第11話「拍の外側、数えを食う闇」
鐘は眠り、鈴は袋の底で黙り、白布は畳まれて倉に仕舞われた。
器がほどかれた広場は、音が軽くなった。石畳の継ぎ目の間を、昼の風が素通りしていく。吊台の印は十八のまま、乾いた爪痕のようにそこに残っている。
俺はその前に立ち、胸の奥で数を転がした。ひとつ、ふたつ、みっつ――。
数えは澄んでいた。けれど、耳の底のどこかで、ごく微かな遅れが、まるで遠雷の残響のように重なってくる。拍をずらすほどではない、だが“影の入る余白”としては十分な薄さ。
「まだ、いる」
俺が呟くと、ミナが隣で指を止めた。「どこ?」
「拍の外側」
「……外側?」
うまく言葉にできなかった。
鐘でも鈴でもない、器でも人でもない。昨日までの“影”は、音と器で増え、合図と仕掛けで紛れ込んだ。けれど今、この薄い遅れは、何にも寄りかからずにいる。
俺の胸が打ち、そして――もうひとつ、追う。たったそれだけで、朝の光はほんの一瞬、影の縁を濃くする。
◆
夕刻の前に、俺は老人に頼んで“数えの稽古(けいこ)”を一つ増やしてもらった。
輪を三重にする。外側は若い男たちと子どもたち。中段は女たちと老人。中央の円に、俺とミナとカイ。
声は外から内へ、内から外へ、往復で流す。
拍は一周するたびに半拍ずらす。
そうすることで、もし“拍の外側”に潜むものがいるなら、どこでずれるか、輪のどの位置に“余白”が生まれるかが見える。
老婆は席を与えられ、札の束をほぐしながら輪の中段に入った。ヨルグは縛られた腕で返し板の“鈍らせ方”を鍛冶屋に説明し終え、今は吊台の支柱の陰で黙って輪を見ている。エダは祈りの合図を声に置き換える練習を先導し、震えの消えた声でゆっくり型を刻んだ。
鐘も鈴もない夕餉前の数えは、村をやわらかく温めていく。
――その輪に、微かな蒼さが差しはじめた時。
“遅れ”が、俺の足元で厚みを増した。
最初は勘違いだと思った。石畳の継ぎ目に足の裏が少し引っかかった、ただそれだけの感触。
けれど、二周目、半拍ずらして戻すと、同じ場所で同じ薄い抵抗が生じた。
石畳の上に、なにもない。光が同じ角度で差し、風が同じように髪を撫でる。
なのに、数えの声だけが、そこだけ遠い。
人の声なのに、器を通したような距離。
俺は三周目の返拍で、わざと一歩早く、わざと一拍遅く、その地点を踏み直した。
――遅れが、ついてくる。
俺の“生”の拍に、遅れが寄生した。
◆
稽古が終わると、輪は家々へ散り、夕餉の湯気がそこかしこから立ちのぼった。祈りの家の扉は開け放たれ、薄い香が風に溶ける。
俺は一人、広場に残り、足元の石畳を見つめた。
――この石はいつからここにある?
村の最初の拍から? 吊台の最初の印から?
