第8話 帰り道の旅路は、思わぬ波乱に満ちていた

……おかしいな。

休むためにわざわざ部長に怒られるリスクを冒して会社から抜け出したはずなのに、今の方が逆に疲れが溜まってる気がする。なんでだろう?

顔を上げて空を見上げると、すでに月が高く昇っている。

最初にここへ戻ってきた時は、たしか晴れた昼間だったはずなのに。

だけど今は、いつものように、終わったばかりの仕事で疲れ果てて帰宅する時間と何も変わらない。

「俺、いったい何やってんだろう……」

たった数時間のあいだに起きた出来事が、ここ一年間のどんな日々よりも波乱万丈だったなんて――

そんなこと、誰が想像できただろう。

それどころか、もう二度と使わないと決めていた『切り札』まで、結局また引っ張り出さないといけなくなった……世の中って本当に予想できないよな。

ぼんやりとそんな愚痴を言いながら、重い足取りで階段を登り始める。

幸いにも、上階に広がっていたあの凄惨な血痕は、すでにすっかり清掃されたようだった。

だが、戦いの中でできたあちこちの穴は、さすがにすぐには直せない。

まあ、こんな古い建物、俺より年季が入ってるだろうし、修繕するより建て直した方が安上がりだろうな。


……でも、もしそうなったら……俺、次はどこに住むんだろう?

こういう安くて後払いできるアパートなんて、発展し続ける世都(ホープキャッスル)の中じゃ、今やゴールドよりも貴重な存在だ。

「もういいや、考えるのやめようやめよう。今は全部忘れて、冷蔵庫のビールを心ゆくまで楽しむ時間だ!」

ふっ、いくらあの神出鬼没な大家さんでも、俺がこんな時間に帰ってきたなんて思いもよらないだろう。ハハハ……。

「あの、すみません……」

「うわっ!?!」

突然背後から聞こえた声にビックリして、思わず鍵を落としてしまった……ま、まさかあのケチババア、この時間まで俺を張ってたってのかよ!?

「ソイドル……さん?」

「ごめんなさいごめんなさい!俺が悪かった!返事しなかったのはスマホが壊れたせいでして!あと……賠償の件は本当に俺の責任じゃないので、群星協会(スターリンク)に請求してください!家賃の方は……その……今月はちょっときつくて、どうか少しだけ猶予を……数日……いや、明後日!明後日には必ず払いますから!」

言い訳を必死に考えながら、慌てて振り返ると……周囲が暗くて最初は誰だかわからなかったが、警戒して耳を澄ますと、近づく足音が聞こえた。

そして、俺の不安げな視線の先――闇の中からぼんやりと浮かび上がってきたその姿は、顔が見えるか見えないかというタイミングで、ふと足を止める。

「よかった!やっぱりあなたがライクさんですね?途中で何人か人違いしちゃったけど、やっと見つけたんです!」

「……え? その声……あのババアじゃない……?キミ、誰だ?」

かすかな月明かりに照らされながら、ゆっくりと近づいてくる人影。

それに伴って、少女の輪郭が徐々に明らかになっていく。


さらりと揺れる艶やかな黒髪。

長く整ったまつ毛に、世の穢れをまだ知らないかのような純粋な瞳――

闇夜の中でもなお、どこか無垢な光を放っていた。

その顔には、常に輝く笑顔が浮かんでいて……こんな表現をするのは失礼かもしれないけど、まるで、人畜無害で人懐っこいな小動物のような可愛い印象を受けた。

――が、最も重要なのは、彼女が胸に大事そうに抱えている、俺のジャケットだ!

