第5話「礎を据える者たち」
翌朝、湖は淡い乳白色の靄を纏っていた。陽が上がるとともに靄は薄れ、塩の結晶が霜柱のように立ち上がる。クラリスは岸辺に板を渡し、仮の見張り台から全体を見下ろした。
湖の東岸から西岸へ、浅瀬に白い帯が伸び、ところどころに黒ずんだ斑点がある。ユリウスが望遠鏡もどきの筒を覗き込み、斑点の位置を板図に写していく。
「黒い部分は不純物が多い層だ。昨夜の風向きと一致する。――ここを切り分け、塩床を“区画”しよう」
「区画?」イングリットが首を傾げた。
「塩を“育てる畑”に見立てるの。四角に仕切って、水の出入りを人の手で制御する。運任せを半分にし、もう半分を技術に置き換えるのよ」
クラリスは棒で砂に線を引いた。湖岸に沿って長辺を取り、横に溝を等間隔で走らせる。四角い升目が並ぶ図が出来上がる。
「一辺は八歩。これを“八升(やっしょう)”と呼ぶわ。原因は単純でいい。計測は足で済むから」
「八升、了解」イングリットが短く復唱する。
「溝の深さは膝下。木枠で堰を作り、板で開閉する。昼は風を入れて蒸発を促し、夜は閉める。風が強すぎる日は板を半分だけ開ける。――それから、結晶の粒を均す“ならし板”を作る。表面の凹凸が少ないほど、粒は揃う」
集まった者たちの目が、少しずつ“作業の目”に変わっていく。ドミトリ率いる傭兵団も混ざっていた。粗剛な腕に縄を巻き、杭を打ち、木を担ぐ。
「剣より重いな」
「重いものほど、国に残るわ」
クラリスの言葉に、ドミトリは歯を見せて笑った。
午前の作業計画を配り終えると、傭兵団の一角から小競り合いの声がした。細身の青年が仲間と肩をぶつけ合い、苛立ちを露わにしている。
「名は?」
「……フェン、です」
「剣の腕は?」
「隊では三番目に速い」
「では、試練を与える。“速さ”を、ここで役立てて」
クラリスは八升の端に小旗を二十本立て、指示した。
「今から“風見の走り”をやるわ。旗一本ごとに風向きを口で報告、ユリウスが記録する。走りきるころには、今日の“開け板”の角度が決まる。あなたが速いほど、塩は均一になる」
フェンは目を瞬かせ、それから唇の端を上げた。
「任せてください」
彼は地を蹴り、旗から旗へと駆けた。息を切らしながら「北北西、強」「北、弱」「北北東、強」と叫ぶ。傭兵仲間が冷やかしかけたが、ドミトリの一喝で黙った。
走り終えたフェンは肩で息をしながら、こぼすように笑った。
「剣の試合みたいだ。勝ち負けはないのに、勝ちたい気がする」
「勝つ相手は“昨日の自分”よ。毎朝やるわ」
フェンは頷き、目の奥に競う炎を灯した。
昼が近づくころ、ユリウスが湖岸の砂を掬い、匂いを確かめた。
「塩の下、土の臭いが甘い。――硝の気配だ」
「硝?」
「火薬に使う硝石。正確に言えば、硝酸塩の層だ。干ばつの年ほど、地表に析出しやすい。……“砂の下の金”の一つは、これかもしれない」
クラリスは息を飲んだ。
「塩に加えて硝。流通に乗せられる?」
「乾いた気候、家畜の糞尿、木灰――材料は揃ってる。窪地に“硝床”を作り、浸出・再結晶を繰り返せば採れる。ただし、時間が要る」
「時間は“手”で短縮できる。人を割り振るわ。――イングリット、夜警の手から二人、日中の交代を回して硝床の見張りにつけて」
「承知した」
会合所へ戻ると、王都方面からの伝令が待っていた。馬は汗に泡を散らし、乗り手は灰色の外套に交易院の小紋を留めている。
「報せだ。王都で麦の相場が跳ね上がった。北の穀倉地帯で虫害。――三週間で二割高、さらに上がるだろう」
周囲に緊張が走る。クラリスはすぐに帳面を繰り、指で机を軽く叩いた。