じっと見ていると、表面の微かな擦り傷が、文字のように見えた。
いや、文字ではない。数えの痕だ。
子どもらが遊びで足で刻んだ数え歌の拍、荷車の車輪が刻む均等な間合い、祈りの身振りが落とす小さな擦過。
この場所は、ずっと“数え”の中心だった。
だから――拍の外側も、ここに溜まる。
ミナが水を持って戻ってきた。「飲んで」
器は素焼きの椀。水面が夕の空を映す。
口をつけると、舌に冷たさと土の香りが広がった。その瞬間、遅れの輪郭がはっきりする。
喉が打つ。
ひとつ。
ふたつ。
――そして、半。
水の落ちる音が、拍を半分だけ遅らせる。
俺は椀を見つめ、ふと思い至った。
器をほどいたのに、残った“器”。
体だ。
声の器、血の器、鼓動の器。
俺自身の中に、拍をずらす“余白”がある。
「リク?」
ミナの声が近い。
「大丈夫」
そう言いながら、俺は胸に手を当てた。心臓は規則正しい。だが、耳の底で鳴る拍は、半拍、わずかに外へ膨らむ。
戻りたいのか、戻るのか。
戻らないと決めたばかりなのに、拍は昔の癖を思い出そうとしている。
◆
夜警の準備が始まった。
カイが若い男たちに槍と松明の扱いを教え、エダが祈りの声を短い合図に変換する。老婆は札を紐で束ね直し、ヨルグは鍛冶屋に返し板を渡した。
老人が俺のところへ来る。「顔色が悪い」
「大丈夫です。――ひとつ、相談が」
俺は足元の石畳の遅れの話をした。三周の稽古で同じ位置で起き、俺の呼吸に絡みつき、椀の水でもう半拍だけ重くなることを。
老人は黙って耳を傾け、やがて言った。「おまえは“戻って”きた。何度も」
「はい」
「戻る拍は、どこから来る?」
「……分からない。ただ、朝の鐘の前後、吊台の前、石畳の上。いつも“ここ”に戻る」
老人は杖の先で、石畳の継ぎ目を軽くなぞった。「なら、その拍の紐がまだ切れていない。器をほどいたように、拍の紐もほどけるはずだ」
「どうやって」
「結び目を見つける」老人の眼差しは静かだった。「結びは、二つのものの境目にできる。――生と影、声と沈黙、今と昔。おまえの“戻り目”の結びは、その境目にある」
境目。
俺は視線を吊台へ移した。印は十八。けれど、石の目は十九番目を受け入れる余白を保っている。
“いつでも刻める”余白――それが結びか。
なら、そこへ手を伸ばすには、俺の拍を“境目”に置く必要がある。
「今夜」老人が言った。「夜警の一番は、わしとおまえとカイ。二番はミナと若い男二人。三番は村の女三人。……一番の最後に“拍を止める”。やれるか」
拍を止める。
生きている限り、心臓は鳴る。拍を完全に止めることは死に直結する。
だが、返拍を覚えた。逆拍を覚えた。
――なら、無拍を一瞬だけ作れないか。
呼吸を浅くし、脈を遅らせ、身体の器の拍を、薄く薄く、紙一枚にする。
そこへ、境目の結び目を差し込む。
怖さが、指の骨を冷やした。
けれど、ミナが隣に立つだけで、怖さは形を変える。
俺は頷いた。「やる」
◆
星は少なく、雲は薄く、風は冷たかった。
祈りの家の扉は半ば開かれ、香の煙はもう立たない。吊台の前に三人――俺、老人、カイ。
カイは槍を横に伏せ、足を肩幅に開き、視界の端で広場を全部捉える構えを取った。老人は杖の高さを胸と腹の中間に持ち、拍を打つ位置をどちらにも傾けられるようにした。
俺は石畳の“遅れの地点”に立つ。
胸の中で、数える。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
――返拍。
――逆拍。
拍が薄くなる。
息が丹田の底に落ちていく。
視界の輪郭が少しだけゆがむ。
耳の奥で、古い鐘の幻の低音が遠く鳴る。器はもうないのに、記憶の器が鳴る。
わずかに舌が鉄の味を覚え、指の腹が石の目をなぞる。
いま。
「無拍(むはく)だ」
老人の声が、風よりも低く響いた。
俺は息を止め、拍の紙を作った。
心臓が、ひとつ打つはずの場所で、ほんの一瞬、空白を作る。
世界の色が、一色だけ抜ける。
吊台の印の白が、紙の穴になって俺の目に落ちる。
そして――結び目が、見えた。
石畳の継ぎ目の間、砂のような細い線。
それは器の継手でも、仕掛けの糸でもない。
朝の影の切れ端だった。
鐘が鳴っていた頃、塔の影と人の影が重なる“あの瞬間”だけに生まれる、薄い影の重複。
それが毎朝、薄く薄く、石に焼き付いている。
焼き付いた影は目に見えない。
だが、拍には触れる。
