第11話「拍の外側、数えを食う闇」

 鐘は眠り、鈴は袋の底で黙り、白布は畳まれて倉に仕舞われた。

 器がほどかれた広場は、音が軽くなった。石畳の継ぎ目の間を、昼の風が素通りしていく。吊台の印は十八のまま、乾いた爪痕のようにそこに残っている。

 俺はその前に立ち、胸の奥で数を転がした。ひとつ、ふたつ、みっつ――。

 数えは澄んでいた。けれど、耳の底のどこかで、ごく微かな遅れが、まるで遠雷の残響のように重なってくる。拍をずらすほどではない、だが“影の入る余白”としては十分な薄さ。


「まだ、いる」

 俺が呟くと、ミナが隣で指を止めた。「どこ?」

「拍の外側」

「……外側?」

 うまく言葉にできなかった。

 鐘でも鈴でもない、器でも人でもない。昨日までの“影”は、音と器で増え、合図と仕掛けで紛れ込んだ。けれど今、この薄い遅れは、何にも寄りかからずにいる。

 俺の胸が打ち、そして――もうひとつ、追う。たったそれだけで、朝の光はほんの一瞬、影の縁を濃くする。



 夕刻の前に、俺は老人に頼んで“数えの稽古(けいこ)”を一つ増やしてもらった。

 輪を三重にする。外側は若い男たちと子どもたち。中段は女たちと老人。中央の円に、俺とミナとカイ。

 声は外から内へ、内から外へ、往復で流す。

 拍は一周するたびに半拍ずらす。

 そうすることで、もし“拍の外側”に潜むものがいるなら、どこでずれるか、輪のどの位置に“余白”が生まれるかが見える。


 老婆は席を与えられ、札の束をほぐしながら輪の中段に入った。ヨルグは縛られた腕で返し板の“鈍らせ方”を鍛冶屋に説明し終え、今は吊台の支柱の陰で黙って輪を見ている。エダは祈りの合図を声に置き換える練習を先導し、震えの消えた声でゆっくり型を刻んだ。

 鐘も鈴もない夕餉前の数えは、村をやわらかく温めていく。

 ――その輪に、微かな蒼さが差しはじめた時。


 “遅れ”が、俺の足元で厚みを増した。

 最初は勘違いだと思った。石畳の継ぎ目に足の裏が少し引っかかった、ただそれだけの感触。

 けれど、二周目、半拍ずらして戻すと、同じ場所で同じ薄い抵抗が生じた。

 石畳の上に、なにもない。光が同じ角度で差し、風が同じように髪を撫でる。

 なのに、数えの声だけが、そこだけ遠い。

 人の声なのに、器を通したような距離。

 俺は三周目の返拍で、わざと一歩早く、わざと一拍遅く、その地点を踏み直した。

 ――遅れが、ついてくる。

 俺の“生”の拍に、遅れが寄生した。



 稽古が終わると、輪は家々へ散り、夕餉の湯気がそこかしこから立ちのぼった。祈りの家の扉は開け放たれ、薄い香が風に溶ける。

 俺は一人、広場に残り、足元の石畳を見つめた。

 ――この石はいつからここにある?

 村の最初の拍から? 吊台の最初の印から?

