第5話【岡崎、冷泉家にて】
「
丁度湯あみをして着替え自室に戻り、訪ね先が持たせてくれた心づくしを折角なので頂こうと、汁物だけ持って来てくれるよう部屋付きの侍女に頼み、今まさに卓の前に寛いで座った時に聞こえて来たので、瑞貴は笑ってしまった。
すぐに渡り廊下の方から
姉の
「帰っていたのですね」
「帰っていましたが、数時間休んで直ぐに発ちます。主上から重要な任を与えられたので、それを片付けねばなりません」
「相変わらず忙しいこと。貴方が全く顔を見せないと、母上が嘆いておられましたよ」
「たくさんいる子供たちの、一番末の弟にまで気をかけてくださる母上のお気持ちは嬉しいですが、
侍女が卓に食事を整える。
握り飯に、山菜の漬物、蓮根の甘煮だ。
名門安倍家の
「一体どこのどなたに作っていただいたものですかこれは」
「友人ですよ。遠方なので帰りに持たせてもらいました」
「そのようなものを食べずとも……屋敷に帰って来たのだから。すぐにもっとちゃんとした食事を作らせますよ」
握り飯は白いものと、もう一つは梅干を細かくして米に混ぜ込んだものだった。
自分の滞在は三十分ほどだったのだ。あの短時間でこれを用意してくれたということは、ああ見えてあの家には食材は思ったより揃っているのかもしれない。
自給自足していると、溌春も言っていた。
「この蓮根も美味しいな」
「ちゃんと食べていないからですよ」
呆れたように姉が言う。
「【安倍晴明】がまた殺されたらしいではないですか」
「……兄上は口が軽い」
「心配しているのですよ。
「そうですが、ひとたび帝に召し出されれば先輩も後輩もありません。垣水殿を殺した敵に、弟弟子の私が敵わないとは限りません」
「瑞貴。貴方は安倍家の優秀な子供たちの中でも最も優秀な子供です。私も母上も信じていますが、かといって敵は恐ろしい魔物なのでしょう。ご当主も、安倍の手勢を出してよいと仰っているのです。貴方一人で全てやらずとも……」
「姉上。務めのことに関しては口出しはしないで下さい」
それだけはきっぱりと瑞貴は言った。
普段瑞貴はこういう強い物言いを姉妹にも女にもしないので、姉は押し黙る。
「五月蠅いとは思いますが、安倍家の者は、普通の結婚も容易く出来ませんから、姉や母親がその身を心配しなければならないと思うのですよ」
一瞬強い言い方はしたが、瑞貴はすぐに表情を緩め、温かい汁物に手を伸ばした。
【
それは彼らが
何者かが通ると、そこに道が出来る。
それは人生も同じことで、同じ人間と共にいると、その人間との間に「道」が出来るのだ。
この道は、無論のこと絆ともなるが、陰陽術を使ううちに彼らが関わる者を知らずのうちにその道を通し、妻や子に『
結婚後、縁者を御所に移し、強力な結界の中で生活させれば陰陽術との縁から遠ざけることは出来るし、子が出来た場合も手元から遠ざけて滅多に会わなければ、子を持つことは許された。
要するに、安倍晴明は周囲の者に縁づくことを、非常に警戒する必要があった。
ここは
瑞貴は生まれた時から、安倍家の陰陽師として生きることを宿命づけられていた為、若いがすでに、【安倍晴明】として生きる覚悟は整えていた。自分は結婚しないまま、帝に生涯仕えるつもりだったので、早くから独立するよう心がけて来た。
「分かっていますよ。無理はしません」
ふと、少し料理が進んでから、侍女が朱色の皿を卓に出して来る。
朱色の皿に、山吹色の花の菓子が鮮やかだ。
「これは?」
「風呂敷に添えられて入っておりました」
「
瑞貴は笑った。あんな
「心遣いで包んでくれたんだな。折角だ。頂こう。茶を淹れてもらえるかな」
「かしこまりました」
侍女が一度下がった。
まだそこに居座ってる姉に、そうだと思い出す。
「今日、
「嵯峨野の安倍家……? 嵯峨野の
「安倍の
「伏見の稲荷山など……
「ご心配なく。姉上などが足を運んでも一発で魔物に食われるでしょうが、私は大丈夫ですよ」
「恐ろしいことを言わないで下さい」
侍女が戻ってくる。温かな湯気が立ち、しばし待ってから瑞貴は茶に手を伸ばした。
花の形をした黄色の落雁を口に入れると、甘味が優しく口の中に広がる。
「許嫁と共に暮らしていた。どこかの豪族の姫だと思うが。確か蛍とか呼ばれていたような。まだ若い娘なのに、家を出て男の許で暮らすとは見かけと違ってあれもなかなか豪気な娘だ。いかに安倍の威勢が強かろうと、結婚前に家出を許すとは父親も寛容だな。うちでは考えられん」
瑞貴の父親は朝廷の
例え子供のことでも、全て自分の思うようにしなければ気が済まない性格だった。
瑞貴は幼いころから優秀だったので早くから独立を許されていたが、他の兄弟はこの父親に気を使って、日々苦労していることを彼は知っていた。
「伏見と言いましたか?」
「なにか」
「人づてに、
「大納言家の姫?」
さすがに瑞貴も驚き、思い出しながら首を傾げた。
「いや……そういう感じではなかった。それに八坂の大納言家と言えば
「三の姫は朝廷でも非常に美貌で名高い方ですよ。帝もその美しさと穏やかな性格をお気に召しておられるとか。八坂の大納言家は
「確かに安倍は陰陽師の名門だが、安倍晴明の役職の貢献は、政とは切り離すと決められている。その為分派なら官位は低いものも多く、ただ名門の安倍家と縁繋がりになりたいと、陰陽師のことは脇に置いて娘を嫁入りさせたがる家もある。官位が高い家は陰陽師としての位には興味ないだろうが、そのあたりの豪族であるならば、確かに安倍家と結ぶことを望む者もいるだろう。……姫も名門の方というよりはもっと気さくな感じがした。この料理を整えてくれたのもその方です。召使いの気配もしなかったし、家には二人だけのようでした。大納言家の姫が自ら料理や畑仕事をするなんて聞いたことがありません」
「そうですか。では何か別の事情なのでしょう」
食事を終え、茶をゆっくり飲みながら、瑞貴は庭の方を眺めた。
「どうしたのです、瑞貴殿。まだ何か?」
瑞貴は一つだけ、不思議に思うことがあった。
「実は……その姫のことはともかくとして、一つだけ気になっていることが。
その姫が別れ際、一度だけその男のことを『
【
「まあ……。いくら安倍の一族のものでも【安倍晴明】の名を騙るとは。罰当たりな」
「それですよ」
「え?」
「
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