第5話 評判戦、開幕――嘘が燃え、声が残る
翌朝、王城の石廊に足音が反響した。
夜の襲来――世界の修正力が送り込んだ“黒い霧”は消えたが、寝不足のまぶたの重さより、胸の真ん中で灯った熱のほうが勝っている。
アレンは剣帯を整え、リリアナは顎を上げて歩く。二人とも、もう“守られるだけ”ではない顔をしていた。
「殿下、王都の市井で“噂回し”が始まりました」
報告に駆け込んだのは情報局の若い書記官だ。
「見出しは三つ。『婚約者は妖術使い』『殿下は腑抜け』『王家は女の声に溺れる』――言葉が雑で、しかし拡散が速い。街角の張り紙に加え、辻奏での歌として子どもに覚えさせています」
「子ども歌に落としたか」私は息を吐いた。「耳から回る。最悪の手だ」
私は卓の地図に視線を落とす。王都の輪郭、広場から四方へ伸びる市場路、祈祷所のある小高い丘。
「歌を止めさせるのではなく、別の歌で上書きする。黙らせるのではなく、重ねる」
「新しい歌、でございますか」
「そうだ。リリアナ」
呼びかけると、彼女は一歩進み出て、胸の前で手を結んだ。
「はい」
「昨夜の歌を、街に降ろそう。孤児院、祈祷所、工房――“読めない者にも届く節”で。題は《火を絶やさない手》」
「……はい」
瞳が強く光った。彼女の“声”は武器になる。ならばその武器に、ちゃんと鞘と名を与えるべきだ。
「配布は?」アレンが問う。
「吟遊詩人を雇う。だが金で雇えば公爵派に買い戻される。――買えない歌い手を揃える」
「買えない?」
「子どもだ、アレン。昼餉のパンと、あったかいスープと、歌の場所。彼らは金貨ではなく、“居場所”で動く」
アレンの表情が変わる。
「わかりました。俺が段取りします」
この国は、黙らされた声で膨らんだ。ならば声を返す。黙らせる者ではなく、歌える場を増やすことで。
***
準備を進めるさなか、思わぬ来客があった。
「ご機嫌よう、殿下」
逆光の回廊に現れたのは、黒羽のような外套をまとった女。流れる黒髪、夜の色を溜めた瞳。
「影務卿――ナハト卿の娘、クロエか」
「ええ。原作ではあなたを裏切り、公爵派に寝返る“毒花”。わたくし、その役目に飽きまして」
軽やかに笑う。私の背筋に、微かな冷気が走った。
クロエ・ナハト。諜報を司る一族の才女。原作では四章で私を落とす“決定打”を担う人物だ。
「わたくし、殿下に忠誠を誓います」
「理由は」
「退屈の解消」クロエは礼をし、顔だけ上げる。「筋書き通りは眠い。あなたが世界を怒らせている間は、退屈しなさそうだから」
「……いいだろう。だが二度裏切れば、二度目はない」
「一度で十分。裏切りは鮮度が命ですから」
アレンが横目でこちらの合図を待つ。私は頷いた。
「アレン、彼女の“試し”を頼む。三手以内に君の背を取るなら採用だ」
「了解」
次の瞬間、二人は石床の上を滑った。
クロエの踵、アレンの踏み込み、鞘走りの金属音。
――二手目、クロエの袖がふわりと膨らみ、薄刃が逆手に現れる。
「そこまで」私は手を上げた。「採用だ」
クロエは肩を竦め、刃を袖に戻す。アレンは息を吐いて微笑した。
「殿下の側は、ずいぶん賑やかになってきましたね」クロエが言う。「敵だったはずの者たちが、皆、味方になりたがる」
「味方ではない。声を返した者だ。私の側に集う者は、黙らない」
クロエの口元が楽しげに吊り上がった。
「よろしい。では最初の奉公――“噂の根”を見つけてまいります。地の下で水を吸っている、見えない根を」
***
夕刻、王都の四辻。
樽を叩くリズム、笛の音、子どもらの手拍子が重なる。
