クロユリは君の胸には咲かない

石井はっ花

第1話 アイビー

ふう……。この学園。ムダに広いんだよね。


聖ゲイブリエル学園、右翼三階。


ルシアン=フェラウデン(十六歳)は、広くて長い廊下を途中まで歩いて、立ち止まり息を整えた。


だが、もうすぐ、とっている「経済政策と国家管理」の授業が始まる。


急げば、間に合う。


だが、そこまでの体力は、ルシアンにはない。


健康な少年であれば、ものの三十秒もかからずに行けるだろう。


けれども、ルシアンには遠い距離だ。


知らず知らずにため息が出てしまう。


そこへ、大きな足音が近づいてくる。


(あ、ヴィルヘルム=アーレルスマイアー教授……こっちに向かってくる)


休んでいたルシアンは、壁から離れて教室に向けて歩を進めた。


教授がまだ教室についていないなら、遅刻認定はされないかもしれない。


そんなことを思っていたら、足音はすぐそばを通り抜ける。


「おい!ルシアン=フェラウデン!このままだと遅刻になるぞ!」


「はい……急ぎます……」


と、歩を進めようとしたが、なにもないところで、ルシアンは躓いてしまった。


「あ……!」


既のところで、程よく筋肉のついた腕に抱きとめられた。


「おい!大丈夫か?」


無精髭の生えた無骨な面のそば、ゆっくりと胸を上下させている華奢なルシアンの顔があった。


その肩も腰も細身である。


女子でもここまでの華奢さは生まれないかもしれない。


ヴィルヘルムの胸の中で、心臓がドクリと鳴った。


(おいおい、相手は男だぞ)


ヴィルヘルムは、ゆっくりと身を起こし、ルシアンを立たせてやった。


「……すみません。ありがとうございます──」


その時、フラっとルシアンがめまいを起こす。


「薬室に行ったほうがいいんじゃないか?連れて行こうか?」


「いえ、大丈夫です。いつものことですから。ご心配おかけして、すみません」


「フェラウデン。辛かったら、今日の授業、休んでもいいんだぞ?」


「教授。お気遣いすみません。遅刻になるかと思いますが、これから向かいます。教授は、先に向かってください」


ルシアンは、静かに頭を下げた。


「わかった。無理せずに来るんだぞ」


ヴィルヘルムは、ルシアンをそのままに教室に向かって走っていった。



きぃ。と小さな音を立てて入口のドアを開く。


授業中にもかかわらず、学生たちが一斉にこちらを向いた。


「おう。遅かったな。フェラウデン。無理せずに、ゆっくり座れ」


ルシアンは、軽く会釈して席に座り息を整えた。


──ルシアンには、幼少期に決められた婚約者が居る。


オーレンドルフ公爵家の息女クラウディア、十四歳だ。


同じ学園に婚約者が居るとは言え、取る授業も違う上、全学生寮生活、かつ、男子寮女子寮ともに異性立入禁止となれば、示し合わせて会いに行かない限りは、交流も少ないという状況になる。


