第3話「辺境の民、最初の約束」

 塩湖は、近づくほどに匂いを濃くした。舌の奥に苦い塩が乗り、風は乾いた砂を含んで頬を刺す。夕刻前、湖の東岸に点々と並ぶ粗末な小屋が見えた。屋根は藁を土で抑えただけ、壁は割れ目だらけの日干し煉瓦。煙突からは薄い煙が上がり、かすかに干し魚の匂いが漂う。

 クラリスは御者に合図し、馬車を止めさせた。ユリウスは肩に古地図を担ぎ、マリナは荷の上から毛布を一枚取り出す。日が傾けば、砂の夜は急に寒くなる。


 最初に現れたのは、背の曲がった老人だった。褐色の皮膚に深い皺。片足を引きずり、手に尖った棒を握っている。続いてやせた女たち、目だけが大きい子どもたちが距離を置いて立った。

「旅か。ここに来る者は久しい」

 老人の声は砂利のようにざらついていた。


「私はクラリス・アーデルハイト。この塩湖と周辺三つの村を、王命によって預かる者です」

 ざわめきが走る。老人は目を細め、クラリスの顔を確かめるように見つめた。


「預かる者、だと……? ここを“預かる”者は、前にもいた。王都から来た役人は、塩を量り、税を取り、飢えた子の手から干し肉を奪って帰った。次に来たのは兵隊だ。男を連れていき、戻ってきたのは骨ばかり。お前は、何を奪いに来た」

「奪いには来ていません」

 クラリスははっきりと答え、馬車から降りた。砂に沈む靴の感触が、王都での踵とは違う重さを伝える。


「名は?」

「ガラン、と呼ばれている。元は湖の西の塩汲み頭だったが、皆散った」

 老人は尖った棒を土に突き立てた。

「飢えは、怒りよりも静かだ。静かに、家を空にする。お前にできることはあるのか」


「あります」

 クラリスは頷き、ユリウスとマリナに視線を送った。

「今夜、焚き火の回りで話しましょう。私の計画と、皆さんの現実とを、同じ火で温め合わせたい」


 集落の中央――といっても、半ば崩れた井戸と石の祠があるだけの空き地だ――に火が起こされた。細い枝から太い幹へ、火の梯子がゆっくり登る。集まったのは四十ほど。老いが目立ち、若い男は少ない。

 クラリスはまず、持ってきた粗面のパンを子どもへ配った。マリナが持つ小鍋からは、干し肉と塩、数枚の野草で取った濃いスープの匂いが立ち上る。ほんの僅かだが、匂いというものは腹に先に届く。子が皿を抱えた腕の震えがとまる。母親の目から、針のような光が一本抜け落ちる。


「約束を二つ、すぐに交わしたい」

 火の明かりの輪の中心で、クラリスは声を張った。

「一つ目。年貢は当面、物納と労役の選択制にします。食べる物がない家から食べ物を取れば、家は潰れます。労役――水路の掘削、堤の補強、夜警、子どもたちの読み書きの場作り――これらに参加した日数を、税に換えます。記録は私がつけ、誰でも閲覧できるようにします」


 ざわめき。老人ガランが唇を噛みしめた。

「口で言うのは簡単だ」

「だから二つ目の約束です。記録の帳面は今この場で作ります。帳簿は村ごとに二冊。片方は私が預かり、もう片方は村の“手番”が持つ。手番は毎月交代。読む力のない人にも見えるよう、印と数字を併記します」

 クラリスは膝をつき、板の上に紙を広げて、羽根ペンを走らせた。

 ――“辺境直轄 労役・物納換算帳”

