第三章
鎖
こちらの世界の言葉が、急に耳に馴染みはじめた。
音の連なりに規則が見えてくると、意味がほどける。
書記官の爺さんが持ってくる、図版付きの初学者向け読本はよくできていた。
そして、この本を理解すると、次の段階で時間は掛からなかった。
魔法の基礎も同時進行だ。
法則に従い、声・文字・図・身振りといった“言語”を束ねることで効果を発動――やはりコンピュータのプログラムに似ている。
解析を行い理解すれば、それは別に神秘でも何でもなく、ただの構築工程に過ぎない。
言葉が分かると、逆にきつい現実も分かる。
俺は王女――ルナから離れると、死ぬ。
「あなたは巫女――王女ルナ様から離れると魔力供給を受けることが出来ません」
宮廷医師と魔導師が並んで告げる。
「えーと、魔法が使えなくなるの?」
彼らは目を合わせ気まずそうな沈黙の後で告げた。
「それもそうなのですが、生命が長くは持たないかと」
言葉の意味を咀嚼するのに少し時間が要った。
おいおい。いきなり何を言い出すんだこの野郎。ぶっ殺すぞ。
「長く、とは? 離れると、ってどのくらい?」
だいたい魔力の供給がないと死ぬってなんだ。こっちの世界に来るまでは、そんなもんなくても毎日元気に過ごしてたはずだぞ。
「セト、大丈夫ですよ。体内に魔力があるので、供給が途絶えてもすぐにどうという話ではありません。範囲外へ出ても、私の元へ戻ればいいだけです」
彼らの後ろに控えたルナが言う。冗談じゃない。長く離れれば、結局は死ぬんじゃないか。
制止の声を背に置き去って、外へ飛び出した。
まずは王宮の庭園――五十メートルほど。
掌に魔力をぎゅっと込め、火球を空へ撃つ。
乾いた轟き。熱が頬を舐め、庭丁と近衛の視線が一斉に跳ねる。何事か、とざわめきが起きても振り返らない。
(魔力が戻ってくる……ちゃんと回ってる)
自分の身体との対話。意識すれば、さっき放ったぶんが、糸を伝って胸の奥にゆっくりと補填されている感覚。供給だ。これが、どこまで届くか。
内城門を抜ける。斜面の勾配が緩んで、環状の大道に出る。外城門――メインの門は、ここから見て一直線、およそ一キロ先だ。王宮から最も遠い出入り口。そこへ向けて、石畳を蹴る。
市中の目がこちらに流れてくる。耳も。
三百メートルほど離れただろうか。もう一度、火球。
――魔法の出力に変化はない。だが、回復が遅い。糸がさっきより細く、張りも弱い。
周囲のざわめき。知ったことか。
走る。さすがに全力ではないが、それでも速い。
城門前広場――目算で一キロメートル。
そこで、“それ”ははっきりと切れた。
供給が途絶える。
さっき消費したぶんも戻ってこない。胸の奥で続いていた温い細流が、一瞬で砂に染み込むみたいに消え失せた。
身体そのものに直ちの変調はない。体内に蓄えた魔力で、まだまだ持つ。だが、分かる。
(ここが限界だ。これより外は、命綱なし)
城外に踏み出す自分の姿を想像しただけで、背中が冷たく汗ばむ。足を門の縁で止め、踵を返す。
◇
書庫の使用は許可されている。調べるしかない。
王立書庫の扉は重く、油のにおいがする。目録をめくり、まずは基礎理論の棚。
『王立魔術院編纂 基礎魔性学概論・上』。羊皮紙だろうか。厚手の紙。墨色は深く、字は癖がない。めくると、冒頭にこうある。
一、魔素は天地の万物に遍在す。
二、其は水に溶け、気に混じり、道ばたの石にさえ宿る。
三、生きとし生けるもの、食息の営みにより魔素を取り入れ、内にて魔力を錬る。
四、魔力は物に働きかけ、性を転じ、別の物を生ぜしむ。
五、我らが身もまた、取り入れた食と魔力とにより、そのかたちを保つ。
——右、斯くの如しを、この世界における生命の常態と称す。
喉が乾く。生命の維持そのものが“魔力”に依存している。
つまり、魔導師たちの言う通り、魔力の供給が途絶えれば『長くは持たない』。
医学の棚に移る。病気についての記述を探す。毒、伝染病、呪い。
呪いという言葉が妙に現状に刺さるが、おそらくそうではないと、頭から振り払う。
分厚い、妙に擦り切れた背表紙の本。
『王都医籍・第七巻 雑病門』とある。しばらく、ぱらぱらとページをめくり続け、見出しが目に留まる。
魔力生成不全。
体内における魔力の錬成、著しく衰うる病なり。
軽症にては倦怠・眩暈・冷えを訴う。
重しときは肉の維持かなわず、毛髪脱落し、皮膚は剥がれ、孔という孔より血を下し、終いには息絶ゆ。
――読んだことがある。
いや、正確には似たものを。昔読んだ被曝記録の描写が、嫌な重なり方で脳裏に浮かぶ。
細胞分裂の手段を断たれた身体が、内側から崩れていく。
ページを押さえる指が震える。紙がかすかに鳴り、震えが本ごと伝わる。
(俺は、首輪を付けられている。命綱の先にいるのは、あのくそ王女だ。綱が切れれば、俺は……)
喉の奥が砂を嚙むみたいにざらつく。胃の底で、冷たい鉛が転がる。
下手に逆らえない立場だとは思っていた。しかしこれほどの状況に置かれていたとは。奴隷。それも首輪にとびきりの爆弾を仕込まれた奴隷。
「セト!」
駆ける靴音。書庫の静けさを裂いて、そのくそ王女が現れた。
頬は少し上気し、目は真っ直ぐ。光り輝く、いつも通りの“やさしい顔”。
けれど、今の俺には刃の光沢に見える。
訊くべきことはひとつだ。
逃げ道のない問い。避けていた問い。
「ルナ。俺は、なぜこの世界へ来た? お前が、俺を呼んだのか?」
瞬き一つぶんだけ、ためらい。
すぐに、肯定。首が小さく縦に動く。
続けざまに、国の窮状、使命、救いの話。
口が動き、音が流れているのに、言葉が意味を結ばない。内側で何かが軋んで、結び目がほどけていく。
(呼んだのはお前で、鎖の端はお前の手の中にあって、俺はここで、繋がれている)
胸の奥の空洞が、ゆっくり拡がる。
重い沈黙が、書庫の埃と一緒に喉の奥に溜まっていった。
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