五歳の春での婚約ではあったが、その翌年の秋、ルシアンが重度の肺病にかかり一命を取りとめたものだが、その後遺症が残したものは虚弱体質。


オーレンドルフ家としては婚約破棄をしたかったのかもしれないが、公爵家という家格。婚約破棄を選ばずにいたのは家格によるものか。


だが、成長するにつれ、社交界に広まる噂は両極端だった。


「オーレンドルフの令嬢は舞踏会でまた喝采を浴びたらしい」


「フェラウデンの子息は、まだ咳が止まらぬそうだ」


その対比はいつしか色あせ、ルシアンが十三で聖ゲイブリエル学園に入学する頃には、病弱の影は囁かれなくなっていた。


代わりに彼の耳に届くのは──


「あれが男子生徒だって?」


「姫君のような顔立ちだ」


そんな囁きと、好奇と揶揄をないまぜにした視線だった。


ルシアン当人の感情によると、それこそが不名誉で不本意ではあったのだが。


けれども、オーレンドルフ家周辺に関しては、そのルシアンの美しさは、疎ましいものだった。


先代は武勇を誇る将であったし、猛る男らしさが自慢の家だったからである。


対して、ルシアンは線の細い丈夫とは程遠い人物だ。


こんな者が当主、もしくは入り婿となるのかと反対する向きもあるのだ。


ことに同じ授業を取るオーレンドルフ公爵家の親戚筋のメンゲルベルク伯爵家の三男からの風当たりは強かった。


今回も天才経済学者であるヴィルヘルムの授業に時間通りこられなかったルシアンに睨みを利かせてくる。


だが、ルシアンは、動じずにいた。


ルシアンは、フェラウデン侯爵家の次男だ。


メンゲルベルクの三男は、伯爵家の血筋。


家格の下のものから嘲りを受け、それを真に受けるなぞ、それこそが不名誉なのだ。


ルシアンは、体力が尽き今にもへたり込みそうな自分を律し、自身に割り当てられた席に着いた。


それを確認したヴィルヘルムは、黒板へと向かう。



「おいおい。また、お前、無茶したろ。随分ヘタってるじゃねえか」


幼馴染であるリーンハルト=プロストが、言った。言われたルシアンは、息も絶え絶えだ。


プロスト伯爵家嫡男、リーンハルト。


父親たちが、この聖ゲイブリエル学園に通っていた頃に知り合い、親友の誓いをお互いに交わしたのだ。


今も家格を超えた親友であり、プロスト伯爵はフェラウデン侯爵を支えるブレーンのひとりでもある。


ルシアンとリーンハルトは、それこそ互いにオシメをしていた頃からの仲だ。


お互いに訓練と称して、木の棒を振り回して戦いごっこをしていた仲なのだ。


互いが六歳の秋、肺病にかかったルシアンを見舞いに行ったが、その弱りように怒りを覚えた。


これでは、遊び相手にならないと思ったからだ。


しかし、親が侯爵家の次男の遊び相手と指名している以上、自分の勝手で顔を見せないということ出来ない。


棒を振り回す代わりに本を読んで差し上げなさいと言われたが、本は苦手だ。


体を存分に使った遊びがしたいと、伏せるルシアンを連れ出そうとしたが、リーンハルト自身の父親にこっぴどく叱られた。


「リーン。ごめんね。僕……」


ルシアンは、無理をしたのがたたったか38℃を越える高熱の中、頭を下げた。


「僕だって、リーンともっと遊びたい……」


「いいんだ。熱、下がったら、また一緒に遊ぼう」


リーンハルトは、堪えきれずに泣いた。


今となっては懐かしい思い出だが、ルシアンとリーンハルトの間にあるのは、年月を越え、より深く紡がれた友情だ。


一緒に悪さの限りを尽くしていた、相棒のようだったルシアンが、今では透明な肌を持つ深層の令嬢のような美しさだ。


昔をよく知るリーンハルトでさえ、瞬間ドキッとする。


それでも、三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。


この外見の中に秘められている心については、誰よりわかっていると自負するリーンハルトだ。


(俺だけが、こいつの事を守ってやれる)


廊下の窓ガラス越しに日差しを浴びながら、ゆっくりと歩を進めるルシアン。


その歩調に合わせながら、リーンハルトは歩んでいく。



裏玄関から出ると、寮まではもう少しだ。


林を抜けると、見えてくる建物は様式美はあるが多少簡素でもある。


小庭園を挟み、手前が男子寮。奥にあるのが女子寮だ。


寮のドアを開けると、ホールのところに小窓があり、そこから寮長が顔を見せている。


ラインマー=オーケン(46歳)。


男爵家四男の彼は、婚姻どころか婚約話の一つも上がったことのない一見不遇とも思われる人生を送ってきた。


だが。


この聖ゲイブリエル学園男子寮の寮長という仕事こそが、自分に与えられた天職だと思い、日々、悩める学生たちの防波堤のような役割をこなしている。


ルシアンやリーンハルトもこのラインマーの「おかえり」というたった一言で、随分と心が救われるような心持ちになる。


「おい、ルシアン。今日は随分、顔色が悪いな?食事は部屋に運ぶか?」


「いえ。寮長。大丈夫です。お気遣いなく」


「いいや。無理するな。リーンハルト。お前、後で持っていってやれ。できるか?」


「任せてください。俺も、そう思ってましたから」


「そうか。いつもありがとうな」


ポンポンと、ラインマーは二人の頭に軽く手をおいた。


その仕草は、まるで、本当の兄弟に触れるようなものだった。



自室に戻ったルシアンは、まずは制服のジャケットをクローゼットにしまった。


シャツ姿になると、ネクタイを緩めたまま、ベッドに身を投げた。


呼吸は、やっぱり苦しいままだ。


健康に産んでくれた母。もちろん彼女には文句が付けようがない。


自分が何故、あの時肺病なんかに罹ってしまったのか。


確かに、市井では流行っていたと、後に聞いたことがあった。


だが、ルシアン自身はその時特に市井へ出たこともなければ、家人や私兵隊の者たちもルシアンほどの肺の病には罹っていなかったのだ。


一時期、オーレンドルフ家の魔術による攻撃という噂話も流れたようだが、ルシアンの父・エトムントが一笑に付した。


「そんなピンポイントの魔術などあるわけがない」と。


彼にとっては、病を得た息子によってようやく得たオーレンドルフ公爵家への婚約話が立ち消えにならないよう、それだけを祈っていた。


エトムントにとっては、より強大な家門と繋がれる絶好のチャンスだったのだ。


既に侯爵という身分はあるが、より高みを目指したいという野望があるようだった。


そのため、人質のように次子であるルシアンを公爵家へと娶らせようとしたのだ。


だが、長じたルシアンにとっては、特にメリットのある話ではない。


ましてや、この虚弱な体質だ。


妻となる婚約者のクラウディアを盛り立てて、その仕事ができるか。


自身ではそうは思えはしなかった。


けれども、父母がそう願い、周囲からももう望まれている以上、卒業とともに公爵家へ入るという道しか残されていないのだと、諦めが胸に迫る。


「どうして、僕は……」


恋すら、知らずに生きていくのだろうか。


ルシアンは、十六歳。春の生まれだ。


秋の風が、窓ガラスを揺らしている。


人知れず、涙が頬を伝っていく。


あと、一年半。


十八歳の誕生日が過ぎたら、卒業が待っている。


「僕だって、恋をしてみたい……。心が通い合う体験をしてみたい……」


少年は、誰もいない部屋で呟いた。日は翳り、ゆっくりと暗くなっていった。

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