 項目は大きく、誰にでも見分けがつくように。名前の横に印を描く欄を作り、できるだけ数字を少なく。

「これを、誰かに託したい。私一人の帳面では、私が不正を働いたと疑われる余地が生まれますから」


「……私が持とう」

 低い声が輪の後ろから落ちた。振り向くと、背に革の胸当てをつけた女が立っていた。髪を短く束ね、顔に薄い古傷。腰には刃を抜いたままの短剣。

「名は?」

「イングリット。西岸の見張りだった。昔は兵の真似事をさせられた。今は、夜に火を絶やさない役」

 クラリスは頷き、一冊を彼女へ差し出す。

「任せます。あなたの目は、火の番をする人の目だ」


 イングリットは帳面を抱き、火の照り返しを黙って受け止めた。

 次にクラリスは、ユリウスに合図する。ユリウスは革袋から、細い金属管と、丸い板を取り出した。

「これは風を測る器具です。北から吹く夜風の強さを数にする。風は塩の結晶の育ち方を決める。風向と結晶の粒の関係が分かれば、同じ手で同じ結果を出せる。塩は“運”ではなく“技術”になる」

 彼は板に穴を開け、草紐で柱の先に固定した。金属管がわずかな音で歌い、ときどき低く詰まる。


「わしらは、勘でやっていた」

 ガランが管に指をかざし、呻くように言った。

「勘は年とともに鈍る。だがこの管は老いない。……面白い」


「もう一つ」

 クラリスは懐から、掌に乗るほどの小さな魔道具を取り出した。石英で作られた円筒に、薄い刻印がぐるりと回っている。

「これは“灯り”です。初等の魔道具ですが、二つ工夫を加えました。内部に反射板を入れて光を一点に集めることと、回転式の遮光輪を付けて三段階に明るさを調節できること。夜警と作業の効率が上がります。明日から十台ずつ作り、まずは夜の見張りと井戸、共同倉へ」


「そんな……材料はどこから」

 マリナが答えた。

「湖畔に散らばった割れた器と、祠の裏の砂に混じっていた透明の石――石英です。炉は集落の西の窪みを使えば風が安定する。粘土は井戸の底に沈んでいました」

 いつのまに、と人々の目が丸くなる。


 火の輪に、少しずつ息が混じり始めたのが分かった。怒りと警戒の呼気が、興味と期待の呼気にほどけていく。

 クラリスは畳みかけず、そこで言葉を飲み、耳を開く側に回った。ある女が夫の失踪を語り、少年が夜の遠吠えの数を数えた話をする。ひとりの老女が祠の古い歌を掠れた声で口ずさみ、それが“干魃の年ほど湖は輝く”と繰り返す節であることにクラリスは耳を澄ませた。

 ――“砂の下の金”。母の言葉と、歌の節が小さな橋でつながる。


 夜が深まる前に、最初の“仕事”が始まった。井戸の修繕。井戸枠の煉瓦は崩れ、桶を下ろす滑車は軸が歪んで軋んでいる。

「イングリット、力のある者を四人。ガランは昔の水の高さを覚えている?」

「年の印で覚えがある。祠の石の苔の跡も目安になる」

「よし。まずは井戸の底の泥を掻き出して水脈の位置を確かめる。次に、蒸留器を一基だけ作って“味”を測る。塩を抜けば、病が減るはず」

 ユリウスは頷き、手早く木枠を組み始めた。金属管は冷えると低い音になり、北風が強まったことを告げる。


 作業の合間、クラリスは子どもたちに数字の石を配った。小さな丸石に一から十までの点を穿ち、指でなぞれば数の形が残る。

「これは“数の石”。名前と同じくらい大事な、家の財産よ」

 子の一人が恐る恐る指で石を撫で、笑った。歯が欠けていても、笑いはまっすぐだ。

「ねえ、お嬢さま。ここに残るの」

 その問いに、クラリスは迷わず答えた。

「残るわ。あなたたちの“夜”が静かになるまで」


 作業は夜半で切り上げ、見張りの番を決めて解散した。クラリスとマリナは崩れかけの小屋を借り、藁を少しだけ厚く敷いて横になる。天井の穴から星が覗いていた。

「お嬢様」

「眠っていいわ、マリナ」

「はい……でも少しだけ。――今日、わたし、自分が役に立てた気がしました」

 マリナの声は、砂に落ちた雨粒のように小さかった。

「役に立つ人は“役”を置く人よ。あなたが運んだ鍋も、配ったパンも、誰かの明日の体温になる。……ありがとう」


 明け方。空が白むよりほんの少し前、低い唸りが湖の向こうからやってきた。最初は風の音かと思ったが違う。地面に足裏で触れると、皮膚の下で骨が鳴るような重たい振動――群れの足音。

