第18話【闇と九星】



 ――それは、瞼の上に水滴が落ちるような感覚だった。



 溌春はつはるは瞳を開いた。


 見慣れた天井が目に入って来るが、

 すぐに異変を察した。


 いつもと同じだが、

 同じではない。


 身を起こし、すぐに隣に目をやる。

 蛍は深く寝入っているようだ。



 音を立てず、溌春は寝室を出た。

 雨戸を開けると音が出るので、玄関から外に出る。

 

 風が吹いていた。

 雲が走り、

 合間に時折、冴えた月の光が覗く。


 庭にあるまじない花が大きく揺れている。


「……。」


 池のほとりに溌春は立った。


『水場』は陰陽道では、


 様々な力を集める基点と位置づけられている。

 

 動物が水を求めて、川に集まってくるように、

 物の怪や、万物の精霊せいれいは、

 水場に集まる。

 ただ、生きる為の水を求めて動物が集うのとは、理由は違う。


 人も、人が集う場所に、ふらりと心が集められる。


 集合術。

 集まる生命の気配、それ自体が更に様々な生命を集める。


 水は、万物を飲み込み、溶かす。


 溌春はその時、覗き込んでいた水面の底で、何かがぐにゃりと蠢いたのを見た。

 瞬間的に振り返る。

 月が雲に隠れ、

 辺りが暗闇に包まれた。


 粗末な庵の屋根の上。


 暗闇の中に輝く双眸があった。


「!」


 溌春が身構えると、赤い双眸の下に、三日月のような光が浮かんだ。

 

 ニィ、と闇が笑む。




『何を驚いている。人間よ。

 私を探していたのではないのか?』




 脳裏に声が響き、耳の奥まで震わせるようなその大きな声に溌春は思わず顔を歪ませ、その場に膝をついた。


 これは実際の声ではない。

 物の怪が行使する魔言まごんだ。

 霊力れいりょくの無い人間には聞こえないが、

 霊力が強かったり、察知する力を持つ者には、はっきりと届く。


 声を聞いただけで崩れ落ちた人間を見て、

 物の怪は嘲笑った。


 その、嗤い声すら溌春の脳髄を揺らし、その衝撃に平衡感覚を失う。


 地面に両手を突き、倒れないようにするだけで限界だった。


 確かに、探していた。

 いや……探そうとしていたのだ。

 これから溌春は呪法を使って、報せを送ろうとしていた。

 しかしそれも蛍を無幻京にまずは送ってから、ここに引き返し、その準備に取り掛かろうとしていたのであって、まだ何もしてはいない。


「……なぜ……わかった……」


『何故だと?