《火を絶やさない手》は、思った以上に“街の声帯”に馴染んだ。リリアナは広場の真ん中で歌わない。あくまで輪の一人として、椅子に座り、子らの背に拍を刻む。
「火を分けるよ 小さな手でも
風が吹いても 隣に渡す」
歌詞の合間合間に、読み書き教室の招きの文句。孤児院の炊き出し情報。祈祷所で開く読み会の時刻。
歌はお伽噺でも宣戦布告でもなく、生活の設計図に溶ける形にした。
アレンは後方で警邏しながら、低く呟いた。
「……これなら、剣を抜かずに守れますね」
「剣だけが力じゃない」私は応える。「評判戦は、場を作った者が勝つ」
そこへ、クロエが煙のように戻ってきた。
「“根”は三つ」彼女は指を三本立てる。「印刷所、辻の辻説法師、そして祈祷所の古い帳簿。――意外でしょう?」
「帳簿?」
「昔、王家が祈祷所に渡した“口封じの寄進”の記録が、都合よく“発見”されて拡散されます。『王家は昔から金で声を摘んできた』という証明に」
「捏造か」
「おそらくは。しかし古い真実の抜け殻に新しい嘘を詰める手口は、上等。簡単には剥がれない」
私は地図を思い浮かべ、頷いた。
「印刷所を“止めない”。むしろ紙を増やさせる。辻説法師は舞台に上げる。帳簿は――本物と偽物を並べる場を作る」
「晒すおつもり?」クロエの瞳が笑う。「素敵。裁判ごっこは観客が湧きます」
「“ごっこ”ではない。王家評議の公開試問だ。――明日、広場で行う」
アレンが拳を握る。
「殿下、俺は舞台の外周を抑えます。レーベンは必ず妨害に来る」
「頼む」
私は夜空を仰いだ。昨日見た“ひび”は薄く、だが確かに残っている。
世界の修正力は、言葉を嫌う。だから言葉で裂く。
***
翌日、王城広場。
壇上には三つの卓。左に印刷所の主人、中に辻説法師、右に祈祷所の司祭。
背後には帳簿が積まれ、前には民衆の海。
私は宣言した。
「王家は、黙らせるのではなく聞く。今日は、皆の前で確かめたい。『噂』は誰から来て、何を食って太ったのか」
印刷所主人は汗を拭い、弁明を試みる。
「うちは……注文を受けて刷っただけで」
「誰からの注文だ」
「それは……」
「言え。君の口で」
「……レーベン公爵派の、事務官から」
ざわめき。
辻説法師は胸を張る。
「わしは真実を語っとる。王家は女の声に溺れて――」
「その“真実”は、誰から授かった?」
「……托鉢の折に、懇意の旦那衆が」
「名を」
「……言えん」
「なら真ではない。信だ。君が信じたい話だ。ここで『信じたい』と『真』を言い分けてくれ。子どもたちの前で」
群衆が静まる。説法師は言葉を失い、唇が震えた。
私は最後の卓に歩を移す。
「司祭。帳簿を開こう」
司祭は蒼白になりながらも、羊皮紙を広げる。
「……古い寄進の記録です。たしかに“口止め料”と読める箇所がある。しかし――この筆跡は、私の先々代のものではありません」
「偽物、と」
「わ、わかりません。ですが、紙の縁が新しく、染料も新しい。私の目には……」
「足りない目は、足す」私は背後に合図する。「クロエ」
クロエが前に出て、手袋を外した。
「染料は二年前に王都に入った南海の藍。古い帳簿に乗るはずがない。――偽物よ」
司祭が目を閉じ、胸の前で印を切る。
「神よ……」
私は壇上の中央に戻り、声を張った。
「『王家は昔から金で声を摘んできた』――その通りだ」
広場が凍った。
「昔の王家は、弱かった。だから、声を摘んだ。私の家は罪を負っている。その上で言う。私は、摘まずに増やす」
息を整える。
「摘む手を火にかざし、火を絶やさない手に変える。女の声であろうと、子の声であろうと、乞う声であろうと、王家は聞く。――それが今の王家のやり方だ」