「計画変更。塩の一部を“麦の先買い”に回す。隣領の小領主に今すぐ使者を。条件はこう――塩袋百で、麦袋百二十を“収穫前に契約”。渡しは収穫後でいい、ただし“欠配”の場合は利付五で翌年繰り延べ。保証は私の名と、この湖の印で」
ルーカスの目が鋭くなる。
「強気だな。だが通る。今は皆が“確実”を求めている」
「通さなければ、冬に誰かが死ぬ」
クラリスは静かに言い、使者の紙に印を押した。
午後、八升の溝掘りが本格化すると、土の硬い層に当たった。鋤が跳ね、男たちの額に汗が滲む。
「水を撒いてから掘れ!」フェンが叫び、走り回って桶を渡す。
「ならし板はこちらだ!」ドミトリが木工に長けた男を連れてきて、板の端を滑らかに削る。
クラリスは歩きながら、それぞれの動きを目で拾い、木札の箱から印を取り出して配った。三角、丸、四角――印が掌に積もるたび、誰かの動きが軽くなる。
印は、目に見える約束だ。目に見える約束は、足を前に出す力になる。
作業の合間、イングリットが耳打ちした。
「南の道に、見慣れない影。偵察を出す」
「三人で。逃げ足の速い者を」
イングリットは即座に頷き、砂の影に消えた。
夕刻前、偵察が戻る。
「王都の色の旗を持つ二騎。偵察か、それとも……」
ルーカスが短く息を呑む。
「宰相派の“鼻”だな。様子見だ」
「迎えましょう」クラリスは即答した。
「拒めば“何か隠している”と受け取る。見せるものは、今ここにある」
馬蹄の音が近づく。二騎は砂塵を抑え、きちんと止まった。先頭の男は細長い顔、薄い笑みを唇に貼り付けている。
「お噂はかねがね。辺境で“女王ごっこ”とは、楽しげだ」
イングリットの肩がぴくりと動いたが、クラリスは手で制した。
「王国交易院の通告に基づき、私はこの地を預かっています。見学なら歓迎します。――ただし、手を汚す覚悟があれば」
「ほう」
クラリスは男に“ならし板”を渡し、八升の一つへ案内した。
「塩を“作る”とはどういうことか、手で覚えていただきたいの。板を押し、表面を均す。あなたの手で風を感じれば、数字の意味もわかるでしょう」
男は一瞬たじろいだが、侮りは顔に残したまま、板を受け取った。足を入れると、塩のざらつきが靴底に伝わり、板が重くなる。
「……想像以上に、骨が折れるな」
「国づくりは、いつだって骨が折れるわ。けれど骨は、折れれば太くなる」
男は言葉を失い、額に汗を浮かべた。やがて板を返すと、礼にも似ぬ会釈で馬に戻った。
「ごっこ遊びの割には、真剣なことだ」
「ええ。真剣よ」
二騎は去った。見送りながら、ルーカスが低く笑った。
「見せ方が見事だ。侮りを“計測可能な労苦”にぶつける。王都の手練でも、汗には弱い」
夕暮れ。作業を切り上げると、学び舎の準備に取りかかった。板片を並べただけの机、壁に吊るした字札、数の石。クラリスは黒い板に大きく“あ”と書き、その横に一、二、三の点を打った。
「字は音、数は形。音と形を結ぶ。――今夜は“契り袋”の数え方を練習しましょう」
子どもたちの目が、火を映して丸くなる。マリナが優しい声で点を数えさせ、ユリウスは金属管を外して“風の歌”を聞かせる。
「風は見えない。でも、音でわかる。数も同じ。見えないけれど、手触りがある」
フェンがいつのまにか入口に立ち、照れくさそうに腰を下ろした。
「俺にも、数を教えてくれ」
「もちろん。剣の速さは、数で鍛えられる」
フェンは笑い、子どもたちの間に混じった。
夜半、会合所に少人数が集まった。クラリス、ユリウス、イングリット、ドミトリ、そしてルーカス。灯りは最小限。帳面だけが白く浮かぶ。
「本日の印、総数は二百三十一。内訳――溝掘り百二、ならし板五十六、夜警三十、学び舎二十三、井戸の管理二十。よく動いたわ」