 じっと見ていると、表面の微かな擦り傷が、文字のように見えた。

 いや、文字ではない。数えの痕だ。

 子どもらが遊びで足で刻んだ数え歌の拍、荷車の車輪が刻む均等な間合い、祈りの身振りが落とす小さな擦過。

 この場所は、ずっと“数え”の中心だった。

 だから――拍の外側も、ここに溜まる。


 ミナが水を持って戻ってきた。「飲んで」

 器は素焼きの椀。水面が夕の空を映す。

 口をつけると、舌に冷たさと土の香りが広がった。その瞬間、遅れの輪郭がはっきりする。

 喉が打つ。

 ひとつ。

 ふたつ。

 ――そして、半。

 水の落ちる音が、拍を半分だけ遅らせる。

 俺は椀を見つめ、ふと思い至った。

 器をほどいたのに、残った“器”。

 体だ。

 声の器、血の器、鼓動の器。

 俺自身の中に、拍をずらす“余白”がある。


「リク?」

 ミナの声が近い。

「大丈夫」

 そう言いながら、俺は胸に手を当てた。心臓は規則正しい。だが、耳の底で鳴る拍は、半拍、わずかに外へ膨らむ。

 戻りたいのか、戻るのか。

 戻らないと決めたばかりなのに、拍は昔の癖を思い出そうとしている。



 夜警の準備が始まった。

 カイが若い男たちに槍と松明の扱いを教え、エダが祈りの声を短い合図に変換する。老婆は札を紐で束ね直し、ヨルグは鍛冶屋に返し板を渡した。

 老人が俺のところへ来る。「顔色が悪い」

「大丈夫です。――ひとつ、相談が」

 俺は足元の石畳の遅れの話をした。三周の稽古で同じ位置で起き、俺の呼吸に絡みつき、椀の水でもう半拍だけ重くなることを。

 老人は黙って耳を傾け、やがて言った。「おまえは“戻って”きた。何度も」

「はい」

「戻る拍は、どこから来る?」

「……分からない。ただ、朝の鐘の前後、吊台の前、石畳の上。いつも“ここ”に戻る」

 老人は杖の先で、石畳の継ぎ目を軽くなぞった。「なら、その拍の紐がまだ切れていない。器をほどいたように、拍の紐もほどけるはずだ」

「どうやって」

「結び目を見つける」老人の眼差しは静かだった。「結びは、二つのものの境目にできる。――生と影、声と沈黙、今と昔。おまえの“戻り目”の結びは、その境目にある」


 境目。

 俺は視線を吊台へ移した。印は十八。けれど、石の目は十九番目を受け入れる余白を保っている。

 “いつでも刻める”余白――それが結びか。

 なら、そこへ手を伸ばすには、俺の拍を“境目”に置く必要がある。


「今夜」老人が言った。「夜警の一番は、わしとおまえとカイ。二番はミナと若い男二人。三番は村の女三人。……一番の最後に“拍を止める”。やれるか」

 拍を止める。

 生きている限り、心臓は鳴る。拍を完全に止めることは死に直結する。

 だが、返拍を覚えた。逆拍を覚えた。

 ――なら、無拍を一瞬だけ作れないか。

 呼吸を浅くし、脈を遅らせ、身体の器の拍を、薄く薄く、紙一枚にする。

 そこへ、境目の結び目を差し込む。

 怖さが、指の骨を冷やした。

 けれど、ミナが隣に立つだけで、怖さは形を変える。

 俺は頷いた。「やる」



 星は少なく、雲は薄く、風は冷たかった。

 祈りの家の扉は半ば開かれ、香の煙はもう立たない。吊台の前に三人――俺、老人、カイ。

 カイは槍を横に伏せ、足を肩幅に開き、視界の端で広場を全部捉える構えを取った。老人は杖の高さを胸と腹の中間に持ち、拍を打つ位置をどちらにも傾けられるようにした。

 俺は石畳の“遅れの地点”に立つ。

 胸の中で、数える。

 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。

 ――返拍。

 ――逆拍。

 拍が薄くなる。

 息が丹田の底に落ちていく。

 視界の輪郭が少しだけゆがむ。

 耳の奥で、古い鐘の幻の低音が遠く鳴る。器はもうないのに、記憶の器が鳴る。

 わずかに舌が鉄の味を覚え、指の腹が石の目をなぞる。

 いま。


「無拍(むはく)だ」

 老人の声が、風よりも低く響いた。

 俺は息を止め、拍の紙を作った。

 心臓が、ひとつ打つはずの場所で、ほんの一瞬、空白を作る。

 世界の色が、一色だけ抜ける。

 吊台の印の白が、紙の穴になって俺の目に落ちる。

 そして――結び目が、見えた。


 石畳の継ぎ目の間、砂のような細い線。

 それは器の継手でも、仕掛けの糸でもない。

 朝の影の切れ端だった。

 鐘が鳴っていた頃、塔の影と人の影が重なる“あの瞬間”だけに生まれる、薄い影の重複。

 それが毎朝、薄く薄く、石に焼き付いている。

 焼き付いた影は目に見えない。

 だが、拍には触れる。

 それが“戻り”の紐になっていた。


