第15話【深夜の三条大橋】



 溌春はつはる鴨川かもがわを北上して来たが、五条の辺りで馬を止めた。

 このあたりで【安倍晴明あべのせいめい】が殺されたと聞いたが、やはり何も感じない。

 時間が経っているので、陰陽師おんみょうじによって場が清められた可能性もあったが、そうではないと思う。


「痕跡を消す」と言うことは簡単だが、実のところ物の怪の怪異が起きれば、何か事件があってもその痕跡は残る。物の怪の魔力や、呪術の跡は、更にそこに別の物の怪を呼び寄せることもある為、神官や陰陽師達がその場を清めて痕跡を消す。

 だが痕跡を消した、その気配も実は優れた感覚を持つ陰陽師には見抜くことが出来る。


 自然にあるがままの場所と、清められた場所は明確に違う。


 溌春は清められた気配も追えなかった。

 清める必要性があるほど、妖気が残っていなかったのか、清められた場所なのに自分に力が無さ過ぎて、それを感じ取ることが出来ないのか……溌春には判断が出来なかった。


 もう随分と長く、誰かと生きていない。

 自分に陰陽師としての力量を求める、誰かとは。


 幼い頃はそういう人間しか周囲にいなかったのに嵯峨野さがのに逃れてからは、祖母は単に孫として溌春を可愛がってくれたし、蛍は溌春が別に陰陽師などでなくとも全く構わないと言ってくれる娘だった。


 鴨川の、水が流れる静かな音だけが響いている。

 月のない、静かな夜だ。

 正面に広がる東山ひがしやまの山影は、完全に闇に眠っていた。


 帰ろう……、そう思った。


 ほたるを思い出す。

 彼女が帰りを待ってくれている。

 本来行く場所も帰る場所も失った自分が「帰ろう」などと思ったことに、少しだけ溌春は感動した。


 ふと、その時。

 川べりに、光を見た。

 淡い光だ。

 ホタルのようだったが、今はまだ冬の気配が残り、その季節ではない。


 溌春はその光を追って、馬を軽く駆らせた。

 そのうちに、少し霙のように降って来て、三条あたりに差し掛かったころには、ふわふわと雪に変わっていた。


 ……光が飛んでいく先には三条大橋があり、

 雪が花のように舞う中、その明るい天青色てんせいしょく狩衣かりぎぬが鮮やかに佇んでいた。


 溌春は橋のふもとで馬を下り、橋の半ばで目を閉じて佇んでいる瑞貴みずきの許へと歩いて行った。

 あるところで瑞貴が瞳を開き、体をこちらへと向けた。

 溌春の顔を見て、彼は微かに笑んだようだ。自分の狩衣を見下ろす。


「……そうか。機才きさい殿は、この天青色は軽々しい色だと思われて、若い頃以外、滅多に着られなかったそうなんだが。さすがは安倍機才あべきさい最後の弟子。お前は見覚えがあるようだな」


 袖のあたりに触れた。


「私は好きなんだ。最年少で【安倍晴明】の称号を頂いた時に、人づてに譲っていただいてね。色も美しいし、何より、いかに護国結界ごこくけっかいを張り替える使命を負った偉大な陰陽師であっても、若く未熟な頃は苦労もきっとあったはずだ。これを着ていると、機才殿ほどの方さえ修業時代苦労したのだから、私などどんな苦労も恐れるべきではないと、そう思える」


「……私を呼ばれたのは貴方でしたか」

「他に誰だと思ったんだ?」


 溌春は返されたので、目を瞬かせる。

「いえ……別にこれといって心当たりがあるわけでは……誰かなと……」


「お前は居所が掴めんから、呼び出すしかない。この【天眼てんがん】があれば、ひとたび見たものには使役を送りつけられるからな。だから陰陽師は自らの目で見て、会いに行く必要がある。陰陽師にとって、側にいることはそれほど意味のあることなんだ」


 溌春は押し黙った。


「とはいえ、人と人が向き合うことは、本来自然に出来ることなのだから。出来る限りこういう呪術を使って無理に会うようなことは――私はしたくないがな」


「……。私も同感です」


野宮溌春のみやはつはる。この一連の流れを追う中で、私はお前が何か、大きな隠し事をしていると見た。だから今宵こうして、お前を呼び出したんだ。全てを聞かせてもらうためにな」


 ジッと、瑞貴の瞳が見つめて来た。

 探るような意図もあるし、言い逃れは許さないというような、強い意志も見える。

 だがやはり、瑞貴からは「疑っている」と口にしても、溌春を邪悪なものと見て警戒するような気配は全くしなかった。


「何故貴方のような方が私などに興味を?」


 それだ、と聞き返した溌春を瑞貴は畳んだ扇の先で示した。


「第一に、お前がそうやって『貴方のような』などと口にしても、全く私を意に介してないことが伝わってくるからだ。

 第二に、物の怪と関わりたくなくて一族の生業である陰陽道と縁を切った男が、護国結界の外で暮らしているのはおかしい。

 第三に、嵯峨野に逃れてまで都で人の目に晒されることを恐れた男が、名門大納言家の姫を娶ろうとしているのも妙だ。

 第四に、私が共に調査してくれと依頼したのを断ったのに、こうしてお前は単独で無幻京むげんきょうを探りに戻って来た。まだ他に理由がいるか?」


「……いえ」

「ああ、もう一つ重要な理由を忘れていた。第五に、お前は機才殿に見い出された才だからな。興味も持つさ」


 溌春は何かを考える仕草を見せた。

 はっきりと証拠を突き付けたわけでもないのだから、そうは言われても心当たりがないと笑って躱すことは出来た。つまり返答に困るほどには、この男は人に対して誠実な性格をしているのだと瑞貴は思う。