「キミ……あの時、俺んちの前に倒れてたダメヒーローちゃんじゃないか?!」

思わず指差して声を上げた瞬間、元々にこやかな表情をしていた少女は、徐々に気まずそうなものへと変わっていった。

「うぅ……ダメヒーローちゃんで……ヒーローとしてちゃんと働けなかったのは、本当に申し訳ないけど、でも、いきなりそんな呼び方しなくても……確かにライクおじさんとは年は離れてるけどさ……」

「おじさんじゃねぇ!俺まだ三十代だっつーの!まったく、最近のガキらは遠慮ってもんを知らないのか……」

少女が差し出してきたジャケットを、何も考えずに取って着る俺。……ん?いつも感じていた汗やコーヒーの匂いは消えて、代わりに心地よい花の香りが漂っている。

……こいつ、わざわざ洗ってくれたのか?

「あの、それで……どうお呼びすればいいですか?ソイドル……さん?いや、命の恩人にはちょっと冷たい感じがするし……じゃあ、ライク……ライクお兄さん?」

「今の……もう一回言ってくれ」

「えっ?ら、ライク……お兄さん?」

「もっと大きい声で!ちょっと上目遣いで、ほんのり恥ずかしそうに、でも優しさがにじみ出てる感じで!そう、それそれ、それでもう一回!」

「ラ……イク……おにい……えっと……なんか、急に鼻息が荒くなってません?やっぱり、『おじさん』って呼ばせてください」

……チッ、結局『おじさん』に逆戻りかよ!!

「え、ちょっと待て。さっきキミ、俺のこと何だって?命の恩人?」

「うんっ!おじさんのおかげで助かったんだよ!」

「……なんで、そう思った?」

「治安局の取り調べで、治安官さんが――」

「……」

あのしつこいクソ野郎!


俺から何も聞き出せなかった腹いせに、余計なこと吹き込んだな!?

「はぁ……もういい、そんなキラキラした期待の目やめてくれ。見てわかるだろ?こんな冴えないオッサンに、ヒーローを助ける力があるように見えるか?」

「うーん、確かに顔はちょっと……」

「おい……」

「えっ?ってことは……おじさんって……私とは違って、ヒーローじゃないの?」

今さらかよ!?

この子、見る目がなさすぎだろ……もちろん、顔面偏差値の見極めも含めてな!

「あたり前だ!群星協会(スターリンク)のデータベースでも見てこいよ。俺の名前なんてどこにも載ってないっての」

「うぅ……調べたけど、確かに名前は載ってなかった。でももしかしたら……偽名使ってるとか?」

「……なんでわざわざそんな面倒なことしないといけないんだ」

「だって、そのほうがカッコイイじゃないですか?!謎の無名ヒーローが登場!みたいな感じ、すごくロマンチックだよ!」

月明かりの下、彼女は銀糸のような細い指をぴんと伸ばし、

目の前で半円を描くように腕を振り……最後に『∠』ポーズをキメながら、キラキラした目で俺を見上げてきた。

……こいつ、そんなものを信じる年齢はとっくに過ぎてるはずなのに……中身は相変わらずお子様だな。

「残念だけど、俺がキミが言うような偉い人じゃない。ヒーローごっこしたいなら一人でやれ、未来のヒーローさんよ」

……大人の世界に、ロマンあふれるヒーローや怪人なんてものは存在しない。

あるのは、ただひたすら地味な出勤と残業の無限ループだけだ。

そう吐き捨てるようにため息をつき、

夢見がちなヒーローちゃんなんて放っておこうと背を向けたその瞬間――

背後から、そっと服の裾を引っ張られる感触がした。

「で、でも……目が覚めた時、そばに残ってたのはこのジャケットだけで……ポケットにはあなたの名刺の半分が入ってて……それに、ぼんやりした記憶の中に……私とそっくりなヒーローが、すごく激しい攻撃の中、何度も私をかばって……命がけで——」