静寂。
最初の拍手は、どこからだったか。
工房の青年か、祈祷所の老女か、あるいは昨夜歌を覚えた子か。
拍手は連鎖し、波になった。
私は壇上の端に視線を走らせる。
石像の陰に、公爵派の影。彼らは撤退の合図を交わしていた。
――評判戦、第一幕は取った。
壇を降りると、アレンが短く報告する。
「外周に武装の気配なし。散開しました」
「よくやった」
リリアナが胸に手を当てる。
「殿下……本当に、言ってしまわれるのですね。『昔の王家は罪を負っている』と」
「過去を隠した声で未来は作れない。弱さを言葉にするのは、王家にとって初めての修行だ」
その時だった。
空が、ぱきんと鳴った。
私だけが見える“ひび”が、広場の真上で増えた。
世界の修正力が、露骨に苛立っている。
ひびの隙間から、白い紙片が舞い落ちる。
ひとひら、ふたひら、三……いや、無数。
紙片は空中で文に変わり、**“原作の台詞”**を喋り始めた。
《王子は冷酷だ》《女は黙れ》《庶民は膝をつけ》――
私は奥歯を噛む。耳を塞ぐ子ども、顔をしかめる職人、腕を組む官吏。
「殿下!」アレンが剣を抜く。刃は紙片を裂くが、声は消えない。
「クロエ!」
「火が要る」クロエは袖から小瓶を出し、私に投げた。「“静かな炎”――音だけを燃やす」
私は封を歯で切り、広げた掌の上で呪句を走らせる。
「黙れ、ではなく――歌え」
瓶から立った青い炎が、紙片の声だけを舐め取り始めた。文字は残るのに、言葉は燃える。
「リリアナ!」
「はい!」
彼女は昨夜の歌を、広場の合唱に変えた。
「火を分けるよ 小さな手でも――」
最初はか細い。だが次第に、子ども、女、男、老いた喉が重なっていく。
「風が吹いても 隣に渡す」
声は増殖する。噂は速い。だが歌も速い。
紙片の言葉は燃え尽き、石畳に白い灰だけが舞った。
世界のひびは、いくらか退いた。
完全ではない。だが、声で押し戻せることを、この国の空に刻めた。
***
広場の片隅。
石段に腰を下ろした私は、肩の力を落とした。
アレンが水を差し出す。
「殿下」
「助かる」
リリアナが隣に座り、空を見上げる。
「……怖かった。でも、歌えました」
「君の声が、今日の空を繋いだ」
クロエが柱にもたれ、退屈そうに欠伸する。
「評判戦の幕間は静かね。――次は『金脈』を切りましょう」
「公爵の資金か」
「印刷所の紙代、説法師の宿、帳簿の偽装費。どこかで“大きな財布”が動いている。根を枯らすなら水を止める」
「任せる」
私は立ち上がり、二人に向き直った。
「ここからは“制度”の戦いだ。評議席を増やす。市井代表を二席、職人組合代表を一席、祈祷所代表を一席。王家の席は減らす」
「殿下、権限が……」リリアナが不安げに見上げる。
「権威は、分けるほど強くなる。私一人の王国ではなく、声の王国にする」
アレンは、ゆっくり頷いた。
「殿下が前を向くなら、俺はその前に立ちます」
「違う。隣にだ」
沈黙の後、アレンが笑った。
「はい。隣に」
世界のひびが、遠くで細く鳴いた。
耳を澄ますと、音はもう恐怖ではない。合奏に混ざらない不協和音――無視してよい雑音に変わりつつあった。
「行こう」私は言った。「次は、公爵の財布を切る。金が止まれば、嘘は乾く。乾いた嘘は、燃える」
そして私は、推しと、婚約者と、元・敵を連れて歩き出した。
物語はまた一行、正しく狂っていく。
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