第3話 敵だったはずの彼が、味方になった日

 朝靄が城の屋根を白く縁取っていた。

 昨夜、捕らえた刺客のひとりが口を割った。背後にいたのは、宰相派の重鎮――公爵レーベン。原作では三章の山場で、彼がヒロインを陥れる大規模な社交会事件を起こし、主人公アレンが覚醒するきっかけを生む。


 だが現実は早すぎる。

 シナリオは、こちらの改変に合わせて歯車を狂わせ、予定よりもずっと前に牙を剥きはじめている。


 「殿下、よろしいでしょうか」

 扉の外から侍従長の穏やかな声。

 「入れ」


 入ってきた侍従長は小さく一礼し、銀盆に封蝋された書簡を載せた。

 「公爵閣下より。今夜の私室茶会にぜひ、とのことにございます」

 「……誘いに来たか。早い」


 考えろ。誘いは罠だ。けれど、罠の形はまだ見えない。

 “殿下が公爵家に頭を垂れた”という噂さえ流せれば、彼らは勝ち筋を得る。王太子である私の権威を損なわせ、国政の主導権を確保できるからだ。


 私は封を開けずに侍従長へ戻した。

 「返書を。――『望むところだ』と」

 「畏まりました」


 彼らの舞台に上がる。ただし、台本は私が書き換える。


 ***


 午下がり、私は訓練場へ向かった。

 陽光の粒が舞い、砂埃にきらめきを混ぜる。木剣が打ち合う乾いた音。視線の先に、推し――アレンの背中。


 「殿下」

 気づいた彼が走ってくる。汗で額の髪が張りつき、呼吸は荒い。それでも目は澄んでいた。

 「また、お手合わせをいただけますか」

 「もちろんだ」


 木剣を交える。速い。昨日より確実に速い。私は受け、外し、足さばきで崩し、最後の一合で彼の懐に踏み込んだ。

 「ここ」

 私は木剣の先で、アレンの胸――心臓の斜め上を軽く突く。

「一瞬、視線が泳いだ。疲れが出た時ほど、目で呼吸する感覚を意識しろ」

 「……目で、呼吸」

 「視界の中心で息をしているつもりで、焦点を前に押し出す。肺じゃなく、目で吸って目で吐く。そう思うだけで、足が一歩遅れなくなる」


 アレンは何度も瞬きをし、真剣にうなずいた。

 「やってみます」


 私は木剣を下ろすと、声を落とした。

 「今夜、公爵レーベンの私室茶会に行く」

 「……危険では」

 「危険だ。だから――護衛に紛れて入れ」

 アレンの目が見開かれる。

 「殿下の命を狙う者がいる。だがそれだけじゃない。今夜は『筋書き』が動く。君に見ておいて欲しい」


 彼は迷いのない声音で答えた。

 「はい」


 ***


 夕刻、私の執務室。

 開いた窓から、橙の光が床に長い格子を描いている。そこへ、私の婚約者であり原作ヒロインのリリアナが、控えめに扉を叩いた。


 「入っていい」

 「失礼いたします、殿下」


 今朝より緊張の色が薄い。舞踏会で溺愛した効果が出ているのだろう。

 ――原作では、ここで私は彼女を叱責する。淑女教育の遅れや作法の些細な失敗をあげつらい、侍女たちの前で恥をかかせる“悪役イベント”。


 私は椅子の横を指さした。

 「少し歩こうか」


 西庭の回廊は、沈む太陽を受けて赤い花のように燃えている。私はゆっくり歩調を合わせ、口を開いた。

 「リリアナ。質問だ。――君は、何のために婚約者になった?」

 「え?」

 「答えは一つじゃない。家のため、国のため、自分のため、人のため。君の言葉で、教えてほしい」


 彼女は驚いた顔をした後、真剣に考える眼差しになった。

 「……誰かが困っている時、笑ってほしいから。変でしょうか」

 「変じゃない。むしろ王家に最も不足している答えだ」


 リリアナがはっとこちらを見る。

