き付ける。エリサとララもそれに続く。
簡素な小屋だ。焼け落ちた残骸の量はそれほどでもない。倒れ掛かった梁の腹に、焼け残った扉板を噛ませる。ララが肩で持ち上げ、俺が石で固定する。ぎし、と軋むが、まあ大丈夫だろう。二人で軽く荷重を試す。崩れない。作業に入る。
まずは軽いものから。見えている炭片を脇へ投げ捨てていく。次にちょうど良い形状の炭片で、層になっている灰を撫でるように退けていく。ざら、ざら、ざら。ときどき、奥で『ぷつ』と水分を感じる生々しい音が混じる。やめてくれ。
「エリサ、風を頼む。そよ風でな」
少し口ごもったエリサだが、すぐに俺の意図を察すると詠唱を始める。風魔法。俺には使えない。術式を完璧に模倣したつもりでも発動しなかった。講師役の宮廷魔術師によれば、俺の魔力出力回路の性質では扱えないらしい。相性、向き不向きというやつだ。
エリサの作った風が水平に、積もった灰の表層を撫でる。それは薄墨色の帯になって横へ滑り、空気に混じる。マスクをしていても少し喉がひりひりとするのは、この下にあるはずの
露わになった大きめの炭片を三人で退ける。焦げの下から、四角い焦げが出現する。
そこで一度手を止める。灰に閉じ込められていた熱がこみ上げてきたからだ。どこかで火がまだ息をしていないか――どうやら大丈夫だ。
「ここ、空洞が残ってるわ」
――誰が喋った? と見回すと、どうやらエリサだ。丁寧な従者口調をかなぐり捨てている。普段からそれでいいんだぞ、という思いは一旦脇にやり、のぞき込む。ここに残っていた空気が熱せられ閉じ込められていたのだろう。おそらく、寝台が崩れ出来上がった空間。
そこに積もった灰を自分のほうへ寄せる。風魔法は使わない。灰が空洞の中を舞ってしまう。手首だけを動かす。勢いをつけると、
指先に、違う硬さが当たった。木でも鉄でもない。骨でもない。皮膚の名残――木材だったものと変わらない硬さ。しかし、その下には温度と共に柔らかい弾力を残している。
俺が動きを止めたことで、ララはなにかを察したようだ。『代わるぞ』というジェスチャー。
「いい。……俺がやる」
なぜ、俺はこんなことを言うのだろう。エリサにやらせるのは違う。ララにやらせるのも何か違う。だからと言って、贖罪の意識でもあるのだろうか。いったい何の。誰に対して。
さっき聞いたばかりの、この子の名前。なんだったか。記憶の浅いところでつかえる。寝台に座り、ルナと共に祈りを捧げる少女の姿が、脳裏に浮かんですぐに消えた。
くるぶしの丸み。そこから上に向かって、そっと灰を払う。足首、脛。火は布を舐め、布は皮膚を舐め、皮膚は肉を守って最後に固まる。そういう順番で壊れる。
三本の指の幅だけで少しずつ、灰を剥がす。やがて、縮こまった両腕も露わになる。拳を握り、肘と膝を屈曲させ、前屈姿勢。胸の前で何かを抱えているようにも見える。
抱えたものは、もうとっくに灰だけど。犬だか熊だかよく分からない奇妙な動物の姿が脳裏に浮かんで、やはりすぐに消えた。
「……見つかったよ」
瓦礫から立ち上がり告げる。ララが支えに体を預けたまま、目を閉じる。エリサが布を濡らし直し、遺った俺の指のあいだの灰を、払う。
ルナがこちらへにじり寄り、手を伸ばしかけて一度は止める。迂闊に触れれば壊してしまう。そっと、炭化した小さな手に、自らの手を添える。そして、祈り。指が印を結び、声は喉の奥だけで震え、涙の粒が灰に落ちて、丸い黒点になった。
「……ミーナ……なぜこんな……ミーナ……」
繰り返される名前。そう、彼女の名前はミーナだ。
俺は寝台の枠組みだったものを少し整え、周囲に残材で囲いを作る。誰かがうっかり踏み抜かないように。世界の半分はうっかりで回っているから、こういう処置は必要だ。
「ごめんな」
小さな人型の炭に向かって言う。謝るべき相手はここにいない。謝るべき相手だったものがあるだけ。いたとしても、俺の声なんて聞きたくないだろう。
「仇をとってやるわけには……いかないかもしれない」
正義を、便利な道具にするつもりはない。
それでも怒りはある。あの子に少しも寄り添えなかった男の身勝手な怒り。そして、その怒りに、自分の都合で蓋をする。人間は、俺は、そういう政治的な動物だ。
ルナは祈りを終えて顔を上げた。睫毛が濡れて、灰の光をひとつ弾いた。
俺は立ち上がり、梁の支えをもう一度確かめる。崩れない。
いつの間にかララが泣いていた。俺に抱き着く。『俺を抱きしめる』という表現のほうが似合いそうな女だが、今はただの女に見えた。
「……ありがとう」
何度も、そう言う。嗚咽交じりで。その真意までは、俺には察せられなかった。
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