 イングリットの笛が短く鳴り、眠りかけた人々が音もなく起き上がる。

「砂犬だ。大きい群れだ」

 イングリットは短剣を逆手に持つ。

 砂犬――乾いた地の肉食獣。夜に群れで動き、弱った獲物を音で囲って狩る。

「囲炉裏の火を大きく」

 クラリスは指示しながら、昨夜の“灯り”の一つを取って円筒の遮光輪を回し、光を最も強くした。湖面に白い筋が走り、砂丘の稜線に目が生まれる。

 ユリウスは塩を布に包んで火に投げ入れ、ぱちぱちと弾ける音を立てる。

「音が嫌いだ。群れの足並みを乱せる」

 砂の影から、灰色の毛並みが現れた。目は夜の炎を映して黄色い。十はいる。いや、もっと。

「子どもは奥へ!」

 イングリットが吠える。

 クラリスは灯りを高く掲げ、群れの先頭にゆっくりと光の円をなぞった。光は線ではなく“壁”になる。砂犬は壁を嫌う。最初の二頭が足を止め、唸りだけが高くなった。

 その瞬間、背後で金属管が澄んだ高音を鳴らした。風が変わった。北から、乾いた鋭い風。ユリウスが低く叫ぶ。

「今だ、灰を!」

 ガランが駆け出し、祠のそばの灰溜まりから灰を掴んで投げた。風に乗った灰が砂犬の鼻面を覆う。くしゃみ、咳。群れの列が崩れる。

「押し返す!」

 イングリットと数人の男が、火の棒を高く振りながら一歩、二歩と前へ出た。

 数息のせめぎ合いの末、砂犬は踵を返して走り去った。残ったのは、砂の上に刻まれた無数の爪跡と、熱くなった呼吸だけだった。


 静けさが戻ると、誰かが笑い、誰かが泣いた。笑いと涙は似ている。どちらも、胸に溜まっていたものを外へ運ぶ。

 クラリスは灯りの遮光輪を絞り、光を柔らかくした。ユリウスは金属管を外して、風の角度と音の高さを書き留める。

「道具は、恐れを半分にしてくれる」

 イングリットが肩で息をしながら言った。

「恐れが半分になれば、残りの半分と戦える」


 朝日が湖を薄く染め、塩の結晶が霜のように光った。

 クラリスは皆を集め、小さな布袋を配った。袋には大きな縫い目で“契”の印。

「今日から“契り袋”を持ってください。袋は家の分。中には、その月にした仕事の“印”を入れる。印は小さな木札で、仕事ごとに形が違います。水路は三角、夜警は丸、学び舎は四角。月末に袋の中を数えて、税と交換する。――これは私と、皆さんとの最初の契約です」


 ガランが袋を指で撫でた。

「わしらの村には、昔“貝殻束”というのがあった。働いた分の貝を束ね、祭りの日に皆で見せ合った。それを思い出す」

「なら、きっと続けられる」

 クラリスは微笑んだ。

「契約は、古いほど強い。外から持ってくる新しいものと、ここにあった古いものを結び合わせたいの」


 午前。井戸の底から汲んだ水を蒸留にかけ、最初の一滴が管先から落ちた。透明で、塩気の少ない水。マリナが恐る恐る口に含み、頬の力がふっと緩む。

「……甘いわけではないのに、甘い」

「それが“安全”の味です」

 クラリスは周りを見回し、声を少し低くした。

「今日から三日、食糧は私が持ってきた備蓄と、隣村から借ります。借りは将来の塩で返す約束を取り付けます。私が出向いて契約してくる。その間、ここでやるべきことは三つ――井戸、夜警、そして学び舎の準備」


「学び舎?」

 イングリットが首をかしげる。

「この湖は、人の手で守れる。ならば“手”を増やすのが早い。読み書きと数ができる子が増えれば、道具の意味が皆に伝わる。冬までに十人。来年までに三十人。三年で、誰もが“契り袋”の数を自分で数えられるように」