 「王家が不足……?」

 「権威は人を黙らせる。黙った人の本音は見えない。見えないものは、いつか毒になる。私はそれを、何度も見た」


 私は歩を止め、庭の先――城下の屋根が連なる方角へ目を細める。

 「今夜、宰相派の公爵と会う。彼らは『黙らせる術』で政治を動かしている」

 「危険です」

 「危険だよ。でも、黙っていればもっと危険になる」


 リリアナは、小さく拳を握った。

 「私にできることは、ありますか」

 「ある。君は――噂を流してほしい」

 「噂、ですか」

 「『殿下は婚約者を心から尊重している。彼女の意見を常に聞き入れている』。それを、君の言葉で、さりげなく」


 彼女は目を見開き、次いで微笑んだ。

「……できると思います」


 彼女に“声”を持たせる。原作では奪われていた声を。

 世界が修正しようとするなら、こちらは“人”で上書きする。


 ***


 夜。

 レーベン公爵邸は、城の北翼に匹敵する規模の別邸だった。石造りの壁面に蔦が這い、巨大な硝子窓の向こうで金の燭台が揺れている。

 門番の検めは厳重だ。私は最小限の随行で到着し、儀礼通りに挨拶を済ませた。


 「これはこれは、殿下」

 現れたレーベン公爵は、丸々とした頬に鷹のような目を載せていた。

 「ご招待に与り、感謝する」

 「恐縮にございます。――どうぞ、こちらへ」


 通されたのは広い私室。壁には古地図や狩猟画が並び、中央に深い赤の絨毯。卓上には茶器とともに、封の切られていない文書が積まれている。

 「公務の合間に、殿下にご覧いただきたい書状が多数ありましてな。王家のため、ささやかながら尽力を」

 「そうか」


 私は席につき、茶を口に運ぶ。香の下でわずかに渋み。毒ではない。いや、毒であれば楽だった。

 本番はきっと――言葉だ。


 「殿下は近頃、たいへんお優しいとか。婚約者にも慈愛をお見せだとか。いや、若いというのは良いことですな」

 公爵は笑い、目だけ笑わない。

 「若い感情が国政に混ざると、往々にして問題が起こる。そこで、です。王家と我が家でいくつかの権限を“分担”しては。殿下は文化や慈善、我らは財政と軍政。お互い得意分野で輝ける」


 ――権限の切り売り。

 この男は、王家を空洞化させるつもりだ。


 私は茶器を静かに置いた。

 「提案は理解した」

 「おお、寛容なお返事。やはり殿下は賢明なお方だ」


 ここだ。

 私は笑みを返し――テーブルに封書のひとつを指先で滑らせた。

 「ところで、公爵。これは何か知っているか」

 「……ほう?」


 封蝋には、公爵派の若手伯爵家の紋。

 中身は、私の暗殺計画の覚書。昨夜の刺客から押収したものだ。


 公爵の目に、ほんの一瞬、薄い波紋が走った。

 私は声を低くする。

 「私は、敵に優しくはしない。友には最大限に優しいが」

 「……左様で」

 「そしてもうひとつ。私の“婚約者の声”を封じる者は、すべて敵だ。――あなたはどちらだ、公爵」


 空気が、音を飲んだ。

 絨毯の赤が、熱を増したように見える。

 レーベンは口角をわずかに上げた。

 「殿下。お戯れを。私がそのような……」

 「いいや。あなたが指を動かし、権力で人を黙らせる。それがいつか国を腐らせる」


 沈黙。

 長い、長い沈黙。

 やがてレーベンの目が細く笑った。


 「なるほど。ならば――実力で決めましょうか」

 「実力?」

 「言葉ではなく、評判で。殿下、今宵のうちにこの書状が“陛下の御前”に上がらねば、明朝には城下にこう流れるでしょう。『王子は虚偽文書で公爵家を貶めた』と。世論は荒れますぞ」


