第4話「王国交易院の影」
日が傾くころ、塩湖の東岸に仮の会合所が設けられた。といっても、崩れかけた祠の壁に布を張り、机代わりの板を置いただけの粗末な場所だ。しかし、そこに集まったのは村の古老ガラン、夜警を率いるイングリット、そして王国交易院から来た査察官ルーカス・ヴェイル。クラリスは彼らの視線を受け止めながら、机に新しい帳面を置いた。
「これは本日の“契り袋”の集計です。井戸の修繕に従事した者が二十七名。夜警に加わった者が十五名。学び舎の準備に協力した子が八人。――この数は、私が誤魔化すことも、隠すこともできません。袋の中身はそれぞれが持ち帰り、月末に皆で数えるからです」
ルーカスは帳面を手に取り、目を細めた。
「なるほど。王都の役所に比べれば稚拙だが、ここでは十分すぎるほどの透明性だ。……だが、ひとつ問いたい」
「どうぞ」
「この仕組みは“信頼”に依存している。裏切りや、怠け者が現れたらどうする?」
クラリスは即座に答えた。
「怠け者は必ず出ます。ですが、“記録”があれば、怠け者を怠け者のままにしておくことはできません。袋に印がない者は、皆の前で明らかになる。私は罰するつもりはありません。恥じるかどうかは、その人自身と家族次第です」
沈黙。火の爆ぜる音が、議論の間を満たした。
やがてルーカスは小さく笑った。
「王都の法廷よりも、人の目のほうが恐ろしいかもしれんな」
その時、外から砂を蹴る音が近づいた。見張りの少年が駆け込み、叫んだ。
「旅人だ! 湖の南から! 武装してる!」
イングリットがすぐに立ち上がる。
「また盗賊かもしれん」
クラリスは冷静に指示を飛ばす。
「灯りを三つ。見張りを広げて。戦う準備はするけれど、まずは話を」
数分後、夕陽に照らされて現れたのは十人ほどの集団だった。粗末な鎧に剣や槍を携えているが、統一感があった。盗賊にありがちな乱れた動きではなく、列を組んでいる。
先頭の男が兜を外し、深々と頭を下げた。
「私はドミトリ・ハルバード。北辺境から流れてきた傭兵団の長だ。王都に居場所を失い、この地で働き口を探している。……噂を聞いた。『辺境に女の王が立った』と」
ざわめきが広がる。
クラリスは一歩前に出て、彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「私は王ではありません。まだ“国”を作り始めたばかりの、ただの追放令嬢です」
「だが、あなたは約束を守る。王都で聞いた噂とは違う。もし雇っていただけるなら、我らの剣を差し出そう」
イングリットが眉をひそめる。
「傭兵を抱えれば口減らしどころか食糧が減る。飢えた剣は危うい」
クラリスはしばし考え、帳面を手に取った。
「ドミトリ殿。あなた方を雇うには、まず“契約”が必要です」
「契約?」
「剣を振るうのは構いません。ただし、労役の印も同じだけ稼いでもらいます。水路を掘り、塩を運び、学び舎で子どもに戦の知恵を教える。剣だけでは、この国には居場所はありません」
ドミトリは一瞬目を見開き、それから豪快に笑った。
「面白い! 王都の貴族は剣しか見ない。だがあなたは、剣を人と同じに扱う。よかろう、我らは剣と腕で契約を結ぶ!」
人々の間に驚きと安堵が広がる。クラリスは静かに頷いた。
「では、あなた方の契り袋を今作りましょう」
マリナが急いで袋を縫い、ドミトリら傭兵団に手渡した。粗野な男たちが袋を受け取る姿は奇妙に見えたが、その目には不思議な真剣さが宿っていた。
夜、焚き火を囲んで人々が散ったあと、クラリスはルーカスと向かい合った。
「見事な采配だ。だが、覚えておけ。剣を抱えることは、王都の政治を呼び込むことでもある」
「承知しています。けれど、この辺境を守るには剣も必要です」
「……ならば、取引をしよう」
ルーカスは声を潜め、懐から羊皮紙を差し出した。
「宰相派の貴族が、この地に目をつけている。彼らは“黄金の大地”の噂を嗅ぎつけた。私は交易院の名で一時的にそれを遮っているが、長くはもたない。あなたが三ヶ月で成果を示せば、私は院を動かし、この地を“交易特区”にできる。そうなれば王都も迂闊には手を出せない」
クラリスは羊皮紙を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「三ヶ月……短いですが、挑みましょう」
「よろしい」
ルーカスは微笑んだ。
「あなたの敵は、王太子や宰相だけではない。王都の欲望そのものだ。それを退けるには、民と剣と、そして数字――あなたの帳面が必要になる」
焚き火がぱちりと弾け、火の粉が夜空に散った。クラリスは拳を握り、心に誓った。
――婚約破棄で奪われた未来は、もう要らない。
私が選んだのは、この黄金の大地で“真の国”を築く未来。
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