「意識を失ってたキミに……そのときの状況なんて、正確に覚えてるわけないだろ?」

「うぅ……そ、それは……そうかもしれないけど……」

地面に落ちた鍵を拾いながら、彼女が胸の内を必死に語っていたその言葉に、

俺は冷や水をぶっかけるように、彼女の目の前に現実を突きつけた。


「俺はただ、そのジャケットでキミの出血を少しだけ止めただけ。あとは何もできずに地面に突っ伏して、死んだふりしてただけさ。あいつらが勝手に潰し合ってくれたおかげで、こっちは命拾いした。キミが憧れるような救世主なんて、最初からどこにもいなかったんだよ」

「……そう、なんだ……」

言葉を聞いた彼女は、しょんぼりとうなだれて、うっすらと目に涙を浮かべていた。

すぐには受け入れきれない気持ちを抱えながらも、最後にもう一度だけ俺の裾をぎゅっと握りしめ、

それから理性で抑え込むように、ゆっくりと手を離した。

「……」


その姿を見て、胸の奥がほんの少しだけ痛んだ。

――でも、これでいい。

一時の無謀な勇気で、彼女が触れるべきではない『真実』に近づいてしまうくらいなら…

優しい嘘で、この子の道を守る方が、きっと正しい。

ハッピーエンドの物語なら、最後の幕が下りるときに登場人物が一人や二人足りなくたって、別に問題はないんだろ?

俺にとっては、突発的なヒーローごっこはもう終わった。

あとは、いつも通りの地味で冴えない生活に戻るだけ――

派手な冒険を背負うのは簡単だ。

でも、長く続く『日常』にを守り抜くのは、それよりずっと難しい。

この子の語る理想を笑ったその裏で――

俺自身、かつてはあんな風に、まっすぐな目をしていたことを知っている。

結局、今日に至るまで――あの日、■■■が呼んだ『ヒーロー』には、なれなかった。

「じゃあ俺はもう休むから、キミも早く帰んな。ダメちゃん」

「ま、待ってくださいっ!」

「……今度はなんだよ」

今日出会った連中、どいつもこいつも面倒くさい奴ばかりだな。

「あの……私の降臨端末……返してもらえませんか?」

「……ああ、そうだった。言われなきゃ完全に忘れてた」

もともと命がけの状況で、やむを得ず使わせてもらっただけの端末。

本来なら、さっさと返すべきだったのに――

腕から外して、渡そうとした瞬間――ちょっとした思いつき、もしくは群星協会(スターリンク)へのちっぽけな意趣返しだったのか、俺は手を止めた。

「へぇ、なるほどな。キミの『本当の目的』ってのは、ただ自分のものを取り返すことだったのか?」

「……えっ?」

「こっちはさ、今日一日キミのせいで命がけの目に遭ってんだぜ?たぶんこのまま寝たら悪夢を見そうだ……心に深〜い傷とトラウマを負ってるわけだけど、そんな俺に対して、まさか『何の謝罪もなし』ってことはないよな?」

「う、うぅ……私がヒーローとしてまだまだ未熟だったせいで、おじさんや、周りの住民の皆さんにまで迷惑をかけてしまって……本当に、本当にごめんなさい……っ」

「あー、言葉はもう十分聞いたよ。けどさ、キミはもっとちゃんとした『誠意』を見せてくれなきゃダメだろ?」

「誠意……ですか?」

小首をかしげる少女に、俺はわざとらしく指先を擦り合わせてみせた。

するとようやく何かを察したのか、慌てて肩にかけたカバンの中に手を突っ込む。

「す、すみませんっ!これしか持っていませんけど、許してください!」

そう言って、バッグの中からゴソゴソと何かを探し出す彼女は。震える指で、キラキラ光る一枚のカードを俺の手にそっと置いた。

さらに、そのポケットからは小銭がいくつかこぼれ落ちて……。

「なに?!ブラッククレジット……なわけない!これICカードじゃねぇか!?」

……普通そんなもん、謝罪の品に出すか!?

ていうか、その小銭まで全部渡してきたけど……このあとどうやって帰るつもりなんだ、お前!?


