約束 〜destiny〜
杉内 健二
プロローグ ・ 1947 マイナス16 〜 始まりから十六年前
プロローグ ・ 1947 マイナス16 〜 始まりから十六年前
1 赤ん坊と少女
大東亜戦争が終結し、日本中がまだまだ平穏を取り戻していない頃だった。
昭和二十二年九月、後に、関東や東北地方に甚大な被害をもたらす〝カスリーン台風〟が近付きつつある中、ぬかるんだ道をひとりの少女が歩いていた。
見れば薄汚れた〝ねんねこ〟を着込み、乳飲み子を背負っているのだろう。時折立ち止まり、赤ん坊をあやすように身体を上下に揺すったりする。
それでも赤ん坊はなんの反応も見せず、まるで眠っているように動かなかった。
強い雨が降っているのだ。雨粒の染み込んだねんねこなどは慰めくらいにしかならないし、洋傘一本では赤ん坊の安眠など叶うはずもない。
少女はここ何週間も、まともな食事にあり付けていなかった。
そのせいで、いよいよ赤ん坊に与える乳さえ出なくなる。そうして彼女はある決意を胸に、微かに記憶に残る土手沿いの道を歩き続けた。
きっとこのまま何事もなければ、夜明けを迎える頃には赤ん坊は息絶えるだろう。そうなってしまえば、赤ん坊の後を追うくらいしか少女にすべきことはない。
そこは多摩川の土手沿いで、このまま行けば狛江、さらには府中、青梅へと続く荒れ果てた道。そしてちょうど狛江辺りに差し掛かった頃だ。
小田急線の線路が目に入ったのとほぼ同時、
「パン! パン!」
二度の破裂音が響き渡って、少女の歩みもいっとき止まる。しかしすぐ、ピストルの音だ……なんてことをちょこっとだけ思い、何事もなかったように歩き出した。
終戦の年、さんざん経験した空襲なんかに比べれば、
――ピストルくらいなんでもないわ……。
そんな気持ちを心の隅に意識しながら、鉛のように重くなった足を前へと進めた。すると道の先に二つの影が現れ、目を凝らせば二人の男が倒れ込んだまま動かない。
――さっきの銃声が、これだったんだ……。
大量の血液が泥水に流れ出て、死に絶えているのは明らかだった。さらに、どう見たって堅気じゃない……そんな印象を色濃く感じ、少女は二つの影を横目に見ながらさっさと通り過ぎようとした。ところがその時、道沿いの斜面にもうひとつの姿が目に入る。
――生きて、ないよね……?
土手へと続く雑草だらけの斜面にも、微動だにしない男の姿があったのだ。
さっき聞こえた銃声は二つ。だとすれば、この斜面の方が撃ったのか?
――もしかして……生きてるの?
降り注ぐ雨粒を全身に受け、ずぶ濡れであるのはさっきのふたりと同様だ。ところがその格好がぜんぜん違う。血を流していた二人は柄シャツにセッタ履きだ。一方斜面の方はネクタイこそしてないが、まるで映画に出てきそうな三揃いのスーツ姿。さらにこんな大雨の中、高級そうな革靴なんかを履いている。
だからと言って、そんなことなど少女にとって意味はない。だからすぐにでもこの場を離れよう……と、三揃の男から背を向けようとしたその瞬間、
「ゴホン!」
仰向けだった三揃の男が、いきなり身体を震わせ咳き込んだのだ。続いて口元に動いた指が真っ赤に染まり、さらなる液体がドクンドクンと噴き出した。何度となく咳をして、やっと落ち着いたと思った頃には半身の体勢になっている。
男は眼鏡を掛けていた。戦前から流行っていた〝ロイド眼鏡〟をたどたどしい動きで顔から外し、そうしてから背中をゆっくり斜面に下ろす。
少女はそんな姿をジッと見つめ、何を思ったかゆっくり男に近付いていった。手の届くような位置まで行って立ち止まり、囁くように、それでもしっかり声にする。
「大丈夫、ですか?」
そんな声は男の耳にも届いたようで、その反応は少女の想像を遥かに超えた。
さっきまでの動きが嘘だったように、素早い動きで横に転がり一回転。あっという間に半身を起こして少女の方へ視線を向けた。手には拳銃がしっかり握られ、その銃口は少女にまっすぐ向いている。
撃たれる! そう思うと同時に目をギュッと閉じ、少女は全身に力を込めた。
ところがだ。いつまで経ってもなんにも起きない。銃声どころか、聞こえてくるのはあいも変わらず雨音だけ……。だからほんのうっすら目を開けた。すると男はすでに仰向けで、少女のことなど忘れたように動かない。
そんな男に向けて、少女は再び大声を上げた。
「大丈夫ですか!」
「聞こえてますよね!?」
「お洋服が血だらけですよ!!」
などと一気に捲し立て、睨むようにして男の顔をジッと見た。
どこにそんな力が? というくらいの大声なのに、反応らしきはまったくない。
そうして何を思ったか……?