 無拍の指で、その紐を摘む。

 掴めるはずがないのに、指は確かに冷たい“薄いもの”の感触を得た。

 そして、ほどいた。

 音が、戻る。

 心臓が、はっきりと一拍打つ。

 世界の欠けていた一色が戻り、夜の藍がもう一度、深くなった。


 同時に、吊台の十八の印の縁が、さざめいたように見えた。

 増えなかった。

 けれど、“刻める余白”が、消えた。

 十九番目のために開いていた紙の穴が、すっと閉じた。


「……切れたか」

 老人が静かに言った。

 俺は深く息を吸い、吐いた。胸の奥に残っていた遅れの気配は、もうない。

 拍は俺のものだ。

 戻る紐は、ほどけた。



 終わった、と言い切れるほど、村は単純ではなかった。

 翌朝、吊台の印は十八のまま、夜露に濡れていた。

 広場の輪は前より少し大きく、声は前より少し強く、笑いは前より少し長く響いた。

 けれど、仕掛けをほどき、紐をほどき、器をほどいても、“人”はすぐには変わらない。

 疑いは細い針になって残り、恐れは陰りになって石の目に潜む。

 だから、数える。

 声で、目で、指で。

 拍を、人の側に留めておくために。


 裁きの日、老婆は祈り札の整理を任され、ヨルグは鍛冶屋の元で冶具を“鈍らせる器”に作り替え続け、エダは声の合図で夜警の交代をきっちり回した。

 カイは弟と並んで広場に立ち、声のない数えを続けた。弟の口は形だけで「ひとつ」と言い、カイは「ふたつ」で受け、輪は自然と後に続いた。

 老人は紙片に新しい型を加えた。拍の合間に“空白”の丸を増やし、無拍の練習を一行だけ書いた。

 ――“声が集まりすぎたら、ひとつ、空白で返せ”。


 俺はその紙片を胸にしまい、吊台の印に指を重ねた。

 石は冷たい。だが、冷たさは“終わり”ではない。

 指の腹の線が、印の線と重なり、俺自身が石に刻まれていくような感覚があった。

 ミナがそっと俺の手を握る。「帰ろう」

「帰る場所が、できたな」

 言葉にしてみて、初めて喉の奥が熱くなった。

 戻らずに済む場所。

 戻らないと誓える場所。



 夜。

 俺は一人、塔の足元に立った。

 鐘は布に包まれたまま、静かに眠っている。

 布越しに触れると、表面は驚くほど滑らかで、冷たさはもう鋭くない。

 器にも“休眠”があるのかもしれない。

 鳴らない鐘は、器から喉笛へ、そして今はただの静かな金属に戻りつつある。

 それは、悪くない。


 空を見上げると、雲の合間に星がひとつ、ふたつ。

 俺は息を吸い、吐き、胸の奥で短く数えた。

 ひとつ。

 ふたつ。

 ――返拍。

 ――逆拍。

 そして、無拍。

 どれも、俺のものだ。

 誰にも盗ませない。

 影にも、器にも、拍の外側にも。


 背後で小さな足音。

 ミナが毛布を抱えて近づく。「寒いのに、ひとりで来ちゃだめ」

「もう大丈夫だと思って」

「大丈夫でも、ひとりはだめ」

 彼女の声は細く、しかし芯がある。鐘より確かで、鈴より暖かい。

 毛布に包まれ、塔の影の根元に腰を下ろす。

 しばらく、何も言わずに夜風を聴いた。

 拍は薄く、村の隅々に散っている。

 泣く子どもの声、鍋の蓋がわずかに触れる音、遠くの犬の吠え。

 どれも、器ではない。

 生の音だ。


「リク」

「ん」

「明日の数え、子どもたちに“無拍”を教えようよ」

「早いかな」

「早いほうがいい。――空白を知ってる子は、影に拍を渡さない」

 その言葉は、どこまでも真っ直ぐで、少しだけ切なかった。

 俺は頷き、夜空の一番暗いところを見た。

 そこに“ひとつ多い”は、もういない。

 もしまた現れても、返せる。

 俺たちは、返し方を知っている。


 塔の影は、季節が変われば向きも長さも変わる。

 印は十八のまま、だが、その意味はもう過去になった。

 過去は残る。

 残ったうえで、進む。

 “戻り”の紐がほどけた俺の足は、初めて、前へ出た。

 音のしない一歩。

 けれど、確かな一歩。


 翌朝、広場に集まった子どもたちが、声を揃えた。

 「ひとつ」

 「ふたつ」

 「みっつ」

 ミナが笑いながら、ほんの一瞬、空白を入れる。

 子どもたちは驚き、すぐに真似をした。

 空白は怖くない。

 空白は、声の居場所だ。

 それを教えることが、俺たちの“拍”になった。


 こうして――鐘のない村は、はじめて本当の朝を持った。

 誰も数を奪われない朝。

 影が入る余白さえ、人の呼吸に戻せる朝。

 俺は胸の奥で、もう一度だけ数えた。

 ひとつ。

 これが、俺たちの最初だ。

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