 私は肩を竦めた。

「上がればいい。私は陛下の子だ。私の言葉か、公爵の言葉か。陛下は見抜く」

 「ほう。父上を信じておいでか」

 「父ではなく“陛下”を信じている。王という制度の眼を」


 公爵の口元から、笑いが消えた。

 「殿下。――あなたは悪役には向いておらぬ」


 その瞬間、背後のカーテンが揺れ、刃の光が走った。

 私は椅子を蹴って身を沈める。

 ――二人、いや三人。

 低い床鳴りを踏む気配。私室の扉の外でも甲冑の擦れる音が。囲まれた。


 「世界の修正、そしてあなたの力試し。欲張りな夜だな」

 私は舌打ちし、魔力の印を結ぶ。

 脊髄が灼けるように熱くなり、床の影が立ち上がった。闇の幕が刃を呑み、ひとりの手首を絡め取る。

 「がっ……!」


 扉が破れ、飛び込んできた影がある。

 「殿下!」

 アレンだ。護衛に紛れていた彼が、弓を翻し矢を一本――窓枠の上、もう一人の暗殺者の手元へ突き立てた。

 「助かった!」

 「まだ、います!」


 私は闇の幕で刃を絡め、足払いで倒す。アレンがすかさず柄で顎を打つ。

 立て続けに二人が昏倒し、部屋に荒い息遣いだけが残った。


 私は振り返る。

 レーベン公爵は、椅子に座ったまま微動だにしない。

 「騒々しい。――殿下、こうして王都の治安が乱れるのは、どなたの責任だと思われます?」

 「暗殺者を招いた主」


 彼は細く笑った。

 「違う。『悪役』という役目にあらがい、筋書きを壊した者です。世界は秩序を愛する。秩序は“悪役”を必要とする。殿下、あなたが悪役でいてくだされば、誰も傷つかなかったのです」