「さあ、私と一緒に、病院へ行きましょう」
そう言いながら少女は男の腕を取り、そのまま引っ張り起こそうとする。
男は驚き、一気に顔を歪ませながら、
「ちょっと……待て! 俺を、殺す気か……?」
途切れ途切れではあったがなんとかそう声にした。
「違います。このままだと、あなたが死んでしまうから」
「お前……の方こそ、ひどい顔……だ。もういい加減、家に、帰れ……」
「ウチなんか、ありません。あったら今頃、こんなところにいたりしません……」
そんな少女の言葉を聞いて、
――そう、か……。
男は視線を外し、息を吐くようにそう呟いた。それから考え込むよう下を向き、再び少女を見上げて告げるのだった。
「どっちにしても、俺はもう、助からん……だから、放っといてくれ……」
掠れるような声の合間に、ヒーヒーという呼吸音がいちいち響いた。ところがそんな言葉にも、少女は男の腕を離そうとはしない。やがてその懸命さが伝わったのか……男は視線を左右に動かし、たどたどしくも告げたのだった。
「俺を、土手の向こうへ……連れてって、くれ……」
「土手の向こうって、川の方ってこと?」
「そうだ……だから、ちょっと、待て……」
男はそう言うと、懸命に左半身を浮かそうとする。すぐに少女もその意図を理解して、彼の背中に手を差し入れた。
ここ数日の雨で水流は荒々しく、多摩川はいつもよりその川幅を広げている。
「ここで……いい……」
男がそう呟いたのは、茶色い濁流がすぐ目の前まで迫っているところでだ。
「こんなところで、いったいどうする気です?」
そんな少女の問いには答えず、男は倒れ込むように寝っ転がった。さらにその手をゆっくり掲げ、少女の眼前でヒラヒラ振って見せるのだ。
そうして目を閉じ、そのままジッとして動かなくなった。
「それじゃあ、わたしもここで休憩にします。ああ、疲れた!」
「馬鹿なことを、言うな……」
そんな声を無視して、少女は男の隣にしゃがみ込んだ。
「おい、何してる……」
「ここで、何をするつもりなのか教えてください。じゃないとわたし、ここを離れるわけにはいきませんから……」
少女はもともと、死に行く場所を求めていたも同然だった。
身寄りもなく、知り合いだってない。住んでいた借家も、今頃は取り壊されているはずだ。彼女に帰るところはないし、どこに進もうとも結局のところは茨の道。
それならどうして、見ず知らずの男などにかまっているのか? きっと本人でさえ知ってはおらず、当然、男の方は意味不明に感じて当然だろう。
ただとにかく、そうしたやり取りが何度かあって、男もいよいよ根負けしたようだった。表情もいくぶん和らぎ、落ち着いた声でポツリと言った。
「本当に、俺はもう、助からん……いつ死んだって、おかしく、ないんだ……」
途切れ途切れは変わらずだが、その口調はずいぶん優しげに響いた。
男は広島からやって来たヤクザもので、目的であった関東系組長暗殺に失敗する。
結果、こんなところまで逃げてきたはいいが、当然このまま帰れるはずもない。
「もともと〝ピカドン〟で……そう長くはない命、だった、からな……」
だからこの場所で死ぬことにすると、彼はそこで初めて弱々しい笑顔を少女に向けた。
それから十分ほどが経った頃、いくら話しかけても言葉が返ってこなくなる。少女は洋傘を男の上半身に被せるように置き、そのままゆっくり立ち上がるのだ。すると突然、死んだように静かだった赤ん坊がここぞとばかりに泣き声を上げた。
慌ててずり落ちたねんねこを引っ張り上げ、少女は身体を二、三度上下に揺する。そうしてから目を閉じて、手のひらを顔の前でしっかり合わせた。
今、彼女の懐には、布製の長財布が収まっている。
長丁場に備えて、それなりの金が入っているからと声にして、
「死人が、持っていても……使いようがない、からな……」
受け取れないと返す少女に、男はそう言って優しい笑顔を見せたのだった。
そんな財布に入っていたのは、この時代なら数ヶ月は暮らせる大金と、不思議なくらいピンとした名刺がたった一枚。
「〝みょうい〟って、読むんだ……きっと、この辺りじゃ、そんな名前……」
ありゃしない――きっとそんな感じを口にしかけて、息が続かず途切れてしまう。
「俺の分まで……生き抜いて、くれ……約束、だ……」
見ず知らずの少女に、そう言って死んでいった男の名前は〝名井吉明〟。そんな変わった苗字と名前だけが、真っさらな名刺にポツンと印字されていた。
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