 愚かなことを問うな。

 貴様ら人間が見ている世界など、我々の捉えている世界に比べれば、

 狭き世界の一端でしかない。

 そして陰陽師などと忌々しく名乗る貴様らは、自らを特別だなどと思い、

 振る舞っているようだがな。

 天から見下ろす私からすれば、大した差はない』


 魔力の宿った声が脳を揺らす。

 駄目だった。

 溌春は手の力も失い、地に伏せる。

 奥歯を噛み締め、貫かれたように痛む額のあたりを手で押さえ、堪える。

 仰向けになったのは、身体を安定させようとする本能的な動きだった。



 天地が引っくり返った世界で、見上げた空に二つの凶兆が赤く輝く。


『私は大妖ゆえ寛容だ。

 愚かな人間よ。

 もう一度だけ私に問いを許してやろう。

 しかし一度だけだ。

 今宵は気分がいい。

 気が向けば答えてやる。

 だがその一度の問いで私の機嫌を損ねたら、その瞬間お前を八つ裂きにするぞ』


 闇の中に、何かが咲いた。


 ザカ、とまるで蓮の花が花開くかのような動きで。

 溌春の【天眼てんがん】はその動きだけは捉えた。

 魔力の流れ。


 帯びる、九つの流星。


 頭を抱えるようにして両手で目を覆った。


『命の最後の問いだと覚悟して口を開け』


 色々なことが一瞬のうちに、溌春の脳裏に浮かんでは消えて行った。

 幼い頃の記憶も、

 最近の記憶も。


 覚悟を決めて相対しようとしていたが、

 昨夜蛍と話したことで、完全に油断してしまった。


『花咲く季節をこれからも一緒に眺めて生きて行きたい』


 彼女の語った夢が、優しすぎて、

 心を持って行かれていた。

 陰陽師が余計な言葉を持つと、こういうことが起こる。


 幼い頃師に言われたことだ。


『心を喰うのは物の怪だけではない。

 人も人の心を喰らう』


 何の根拠もなく蛍と、これから幾千もの夜を、星を見上げながら、

 ……笑いながら。

 一緒に生きて行けると思い込んでしまった。


 本来なら全てを終えて、

 彼女の手を取らなければならなかったのに、

 自分の弱さが彼女を求めたから、こんな心構えもロクに出来ていない状態で、

 安易に側に置き続けた。


 ――――運命。


 闇夜を見上げる。


 自分が選び取るべき運命を誤って、

 その過ちの代償を未来で要求されるのなら、

 受けようと思って生きて来た。


 何があっても引き受けようと。


 人の世の時の動きと、

 物の怪の世の時の動きは異なる。


 彼らは人の世の流れを汲んでは動かない。


 陰陽師としての心得だ。


 完全に、忘れていた。


 溌春は頭を抱えていた手を、ゆっくりと地面に下ろした。

 両手を土の上に寝かせる。

 陰陽師としての心得を疎かにしていた自分を責める気持ちが浮かんだが、

 昨夜蛍が「安倍晴明あべのせいめいとして貴方を慕ったのではない」と言ってくれた言葉が脳裏に響いた。

 彼女の声と、その時の優しい表情を思い出した時、

 揺れていた脳の狼狽が収まり、

 やけに静かな心境になった。


 自分自身は信じることが出来ないけれど、

 彼女は信じれる。


 幼い頃から、蛍は自分に誠実に向き合い続けてくれた。

 一度も迷うことなく、溌春自身の手で縁を断ち切っても、彼女は道を探しながら自分の許にやって来てくれた人だ。


 誠実なものによって生み出された言葉は、

聖言せいごん】になるのだ。

 

 目の前の大妖には、自分など全く力が及ばない。

 声を聞くことさえまともに出来ないのだから。

 戦うことなど無理だ。


 つまり、殺そうと思えばその時に殺せる。


 溌春は鎮まった心で考えを巡らせた。


 最後の問いと思え、と言った。


 この大妖に聞きたいことはたくさんあった。

 だが一つだけ選ぶなら、自分の過去にまつわることではなく、未来のことを聞かねばならない。

 自分が例えここで死んでも、蛍には遠い未来まで生きて欲しい。


 瑞貴の顔が過った。


 たった最近会ったばかりで、まだ縁もゆかりも無い。

 人間同士の信頼関係だって、ないだろう。

 それで言ったら蛍や九条大雅くじょうたいがの方がまだ人間同士の絆がある。


 だがこの苦境で、溌春の脳裏に浮かんだのはあの若き陰陽師の顔だった。


 彼は並外れた才覚を持つ陰陽師だ。


 ……人は死んだらその瞬間に終わりだが。


 実は陰陽師には死後も一定時間だけ、この世に影響を及ぼせる技がある。

 当然瑞貴も心得ている技だ。

 未来を救う問いをして、答えを得ることが出来たら、

 無幻京を救うことが出来るかもしれない。


 瑞貴にならば命を失った後でもそれを伝える術があった。


 彼は今、答えを欲している。

 

 その答えを手に入れれば、彼ならばそれを道標に無幻京むげんきょうを救える。




「………………御所なのか?」




 考え抜いて、選び抜いた問いだった。


 それを聞いた瞬間、屋根の上で物の怪が起き上がった。




『――愚か者め‼』




 大妖が咆哮を上げる。

 

 雲が飛び、月が姿を現わす。


 輝く大妖の銀麗ぎんれい


 花のように九本の尾が、咲き誇るのが見えた。


 力ある物の怪は『声』だけでも人を殺すことが出来る。

 

 力ある言葉には、力が宿る。


 叩きつけられた【魔言まごん】の衝撃が脳を襲い、溌春は絶叫した。


 死は、闇だ。


 そこに花など咲かない。


 果てしない闇だった。


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