それが“戻り”の紐になっていた。
無拍の指で、その紐を摘む。
掴めるはずがないのに、指は確かに冷たい“薄いもの”の感触を得た。
そして、ほどいた。
音が、戻る。
心臓が、はっきりと一拍打つ。
世界の欠けていた一色が戻り、夜の藍がもう一度、深くなった。
同時に、吊台の十八の印の縁が、さざめいたように見えた。
増えなかった。
けれど、“刻める余白”が、消えた。
十九番目のために開いていた紙の穴が、すっと閉じた。
「……切れたか」
老人が静かに言った。
俺は深く息を吸い、吐いた。胸の奥に残っていた遅れの気配は、もうない。
拍は俺のものだ。
戻る紐は、ほどけた。
◆
終わった、と言い切れるほど、村は単純ではなかった。
翌朝、吊台の印は十八のまま、夜露に濡れていた。
広場の輪は前より少し大きく、声は前より少し強く、笑いは前より少し長く響いた。
けれど、仕掛けをほどき、紐をほどき、器をほどいても、“人”はすぐには変わらない。
疑いは細い針になって残り、恐れは陰りになって石の目に潜む。
だから、数える。
声で、目で、指で。
拍を、人の側に留めておくために。
裁きの日、老婆は祈り札の整理を任され、ヨルグは鍛冶屋の元で冶具を“鈍らせる器”に作り替え続け、エダは声の合図で夜警の交代をきっちり回した。
カイは弟と並んで広場に立ち、声のない数えを続けた。弟の口は形だけで「ひとつ」と言い、カイは「ふたつ」で受け、輪は自然と後に続いた。
老人は紙片に新しい型を加えた。拍の合間に“空白”の丸を増やし、無拍の練習を一行だけ書いた。
――“声が集まりすぎたら、ひとつ、空白で返せ”。
俺はその紙片を胸にしまい、吊台の印に指を重ねた。
石は冷たい。だが、冷たさは“終わり”ではない。
指の腹の線が、印の線と重なり、俺自身が石に刻まれていくような感覚があった。
ミナがそっと俺の手を握る。「帰ろう」
「帰る場所が、できたな」
言葉にしてみて、初めて喉の奥が熱くなった。
戻らずに済む場所。
戻らないと誓える場所。
◆
夜。
俺は一人、塔の足元に立った。
鐘は布に包まれたまま、静かに眠っている。
布越しに触れると、表面は驚くほど滑らかで、冷たさはもう鋭くない。
器にも“休眠”があるのかもしれない。
鳴らない鐘は、器から喉笛へ、そして今はただの静かな金属に戻りつつある。
それは、悪くない。
空を見上げると、雲の合間に星がひとつ、ふたつ。
俺は息を吸い、吐き、胸の奥で短く数えた。
ひとつ。
ふたつ。
――返拍。
――逆拍。
そして、無拍。
どれも、俺のものだ。
誰にも盗ませない。
影にも、器にも、拍の外側にも。
背後で小さな足音。
ミナが毛布を抱えて近づく。「寒いのに、ひとりで来ちゃだめ」
「もう大丈夫だと思って」
「大丈夫でも、ひとりはだめ」
彼女の声は細く、しかし芯がある。鐘より確かで、鈴より暖かい。
毛布に包まれ、塔の影の根元に腰を下ろす。
しばらく、何も言わずに夜風を聴いた。
拍は薄く、村の隅々に散っている。
泣く子どもの声、鍋の蓋がわずかに触れる音、遠くの犬の吠え。
どれも、器ではない。
生の音だ。
「リク」
「ん」
「明日の数え、子どもたちに“無拍”を教えようよ」
「早いかな」
「早いほうがいい。――空白を知ってる子は、影に拍を渡さない」
その言葉は、どこまでも真っ直ぐで、少しだけ切なかった。
俺は頷き、夜空の一番暗いところを見た。
そこに“ひとつ多い”は、もういない。
もしまた現れても、返せる。
俺たちは、返し方を知っている。
塔の影は、季節が変われば向きも長さも変わる。
印は十八のまま、だが、その意味はもう過去になった。
過去は残る。
残ったうえで、進む。
“戻り”の紐がほどけた俺の足は、初めて、前へ出た。
音のしない一歩。
けれど、確かな一歩。
翌朝、広場に集まった子どもたちが、声を揃えた。
「ひとつ」
「ふたつ」
「みっつ」
ミナが笑いながら、ほんの一瞬、空白を入れる。
子どもたちは驚き、すぐに真似をした。
空白は怖くない。
空白は、声の居場所だ。
それを教えることが、俺たちの“拍”になった。
こうして――鐘のない村は、はじめて本当の朝を持った。
誰も数を奪われない朝。
影が入る余白さえ、人の呼吸に戻せる朝。
俺は胸の奥で、もう一度だけ数えた。
ひとつ。
これが、俺たちの最初だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます