黒瀬智哉の奇妙な田舎暮らし

黒瀬智哉(くろせともや)

静寂のゲージ、孤独の翼

 ――私のデスクトップPCのキーボードの「F」と「J」の間に軽々しく鎮座しているカラスの羽根は、私が息を吐くたびに微かに揺れるだけで、他には何の音もしない。インターネットの喧騒を締め出した静寂が、かえって思考を深くさせている。


 まだ自宅の光回線が開通していないため、今はインターネットという**『翼』を失った代わりに、この『自然の翼』**をキーボードの上に置き、空想の世界へ旅立っているのだ―。


 だが、光回線の開通工事が終了した暁には。あのカラスの羽根を指先でつまみ、ためらいなくデスクの端へ追いやった時、私は執筆活動を再開させるだろう。それは、黒瀬智哉が「自然の翼」から「電子の翼」へと飛び立つ瞬間だ。


 その日が待ち遠しい―。


 指先がキーボードの感触を忘れかけていることへの焦燥、胸の奥で原稿用紙の束がうずいているような感覚。


『今は小説家としての黒瀬智哉は、一時休業中―。』


 しかし、ネタは溜まっていく。むしろ、この空白期間で、日々目にするものが新たな「種」となって、胸の内で密かに育っているではないか。書きたい小説など山ほどあり、作家としてのレベルも成長している気がする。大阪で暮らしていた頃は書けなかった物(思いも付かなかった事)が書けるようになっている気がしている。



 今夜はやけに静かだ―。



 昨日まで、二階の畳の寝室の照明LEDシーリングライトに群がり、羽音を響かせていた小さな生命のざわめきが、今は聞こえない。耳を澄ませば、外の鈴虫とコウロギの大合唱だけが、いつにも増して遠く、そして響いているように感じられた。


 昨夜までの賑やかさは、まるで小さなディスコのようだった。それが一変し、本日は一匹の羽音も聞こえない。まるで、何かのスイッチが切れたかのように。昔ながらの土壁に立て掛けられた壁掛け時計は、午後九時を指していた。


「何かあったのだろうか―。」


 季節の変わり目という奴で夏虫はまとめて逝ったのか―。昨日は彼らはお別れを言いに来ていたのかも知れない。もしくはあの賑わいは彼らにとっての最後の晩餐だったのか―。虫の命は短命だからな。


「コイツも時期に逝くんだろうな。」


 黒瀬はあの夜、デリバリーバッグにしがみついて奈良に引越したばかりの一戸建ての自宅まで着いてきたキリギリスに目をやった―。


 最初は自宅で彼(キリギリス)を飼う予定などなかった。その日の晩に寝室のベランダから彼を逃がしてやったのだが、なんと翌日の夜に彼は戻ってきたのである。何も語らない静かな奴だが、指をそっと差し出すと腕をゆっくりと登ってきた。何を考えている奴かわからんが、どうやら気に入られてしまったらしい―。


 ――黒瀬は彼(キリギリス)を飼ってみることにした――


 その翌日、黒瀬は用事で彼が数日前まで暮らしていた大阪へバイクで向かい。用事を済ませて帰って来ると、奴はまだ寝室にいた。ベランダの扉を開けっ放しにしていたというのに。


 部屋に入った瞬間。『おかえりなさい』と奴に言われた気がした―。


―――

―――――

―――――――


「おはよう。」


 翌朝。


「午前四時十五分。またこんな時間に目覚めてしまった。」


 奴のために造ったゲージ(スーパーマーケットの総菜が入ってた透明パックと庭の土と適当な葉っぱで造った。)を見てみると、奴は彼の寝床からひょっこりと顔を出していた。指先を差し出すとゆっくりと私の腕に登ってきた。


「可愛い奴め―。」


 黒瀬はそう呟くと、ゲージを手に取り、そっと蓋を開けた。網戸の向こうには、生温かい朝の空気が広がっている。彼は手を差し出すことなく、ただ解放された小さな生命が、自ら選んだ道へ踏み出すのを見守った。


