雪解けを待つ

@Tya__tya

第1話

 待っている。ただ、誰かを待っている。



 いつもの帰路では何だかつまらない。寄り道をしよう。ふと、そう思った。

 雪が道路わきに積み上がっていて、歩道が普段より狭い。行先を決めずに、気の向くまま歩く。しばらく雪道を散歩するつもりだったのに、足が自然と林に向かった。

 杉の並木が、両脇に整列している。曲がった木は一本もなく、ピンと背筋を伸ばしている。——静かだ。普段から人の気配はない寂しい林だが、雪の日は格別に静まり返っている。空気を吸い込むと、あまりの冷たさに肺がズキンと痛む。ほのかに杉が香る。並木の通りは、まだ誰にも踏み荒らされておらず、新雪が夕日を反射している。

(……おや)

 先客がいたのだろうか。五歩ほど先の道の真ん中に、何かが落ちている。落とし物だったらいけないと、雪に足を踏み出した。最初の一歩に、新雪を踏み荒らしてしまう罪悪感を抱いたものの、すぐにそんな考えは霧散した。膝下まである雪は、誰にも踏み固められていないお陰で、片足を出しても、体勢を保つので精一杯だ。落とし物に辿り着いた時には、少し汗をかいていた。

 身をかがめ、慎重に雪を払う。現れたものに、息を呑んだ。一束のホトケノザだ。目に優しい緑が、しおれもせずに七本もリボンで束ねられている。はっと前を見る。二歩先にも、何か落ちている。次は一束のセリ。三歩前に進む。ナズナを拾う。ゴギョウ、ハコベラ、スズナ、スズシロ。落ちている春の七草を、順に拾っていく。スズナ、スズシロは春の七草と言っても、ただのカブとダイコンだから、持つにも一苦労だ。奇妙としか思えない落とし物に、笑みが零れる。……懐かしい。雪の煩わしさは、いつの間にか忘れていた。

 次に拾ったものに、腹を抱えて笑う。ナスだった。その次はキュウリ。どうやら夏野菜に移ったらしい。スーパーで売っているような、形がきれいなものではない。ナスは小ぶりで傷もついているし、キュウリはこれでもかと曲がっている。それが、無性に嬉しかった。トマトにピーマン、ゴーヤを雪から収穫し、まだ進む。少年に戻ったように、心が浮き立つ。私の待ち人は、いつになったら来るのだろう。

 季節が移り、今度は秋になった。細長い枝先に、特徴的な三枚葉。頭を垂れている小さな桃色の花はハギだろうか。星形の薄紫の花弁はキキョウ。金色の穂先を蓄えたススキ、一枚も葉を持たない花茎のクズ、細かい花弁が特徴のナデシコ、菜の花のような淡い黄色のオミナエシ、蕾のような形のフジバカマ。秋の七草と呼ばれる花々に加えて、イガグリやドングリまでもが雪の中から見つかった。……そうだ、彼女が教えてくれたんだった。

 頭の中の靄が、一瞬だけ晴れる。花の名前も特徴も、散歩が好きな彼女が繰り返し口にするから、覚えてしまった。いつだったか、毎日のように彼女がしつこく散歩に誘うものだから、つい意地を張って、「花なんかに興味はない」と言った。けれど彼女は気を悪くするどころか「じゃあ、私なら? 私の好きなものに興味はない?」と茶目っ気たっぷりに返した。さすがにそこで、首を横に振ることはできなくて、結局その日も彼女の散歩に付き合った。

 待ち人は、彼女だろうか。でも、何かが違う。どうして私は、待っているのだろう。いつから、待っているのだったか。彼女は、今どこにいるのだろう。

 ザク、と雪を踏む音が、やけにはっきりと聞こえた。顔を上げると、道はそこで行き止まりだった。地蔵を祀った祠が、寂しく立っている。——胸が締め付けられた。祠の前に、いるべきはずの人がいない。

 雪を掻く。素手で、一心不乱に足元の雪を掘る。何か、何かが埋まっている。そうでなければ、どうして私はここまで来たのか。誰が、この下に埋まっている。毎日、毎日、飽きもせずに花を、野菜を、春を、夏を、秋を、見せに来てくれたのは。

 小さな、身体があった。すっかり雪で冷たくなって、カチコチに強張った老体。白髪さえも凍り付いて、髪を梳くこともできない。痩せて、軽くなってしまった妻の亡骸を、抱きかかえる。少しでも暖めようと、コートを脱いで、必死に抱きしめる。冷たい手を己の両手で包み込み、擦る。

 ふと気づく。自分もまた、彼女と同じ冷たさだということに。その瞬間、今までの謎が一気に解けた。私はなんて馬鹿だったのだろう。道理で、待ち人は来ないわけだ。

 私が、彼女を待っていたのではない。彼女が、私を待っていたのだ。長い間、彼女はずっと、私の帰りを待っていたのだ。私がこの道で倒れて息を引き取った時から、彼女の散歩相手は永遠にいなくなった。


 あの日も、雪の日だった。

 お地蔵さんの前の道は、昨日に積もった雪できっと通れなくなっている。誰も、並木林の道の雪かきなんてしないから、私は早朝に一人で雪かきに出かけた。妻との散歩の終わりには、いつもこのお地蔵さんに挨拶して帰るのが日課だ。五十年間続いた日課を、雪ごときで欠かしてはたまらない。「あなたも、散歩が好きになったものねぇ」と微笑む妻の顔が浮かんだ。

 私は「いってきます」と玄関を出て、「ただいま」を言う日はついぞ来なかった。


 並木林の道を振り返る。私が歩いてきた足跡は、ただの一つもない。彼女の落とし物も、ない。誰も踏まないうちに、雪は解けてしまうだろう。彼女が見つかるまで、時間がかかる。彼女が寂しくないように、それまで、傍で待っていよう。きっと春は、もうすぐだ。

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