第6話「辺境試合の夜」

 湖に日が沈むと、八升の区画に火が灯った。焚き火ではない。昨日作った灯りの魔道具が三十基、湖面の周囲に等間隔で並び、橙色の輪を描いている。その中心に集まったのは、傭兵団、村の男たち、女たち、子どもまで。今日は“辺境試合”――剣を抜かぬ戦の訓練の日だ。


 クラリスは高台に立ち、短い宣言をする。

「今日の試合は、国を守る“型”を作るためのものです。剣を抜かずに、砂犬の群れを退ける。夜警、走り、灰撒き、避難――それぞれの速さと確実さを計ります。勝敗は“印”で示されます」


 人々の表情は硬い。しかしそこには恐怖だけでなく、競う熱もある。ドミトリが大声で号令をかけた。

「剣を抜かずに勝つ――これこそ辺境の戦だ! 全員、胸を張れ!」


 合図の笛が鳴る。第一刻、夜警の合図役が灯りを掲げ、灰を撒く者が走る。フェンが旗を駆け抜け、風向を叫ぶ。

「北北東、強!」

 ユリウスが記録を取り、クラリスが即座に堰板の開閉を指示する。


 第二刻。子どもたちの避難。マリナが率いて小屋の陰へ誘導し、イングリットが扉の前に立つ。傭兵団の若者が笑いながら子を抱えて走る。笑い声に緊張が和らぎ、子らの目から涙が消える。


 第三刻。灰撒きの合図が遅れた。群れ役を演じる男たちが声を張り上げ、混乱を再現する。

「遅れた! どうする!」

 フェンが息を切らしながら駆け込み、砂を掴んで撒いた。灰が舞い、声が収まる。クラリスは木札を取り出し、彼の袋に印を入れた。

「遅れても、動いたことが勝ちです」


 第四刻。最後は全員で灯りを掲げ、湖面を照らす。風が強まり、火の輪が揺れる。だが、誰も退かない。剣を抜かずに立ち続ける。その姿は、確かに“戦”だった。


 試合は夜半で終わった。全員が汗に濡れ、灰で顔を黒くしながら、笑っていた。クラリスは帳面を開き、総印を数える。

「総印三百二十五。……辺境の民は、今夜“国の兵”になりました」


 歓声が上がる。子どもが袋を振り、大人たちが肩を叩き合う。ドミトリは剣を掲げ、声を張った。

「我らの剣は、この国の名に従う! 女王クラリスに!」


 クラリスは首を振る。

「女王ではありません。――けれど、この地の“契りの守り手”にはなります」


 その言葉に、群衆は一層大きな声を上げた。


 夜更け、会合所に少数だけが残った。クラリス、ユリウス、イングリット、ドミトリ、ルーカス。


「見事だったな」ルーカスが言う。

「だが王都の耳は近い。今日の試合も、いずれ噂として届くだろう。辺境に“軍”ができた、と」


「軍ではありません。“国の手”です」クラリスはきっぱり答えた。

「けれど、軍と呼びたい者は呼ぶでしょう」ルーカスの声は静かだった。

「だからこそ、今のうちに旗を掲げる必要がある」


 クラリスは机の上に昨日描いた紋を広げた。輪の中に三点、“契・灯・風”を示す印。

「これを“辺境の旗”とします。旗の下で働いた印は、すべて“国の印”として数えられる。王都が軍と呼ぼうと、我々は“国”と呼ぶ」


 ドミトリが笑い、拳を握った。

「なら、俺たちはその旗の兵だ」


 ユリウスは目を輝かせた。

「硝床も順調です。もし量が取れれば、交易院に“火薬”の名で売れる」


 ルーカスは険しい顔で頷く。

「王都の戦争屋どもが黙っていないだろうな。だが、逆に利用できる。力を恐れる者は、取引に走る」


 クラリスは深く息を吸い、静かに告げた。

「今日の試合は“礎”です。次は“証明”を――辺境塩の第一号を、王都に届けましょう」


 翌朝。

 湖面に朝日が差すと、八升の区画から規格塩が袋に詰められて運び出された。白旗の紋が押され、二重縫いで口が閉じられている。


 クラリスは袋を抱きしめ、村の人々に見せた。

「これは、我々の“国の証”。これを王都に届け、口にさせます。味は法より速く人を動かす。――これが私たちの剣です」


 歓声が湖に響き、塩の結晶が陽にきらめいた。

 黄金の大地は、確かに“国”の鼓動を始めていた。

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