 クラリスは、旅の途中で拾い集めた板片を並べ、簡易の机を作った。

「教えるのは私とマリナ。ユリウスには“風と塩の学”を担当してもらう」


 ユリウスは片目をつむって笑い、金属管を囁くように吹いた。子どもたちが興味津々で寄ってくる。

「音で風を読むの?」

「そう。音は目に見えないものの形だ。数も同じだよ」


 昼過ぎ、遠見の岩の上で見張りをしていた少年が駆け下りてきた。

「ひとが来る! 馬に二人……三人……旗は、王都の色!」

 空気がぴんと張る。イングリットが短剣に手をやり、ガランが子どもを後ろに下げた。

 クラリスは息を整え、一歩前へ出る。

「迎えましょう。ここは、私たちの“国の入り口”ですから」


 砂塵を巻き上げてやってきたのは、粗末な旅装の男たちだった。だが馬具は良く手入れされ、背筋は伸びている。先頭の男が馬から降りると、胸に手を当てて礼をした。

「辺境直轄の長、クラリス・アーデルハイト様にお目にかかる。――王国交易院・臨時査察官、ルーカス・ヴェイル」

 交易院。王都で唯一、宰相派と王太子派の間を“物の理屈”で渡る組織。

「本日は通告。王都は、塩の徴発を一時停止する。代わりに、この湖の“生産計画”を提出せよ、とのことだ」


 ざわ、と人々の背中が揺れた。

 クラリスは目を細め、笑みを抑えた。

「ありがたい通告です。王都は、飢饉を恐れているのですね」

 ルーカスが眉を上げ、わずかに口元を緩めた。

「……恐れている。都の蔵は、見せかけほど満ちていない。あなたがここで何をするか、都は見たい。助けたい者もいれば、躓くのを待つ者もいる」


「なら、見せましょう」

 クラリスは契り袋と帳面を掲げ、井戸の新しい滑車を指さした。

「ここから三十日で、水を安定させる。四十五日で、夜の襲撃を半分に減らす。六十日で、塩の結晶を規格化し、粒の大きさごとに袋詰めして、隣領までの交易路を開く。九十日で、冬の備蓄量を三倍に。――それが“生産計画”です」


 沈黙。湖のさざめきだけが、言葉の間を満たした。

 ルーカスはやがて、懐から小さな封筒を取り出して差し出した。

「これは、交易院の“中立証”。院の者があなたの邪魔をしたら、これを見せろ。効かない相手には、私を呼べ」

 封蝋の紋は本物だ。クラリスは受け取り、胸の近くに仕舞った。


「クラリス様」

 ガランが前に出る。

「最初の契約の印を、わしに」

 クラリスは木札の箱から三角の印を取り、ガランの手のひらに乗せた。

「井戸、完了一。――ありがとう」

 ガランは小さく笑い、木札を契り袋に入れた。その仕草は、祈りに似ていた。


 日が傾く。湖面は金ではなく、銅に近い色で揺れ始める。

 クラリスは焚き火のそばに立ち、皆の目の高さで言った。

「今日、私たちは“国”を始めました。国とは、旗や玉座のことではありません。夜に灯りをともすこと、約束を数えること、明日の食べ物を今日の手で作ること。あなたがたの手が、今日から“国の手”です」


 ひとりが手を上げ、もうひとりがそれに触れ、輪が広がる。冷えた風の中で、手の温度は確かな現実だ。

 クラリスは胸の内で、静かに宣誓を繰り返した。

 ――婚約破棄から始まった物語は、ここで“国家創建”へと歩き出した。

 その一歩は小さい。だが、小さい一歩は、何千何万と重ねられる。重ねる方法を、彼女は知っている。

 背後でユリウスの金属管が、夕風に細く鳴った。風は北から。明日は乾き、塩はよく育つだろう。

 クラリスは湖面に目をやり、ゆっくりと頷いた。

「さあ、始めましょう。――黄金の大地の国づくりを」

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