イングリットが腕を組み、満足げに頷く。
「夜は静かだった。砂犬の気配も遠い」
「硝床は?」
「窪地を二つ確保。明日から灰と土を混ぜて寝かせる」ユリウスが答える。
「良い。――次に“剣の試練”を決めたい」
クラリスはドミトリを見る。
「あなた方傭兵団の“居場所”を確固にするために、剣も“約束”に乗せましょう。三日後、“辺境試合(へんきょうだめし)”をする。相手は、自然と作業だ」
「自然と、作業?」ドミトリが目を細める。
「砂犬の接近に合わせ、夜警、灯り、灰撒き、子の避難、そして“風見の走り”。これを“刻”で区切り、連携の速さと確実さを計る。勝敗は“被害の少なさ”と“印の積み上げ”で決める。剣は最後まで抜かない」
沈黙のあと、ドミトリが笑った。
「面白い。剣の誇りを、剣を抜かずに示せというわけだな」
「ここでは、そういう剣が一番強い」
「受けよう。団員にも誓わせる。――ただし、ご褒美は?」
「“塩の白旗”を与えるわ。白旗を掲げる家は、三日、夜警免除。代わりに学び舎で先生をするの」
ドミトリは腹の底から笑い、手を叩いた。
「よし、やるぞ!」
会合が終わり、皆が散ったあと、ルーカスだけが残った。灯りの芯を短く切り、声を潜める。
「一つ、気がかりがある。今日の“王都の鼻”――あれは宰相派の筆頭格、オーベルン伯の手先だ。伯は“塩も硝も貨幣に変える術”を持つ。つまり、あなたと同じ盤面を見る目を持っている」
「なら、早く“旗”を立てないと」
「旗?」
「形にして、世に見せる旗。交易特区の勅許が下りる前に、ここの“商品”を王都の口に入れてしまうの。味覚は法より早く人心を掴む」
「つまり――」
「“辺境塩・第一号”を作るわ。粒度を三段に揃え、袋に“契”の印と“湖の紋”を押す。袋口は二重縫い。偽物を嫌う“面倒くささ”を、最初から纏わせるのよ」
ルーカスは目を細め、唇の端を上げた。
「あなたは本当に、数字と商いの女王だ」
「女王ではないわ、まだ。けれど――」
クラリスは外の闇を見た。湖面は月を砕いてちらし、八升の区画は黒い影の市松に沈んでいる。
「この大地の手は、確かに動き始めた」
その夜更け、クラリスはひとり帳面を開き、細い字で“礎(いしずえ)”と書いた。
一、八升区画 二十面開設。堰板十六枚追加。
二、風見の走り 毎朝二十旗。記録者固定、報告者輪番。
三、硝床 二基起工。灰と土の比率一対三。
四、麦の先買い 隣領へ使者派遣。返礼塩袋百用意。
五、辺境試合 三日後夜半、刻割り表作成。
六、第一号商品 粒度三段、袋規格、紋章図案。
最後の行に、ふとペン先が止まった。
――紋章。
彼女はしばらく考え、紙に小さな図を描いた。輪の中に三つの点。輪は湖、三点は“契・灯・風”。輪の外に短い線が八つ――八升。
質素で、子どもでも描ける。偽物を容易に見破れる。
「これでいい」
彼女は小さく頷き、灯りを落とした。
翌明け方、冷え込む空気の中で、八升の一角に最初の“規格塩”が袋詰めされた。袋口を縛り、紋を押す。
「辺境塩、第一号」
マリナが息を呑み、掌で袋の表面を撫でる。
「手の音がする……」
「手の音?」
「ええ。みんなの手が、ここに入ってる音」
クラリスは微笑み、袋を胸に抱いた。
「この音を、王都に届けましょう」
背後で、フェンが笛を吹いた。短い合図――風向、北。
今日も乾く。今日も、積み上がる。
クラリスは湖を振り返り、低く、しかし確かに言った。
「礎は据わった。ここからは、積むだけよ」
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