 背筋に冷水が落ちたような感覚。

 世界の修正力。役割という名の檻。

 私は、ゆっくりと笑った。


 「私が悪役でいると、あなたが栄える。――嫌だね」

 「なら、殿下は“世界の敵”になる」

 「世界が推しを殺す世界なら、私は何度でも敵になる」


 公爵の目が細まる。

 「面白い。いいでしょう。では殿下、ここからは評判の戦だ。明朝、城下に“新しい噂”が流れる。あなたの婚約者に関する――不名誉なやつが」

 胸が熱くなり、同時に冷える。

 リリアナを標的にする気か。


 私が口を開くより速く、アレンが一歩進み出ていた。

 「公爵。王子殿下を侮辱することは、騎士として許せません」

 「無礼者。身分を弁えよ」

 「身分は努力で越えられます。――殿下が、そう教えてくれました」


 アレンの声は、石壁にまっすぐ突き刺さる。

 その瞬間、私は悟った。

 この場の“筋書き”が、音を立てて書き換わったことを。


 原作では、ここでアレンは屈辱を味わい、怒りと悲しみを抱えて強くなる。けれど今、彼は屈しない。

 彼は、私の隣に立つ。


 私は公爵に向き直り、宣言した。

 「――明朝、王城の広場で布告を出す。王家は、婚約者リリアナの発言権を公に認め、王家の公式評議席のひとつを与える。これが私の答えだ」

 レーベンの眉がわずかに動いた。

 「女性に評議席を? 笑止。城下の笑い者になりますぞ」

 「笑うなら笑わせろ。笑いは人の口だ。黙らせるより、千倍ましだ」


 私はアレンに目配せする。

 「退くぞ」

 「はい!」


 背を向けた瞬間、世界が軋んだ。

 視界の端で、壁の額縁がわずかに“滲む”。

 ――バグ。

 私が筋書きをさらに逸らせたから、修正がかかっている。


 踏み込む足に、床が半歩、遅れてついてくる感覚。

 だが私は歩みを止めなかった。


 「殿下」

 廊下に出たところで、アレンが囁く。

 「お怪我は」

「ない。お前は?」

 「問題ありません」


 私は彼の肩を軽く叩いた。

 「ありがとう。……君が、いてくれてよかった」


 その言葉に、アレンの耳がほんの少し赤くなる。

 彼はまっすぐな目で、私を見た。

 「殿下。俺は、あなたの剣です。命令をください」


 原作で敵だった彼が、今は味方だ。

 胸の奥で、何かが静かにほどけ、別の何かが強く結ばれてゆく。


 ***


 翌朝。王城の広場。

 まだ朝靄の残る石畳には、既に人が集まっている。官吏、兵士、市井の者たち。囁きが波を成し、噂が噛み合い、形のない不安が膨らんでいた。


 私は壇上に立った。隣に、リリアナ。彼女の目は怯えていない。

 「王家より布告する」

 声が、広場に響く。

 「王家は、婚約者リリアナに“公の声”を与える。以後、彼女は王家評議の席に列し、王国の慈善・教育・医療の諸案件について意見を述べる。その言葉は王家の正式記録に留められ、審議対象となる」


 ざわめきが波紋のように広がり、やがて衝突して音を立てた。

 「女が評議に?」「前例がないぞ」「王子は気でも触れたか」

 予想通りだ。私は表情ひとつ変えず、続ける。

 「権威は人を黙らせる。黙らせた声は毒になる。私は、毒を減らしたい」


 その時だった。

 広場の群衆の後方で、ひときわ大きな声が上がる。

 「王子の婚約者は、身の程を知らぬ俗女だ! 王家を私物化している!」

 早い。公爵派の仕込みだ。噂の“火種”を持ち込み、ここで燃やすつもり。


 私は一歩前に出た。

 「俗女と呼ぶなら、私も俗物だ。私は眠れば腹が減り、痛ければ泣く。人だ。――王は人だ。人の声を聞かずに、どうして王が務まる。黙らせた声の上に積むのは、墓だ」


 静寂。

 それは批難の前、あるいは納得の前に訪れる呼吸。

 私は手を差し伸べる。

 「リリアナ」


 彼女は深く礼をして、顔を上げ、群衆に向き合った。

 「わたくしは、子どもたちが本を読める場所を増やしたいと思っています。病の床にある人が、痛みを少しでも忘れられる音楽の場を。そうしたことにお金と人を回す仕組みが、今の王都には足りません。――愚かでしょうか」


 群衆のざわめきが、さざ波に変わる。

 ひとりの老婆が杖を握りしめて叫んだ。

 「愚かやない! 若いのによう言うた!」

 別の職人が声を上げる。

 「仕事が増えるなら、反対する理由はねぇ!」


 私は、ほんの少しだけ息を吐いた。

 公爵派の影が、群衆の中で位置を変える。

 彼らは次の火種を探している。

 ――だが今日は、ここまでだ。

 世界の修正力が首筋に息を吹きかける。額縁が滲んだ昨夜の感覚が、空の雲に混じって揺れている。


 私は最後に宣言した。

 「王家の敵は、民を黙らせる者だ。名を問わない。――以上」


 布告は終わった。

 拍手がまばらに、だが確かに起きる。

 私は壇上を降り、リリアナの手を支え、アレンと視線を交わす。

 彼は頷いた。

 「殿下、今の布告で、公爵は強硬策に出るでしょう」

 「来るなら来い。――次は、こちらの番だ」


 広場の外れで、風が不自然に巻いた。

 見上げれば、空の一角が薄くひび割れている。

 誰も気づかない。私だけが見る。

 世界が“治し”にかかっている。


 私はそのひびへ、心の中で言葉を投げた。

 ――推しは、殺させない。

 そのためなら、物語ごと書き換える。

 悪役であろうと、世界の敵であろうと。


 背に、人々のざわめき。隣に、ふたつの気配。

 リリアナの握る手は柔らかく、アレンの立つ足音は、刃のように真っ直ぐだった。


 敵だったはずの彼が、味方になった日。

 物語は、正しく狂い始めた。




ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

「悪役×推し活×原作改変」路線で、次回はいよいよ公爵派との“評判戦”が本格化。世界の修正力との知恵比べも加速します。

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