 大納言の長光宇倉ながみつうそうに、野宮溌春のみやはつはるが陰陽師を廃業したのは人を呪い殺したくなかったからだ、と彼は適当に言った。でも今は、それは少なからず本当なのではないかと思っている。


「お前のように嘘のつけない人間は、縁を切りたいと思った場所や人間からは、縁を切れるものだ。だがお前は無幻京むげんきょうからも、陰陽道おんみょうどうからも遠ざかっているのに、まだその範囲に留まっている。それが私には妙に見えるんだよ。まるで何かが起こることを知っていて、待っていたようだ」


 溌春が、静かにだがゆっくりと、強く、手を握りしめたのが分かった。


護国結界ごこくけっかいの【五柱ごちゅう】を見て来た。護国結界に揺らぎは見えない。今ある無幻京の怪異はつまり、内から吹き出してくるもの。お前はわだちの外側から内側にやって来た。普通の人間ならば、強力な護国結界に守られた無幻京に起きる怪異の元凶は、外の世界にあると考えるものだ。お前は私の知らない何かを知っている」


「私がその怪異に関わっていると?」

 少し緊張した声で溌春が言ったが、瑞貴は小さく笑んだようだ。


「そう思ったならそう言う」


 溌春は目を見張り、それから視線を落とした。


野宮のみや。これから私は無幻京の中に怪異の源となるものを探すつもりだが、お前にもその作業を手伝って欲しい。安倍家とは疎遠なようだが、私はこの役目を黎明帝れいめいてい直々に一任された。誰に協力を仰ごうと、安倍家の誰にも口は出させない」


「安倍家には貴方と同じように【安倍晴明】の称号を得た、優秀な方がいます。私の出る幕はない」


 そう言った瞬間、瑞貴は初めて厳しい表情になった。


「何かを感じ取っているのに、そうやって何も分かっていないふりをするのか。

 野宮溌春。

 七十年もの長きにわたって無幻京を守護して来た偉大な安倍機才が、無分別に才能のない子供を見い出したと? 

 あの方には跡を継ぐべき息子はいない! 

 だからあの方の弟子は師の遺志を継ぎ、無幻京の平穏を守らなければならないんだ!」


 瑞貴は怒りの表情を隠すように溌春から顔を反らし、欄干の向こうに視線を向け、横顔を見せた。

「お前もそう思ったからこの地に現れたんじゃないのか」

「……。」

「お前がこの地に現れた理由が知りたい。根拠も痕跡もないが私は此度のことは自分の力さえ及ばぬ、何か不吉なことが起きているような気がする。兄弟子たちを御所に封じたのは各々歩き出して探索に入られると、ただでさえ見えないものが更に覆い隠されそうな気がするからだ。雑音を消しても尚、捉えきれないものがある気がする。だからお前に問いかけている。お前も何かを感じているはずだ」


 溌春は動かなかった。


 瑞貴が、懐から何かを差し出す。


「奥方に渡してくれ」


 瑞貴に預けていた、蓮のこうがいだった。美しい塗箱に入っている。

「……ありがとうございます。ですが、蛍殿は私の妻ではありません」


「しかし近々そうなるのだろう。野宮、あの人は八坂大納言家の姫だ。八坂の長光ながみつ家は無幻京に長く息づいてきた名門。私たち安倍家と同じように、人の世の守護者なんだ。無幻京が怪異に乱されれば、長光家にも害が及ぶ。安倍家の名誉などとは言わない。奥方の実家を守ると思って、力を貸してくれ」  


 自分に深く、頭を下げた瑞貴に溌春は身じろいだ。

「……瑞貴殿、顔をお上げください。貴方に頭を下げさせたら、私が安倍家に恨まれます」

「……。」

「確かに、私は思う所があり、都に戻って来ました」

 瑞貴が顔を上げる。


「貴方は、全てが見えているのです。瑞貴殿。私と違って、この月のない夜にも輝いているその【天眼てんがん】は、すでに怪異の本質を捉えている。それは私の求めるものと、一致しているような気が私にもします」


「では、協力してくれるか? その怪異の源を探るために」

「はい」

 瑞貴は一瞬嬉しそうな顔を浮かべたが、溌春は深く頭を下げた。


「しかしその前に、私に時間を頂きたいのです」

「時間? なんの時間だ」


「確かに、私は落第者ではありましたが、安倍機才様に師事を受けたことがあります。愚かな私はその悉くを無駄にしてしまいましたが、あの方のお教えくださった言葉は、幾つも残っています。物事を成す為には、正しい手順を踏まえなければならないと。

 私は、使命感に駆られて無幻京に舞い戻ったのではありません。罪悪感に抗えなかったからです」


 瑞貴は眉を寄せた。

「……罪悪感?」


「貴方は私を、機才様が見い出したのだから意味がある人間だと仰ってくださいました。誰もが、機才様を裏切ったから無意味な人間になったと私のことを言ったのに、貴方は違った。だから貴方には真実を申し上げます。私は機才様の許を逃げ出したのではありません」


 溌春は真っすぐに、瑞貴を見た。

 初めてそういう表情を向けられた気が、瑞貴はした。




「許されない罪を犯し、機才様に追放されたのです」




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