第6話 残された声

リビングの照明は、夕暮れに溶け込むように弱々しく灯っていた。

ソファに腰を下ろしたようこは、深く息を吐き出す。


「……ねいろ、ごめんね。」

呼びかける声はかすかに震えていた。


台所のテーブルに肘をついたねいろは、ペットボトルの水を口に含み、少し間をおいてから答える。

「なにが?」


「お母さん、ねいろに甘えてきちゃったんだと思う。」

ようこは視線を落とす。

「ピアノ、やめさせてしまったのも……あのとき、もっと背中を押してあげられたら。」


ねいろはふっと笑った。

「もういいよ。介護の仕事も好きだから。今日だってね……」


ねいろは、施設で代わりにピアノを弾いたときのことを話した。

入居者の目が輝いて、小さな拍手が起きたこと。

「場所は関係ないんだなって思った。好きなことって、どこでやっても楽しいんだよ。」


ようこの目尻がやわらかく揺れる。涙を落とさぬよう、静かにうなずいた。


少し間をおいて、ねいろが言った。

「……いろは、iPadあったほうがいいんじゃない? 私も出すよ。」


ようこは顔を上げ、目を赤くしながら笑った。

「半分ずつにしよう。今度の休日に見に行こうか。」


二人は小さく頷き合う。決め事が静かに固まった。

その沈黙には、温かな余韻が流れた。


——そのとき、玄関のドアが静かに開いた。

いろはが帰ってきて、靴を脱ぎながら振り返る。


「お母さん、ごめんね。……もう大丈夫、描けるから。」


その言葉に、ようことねいろは一瞬顔を見合わせた。

驚きと、少しの安堵と。


背中を見送ると、部屋へ入っていくいろはの表情は、どこかすっきりして見えた。


——その夜。

机の上でスケッチブックを開いたいろはは、ペンを走らせた。

「弘法、筆を選ばず。」

スマホに残るやり取りを思い出し、思わず笑みがこぼれる。


描き始めた線は、昨日よりも迷いが少なかった。

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