俺は慌てて周囲を確認した。幸い、周りに誰もいなかったけど……。

もともとは、ちょっとからかってやるつもりだっただけだ。

ついでに、俺へのイメージをちょっと下げておけば――今後、余計なトラブルを避けられるかもしれないって思ってた。

でも……こいつ、予想以上に純粋すぎる。

これ、他人が見たら完全に悪い大人が、深夜に通りかかる女の子を脅してるようにしか見えない!

「はぁ……もういいや。このコーヒー代ってことで、チャラにしてやるよ」

手のひらの小銭から適当に二枚ほどつまみ出し、残りの金とカード、そして彼女がずっと気にしていた端末を、まとめて返してやった。

「ううっ……えっ? ほんとに、これだけでいいんですか?私……もう、下着だけでも残す覚悟までしてたのに……」

……いや、思考回路が時々すっごく危ないんだけど、この子。


「ほら、俺の気が変わらないうちに、さっさと帰れよ。未来のスーパーヒーローさん」

どこかで昔、『誰か』にそうされたように……

俺は彼女の帽子を、ぽんぽんと優しく撫でてやった。

「うん…うん……助けてくれて、ありがとう……おじさん」

「だからさぁ……はぁ、もう好きにしろ。どうせ、これっきり会うこともないだろうしな」

最後の最後まで『おじさん』呼びはやめないのかよ……

本当に、どうしようもないおバカなガキだ。

心の中でそう呆れつつ、ようやく波乱万丈だった一日が終わると安堵した俺は……

重い疲労を引きずるように、ドアノブに手をかけた……その瞬間。

……まただ。

まるでさっきの再現のように、

背後から服の裾が、そっと引っ張られた。

……このしつこいやつめ!

「おいっ!いい加減にしろ!こっちはもう――」

苛立ちが限界に達した俺は、勢いよく振り返る。

……が、そのとき、目に飛び込んできたのは――

赤く警告を点滅させている端末。

起動こそしたものの、そこに映っていたのは微動だにしないロゴ画面、明らかに認証エラーが発生したときの挙動だった。

「おかしいなぁ……いくら触っても反応しなくて……おじさん、なんか私、端末使えなくなっちゃったみたい」

「は?んなわけあるか。ちょっと貸してみろって――……あ」

反射的に彼女から端末を受け取った、その瞬間。

やってしまった――と、思った。

『アクセス認証完了——ヒーロー番号399、アンフィール様、アカシック降臨システムへようこそ。ナビゲーター『ノア』スタンバイ』

聞き慣れたAIの電子音が、俺のこれまで必死に取り繕ってきた言い訳を、あっさりと木っ端微塵に砕いた。

その場の空気が、凍りついたかのように重苦しい沈黙に包まれる。

……想定をはるかに超えた事態だった。

『鍵(ギフト)』の力を使って、降臨端末を無理やり起動したあの時から、すでに一定時間は経過しているはずだった。

なのに、逆に俺と彼女の端末を完全に結びつけてしまっていたなんて……!

冗談だろ?!

まさか、あの『力』を何年も使ってなかったせいで……こんな予想外の変化が起きたっていうのか?!

……そんな、初歩的でバカみたいなミス、俺が犯すわけがねぇだろ……っ!!

「お、おじさん……いま……私の端末、起動……しちゃってた……?」

「……」

「やっぱり、あの二人を倒されたのは……おじさん……あなただよね?」

「あ、あははは……」

深夜の家の前。汗だくの俺と、戸惑う少女は――

冷たい夜風に吹かれながら、ただ黙って見つめ合っていた。


どれくらいの時間が経っただろうか。

どうにも我慢できない沈黙に耐えきれず、俺はついに観念して、ドアノブを回した。

「……とりあえず、ちょっと中に入って休んでく?」

淡い月明かりが、静かにその光を深めていく。

唸る風の冷たさでも、空に垂れこめた陰りは払えず――

波乱に満ちた一日は、どうやら……

まだ終わる気がないらしい。

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