第11話【嵯峨野の護国結界】


 嵯峨嵐山さがあらしやまに来ると、さすがにまだ冬の気配が強く、山にも雪があった。

 ここは無幻京むげんきょうの郊外だが、護国結界ごこくけっかい五柱ごちゅう】の一つが嵯峨鳥居本さがとりいもと一華いっかにある。

 曼荼羅山まんだらやまに作られていて、その結界の波動が広く一帯を覆っていることを瑞貴は感じた。

 元々作られた聖域を基盤にしているとはいえ、揺るぎない強力な結界だ。

 大妖は外から入り込めないし、万が一入り込めばその痕跡は必ず残る。

 神経を研ぎ澄ませたが、嵯峨野を覆う強力な護国結界の気配は見事なものだった。

 しばし集中していた瑞貴の口元が綻び、白い息が零れる。


「見事なものだ……」


 確かに、護国結界が弱まっていると御所の神殿で神託が下されてから、無幻京において最も優れた陰陽師であった安倍機才あべきさいがその任を受け、護国結界を張り直したというのは時期的な必然もある。

 自分の時代にそうせよと詔が下れば、自分だってその大役を引き受けたいと思っただろう。

 しかし、自分の実力に自信がある瑞貴も、国の礎となるような強大な結界方陣を扱ったことは当然なく、果たして自分にこれほどのものが張れただろうかと考え遊ばせると、少年のように好奇心が湧いた。


 やはり一度、安倍機才という人に会ってみたかったと強く思い、その心が先日会った不思議な男のことを思い出させる。


 確か嵯峨野に居を移したことがあると言っていた。

 この近くかもしれないと、近くの民家で尋ねてみれば、直ぐに場所は分かった。


野宮のみやの薬師さんは天龍寺守護代てんりゅうじしゅごだいのすぐ北だよ」


 聞けば、薬師として嵯峨野では名高かったようだ。

 訪ねていくと天龍寺の側の畑の中に、一軒家があった。


「ここは野宮の安倍家だろうか?」


 出て来た者に尋ねると、特に難しい顔もせずあっさりと「そうです」と頷いた。

野宮溌春のみやはつはる殿の知り合いなのだが……」


「野宮先生は、今はこちらにはおられません。どこにおられるかも分かりません、なにぶん放浪癖のある方なので……しかし時々報せは来ますので、連絡は取れますよ。時間は掛かるでしょうがそれでもしよろしければお伝えしますが」


 どういうことか尋ねると、上殿田かみとのだ守護代に文を届ければ、定期的に使いが引き取りに来て、溌春はつはるに届くようになっているらしい。薬師の格好をしていたので、ここはどういう所なのかも聞いてみた。


「野宮先生は元々ここに住んでいらっしゃいました。安倍家の方で、若くして優れた薬術を会得しておられましたので、周辺の家で病人が出ると良い薬を処方して下さったのです。 私たちは先生の弟子です。この家は亡くなられた先生のお祖母上のものなので、ただ引き払って朽ちていくのも哀れだからと、薬師の学舎として先生が私たちにお貸しくださっています」


「なるほど、貴方がたは野宮先生の弟子か」

「はい」


 九条大雅くじょうたいがも最初は溌春のことを「腕のいい薬師だ」と言っていた。


 陰陽師にならなかった者が知識を生かして薬師になることは、珍しくない。

 安倍家には秘伝の呪い花も薬草もあるので、確かにいい仕事にはなるはずだ。

 薬師を生業としているのは本当らしい。


「ちなみに、野宮先生は陰陽術もさぞや優れていらっしゃるのだろうか」


 瑞貴みずきがそう聞くと、今まで気のいい感じで答えていた男は伺うように瑞貴を見て来た。


「なにか?」


「いえ……野宮先生に陰陽の依頼なら、他を当たったほうがよろしいですよ。先生が腕のいい陰陽師だとか聞いて来たなら、それはでたらめです」

「いやにはっきり言うじゃないか」

 瑞貴は腕を組んだ。男は苦笑する。


「見栄を張っても仕方がないと、先生はいつも仰っていますから。

 先生は陰陽師は廃業しています。物の怪が怖くて修行から逃げたらしいですよ。だから薬師としては凄い先生ですが陰陽はからっきしです。化野は古くから、安倍家でなくとも優れた陰陽師が多い。薬以外は他を当たって下さい」


◇   ◇   ◇


 伏見ふしみに居を構えていることは、彼らは知らないようだったので瑞貴も敢えて口にはしなかった。


「物の怪が怖くて修行から逃げ出した、か……」


 別に陰陽師の世界では珍しいことではない。

 人ならざる者と対峙するのだ。

 中には異形のものも多いし当然襲い掛かってくる者もいる。

 恐怖を克服できず廃業する者は少なくなかった。

 安倍家の人間だからといって全ての者が陰陽師になりたいわけでもないし、なれるわけでもない。


 瑞貴はしたがって、陰陽師に成り損なった安倍家の者を見下すような気持ちは全くなかった。 

 彼も物の怪とは少年時代から対峙した。

 恐ろしく感じたこともある。

 だが恐ろしく感じると、一層彼らのことを詳しく調べた。

 彼らの特性や、陰陽術を。

 そうすると恐怖は薄れた。

 得体が知れないと思うと、恐怖を覚える。

 大切なのは彼らを知ることだ。

 調伏ちょうぶくの方法が必ず万物ばんぶつにはあるのだと分かると、気を強く持てるようになった。


 伏見で会った溌春はつはるは礼儀正しいが、控え目な性格が伝わって来て、確かに魑魅魍魎に果敢に立ち向かうのを好むようには見えなかった。

 穏やかな暮らしをしたがっていることを感じたし、あの蛍という姫と暮らしているのもそういう心の表れなのだと思う。


 しかし、気になるのが溌春が仙洞御所せんどうごしょに呼ばれていたということだ。


 仙洞御所の桔梗院は今も陰陽師の優れた才能を持つ子供たちが選び抜かれて養育される場所になっている。五十年余りそこには安倍機才あべきさいがいて、桔梗院ききょういんで学ぶことは即ち、無幻京むげんきょう最高の陰陽師の直弟子になることを意味していた。


 瑞貴も少年時代に桔梗院に入りたかったが、丁度そのころ安倍機才は御所から隠遁し、宇治に移り住んでしまったのだ。

 宇治まで訪ねて行き、弟子になりたがる者は多かったが、彼は決して承諾しなかったという。 

 宇治で彼の世話をしていたのは元々の彼の直弟子で、つまり時期的には溌春は安倍機才が御所で教えた最後の弟子ということになる。


 桔梗院には機才自ら才能を見出した子供しか呼ばれない。

 となると、あの野宮溌春の持つ陰陽師としての才能は、元々は相当なもののはずだ。


 瑞貴は、才能ある者ならば、どんな困難にもその才を光にして立ち向かえると思っていた。

 溌春が機才に見いだされた子供なのに、「物の怪が怖かった」という至極当然な理由で陰陽師にならなかったというのは、いささか納得が出来なかった。


(それに……)


 伏見の稲荷山いなりやま


 護国結界の完全なる外域だ。

 つまりどんな物の怪が出るか分からない、というより彼ら側の領域なのである。


 物の怪が怖くて陰陽師を辞めた男なら、護国結界の内に住むはずだ。

 あんな辺鄙な場所で一人で住むなど、臆病な人間のすることではない。


 嵯峨野の結界の無事を確かめ市街に戻る道すがら、何となくそんなことを考え続けた。

 

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