 新鮮な草に取り替えてやった。


 その後、簡単なアスレチックを造ってやった。だがもう彼はここにはいない。今朝は**再び彼の自主性**に任せることにした。「自然に帰るなら帰れ、ここに戻ってきたいなら戻ってこい―。」


 さっきそこのゲージから出て、ベランダ側の襖を登っていた彼だが。気が付けばもう彼の姿は無かった―。人間のエゴではない、純粋な愛と孤独がそこに滲み出ていた。人間が造った彼が好む疑似環境がいいのか―それとも本物の自然の方がいいのか―。


 彼はもうそこにはいない―。「じゃあな。あとは好きにしなさい。」


『ここは人間が住む世界だ。』


 今朝の窓からの朝日はいつもより幻想的だった。


 ゆっくりと朝日が登っていく―。


 ベランダの外に目をやると―。網戸の向こう側に、一匹の蝶が張り付き、こちらを見ていた―。


 やがて一匹のミツバチが窓の外から入ってきた。部屋の中を縦横無尽に飛び回るとベランダの網戸に張り付く―。慌てる必要はない、放っとけばいい。いつものことだ。「気が済めば勝手に出て行くだろう。」


『ほら。もう出て行った。』


 ブゥゥ...ンと羽を鳴らして網戸の隙からベランダへと出て行った。「こんなところに君の好きな朝食(花)なんてないよ。」


 ―奴(キリギリス)はもう。お手製のゲージには戻って来なかった。大切な家族だったのだがな―。「また私は一人になったか。」


「まあいい。彼には彼の好む世界があるのだろう。ならば、私にも私の世界がある。もう、休んでいられる時ではない。」


 短い間だったが、君と過ごした日々は楽しかったよ。


『ありがとう。』


「あれは最後のお別れの挨拶だったんだな―。」そう静かに呟くと黒瀬は窓の外の朝焼けに目をやった。彼の執筆再開はもうそこまで来ていた。



 黒瀬家の一日は掃除から始まる。そしてそれももう終わった。昨日までと違う点は有料ごみ袋とハサミを片手に家中のゴミを回収しながら、大きめのゴミはハサミを入れて小さくして、ゴミ袋に入れるぐらいか―。


 ゴミを回収したあと、家中に掃除機を掛けて寝室の畳の雑巾掛けもする。


 神棚の周りも掃除機を掛けて雑巾掛けをやる。この時、神棚の近くに置いてある掃除用の小さな桶の水で雑巾を湿らせれば雑巾掛けがやりやすい―。神棚の周りの柱や畳。神棚も雑巾掛けをやる―。水は新しいのに取り替えておいた。最後に両手を合わせた。


 清めた神棚に向かい、光回線が開通した暁には、この場所で、大阪では書けなかった新たな物語を生み出すことを静かに誓った。神棚に納めているお札は、『日本の最高神』とされる伊勢神宮のお札である―。



 一階へと続く階段も掃除。朝起きたら二階と一階の家中の窓を開放して回ってるため―。家中に外から入ってきた朝の風が通り抜け、新鮮な空気が家中に循環する。


 寝室兼くつろぎルームのチェアに腰掛けて一服した。気持ちいい朝の風を感じた―。


 外からはスズメの鳴き声や遠くに飛び立ったカラスの鳴き声が風に乗って、ガタンゴトンという列車の音と共に聞こえてきた。ガタンゴトンという列車の音が、まるで光回線開通の日へと私を運んでいくように聞こえた。


 ほお。珍しい。あのカラスが昼近くに自宅の直ぐ側の電柱にやってきていた。「カアァァ」という鳴き声で気が付いた。思い返せば、ここに引っ越してきたばかりの頃、初日の朝に彼の鳴き声で目覚めたな。


「いい目覚まし代わりになるわ。」と思っていたが。いつの間にか私の方が早く起きるようになっていたよ。


「まだここにやってきて17日ぐらいしか経過してないが―。色々あったな。」


 黒瀬のデスクトップPCのキーボードの上には、カラスの羽根が静かに横たわっていた。―大阪の雑踏では、私は常に周囲のノイズに気を取られ、他者の視線の中にいた。だが、ここでは、虫たちの小さな生と死、古い土壁と朝日だけが、私自身の物語を深く掘り下げさせてくれる。

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