第7話 ネームドの奇跡
朝の風が、ゆっくりと渓谷を撫でた。
昨日までを覆っていた霧はすでに晴れ、ノルドリス渓谷には新しい陽光が差し込んでいた。
かつて怒りと悲しみに満ちたこの地に、今は柔らかな光と笑い声があった。
アリアは岩の上に立ち、渓谷を見渡した。
あの戦いの夜から、まだ一晩しか経っていないはずなのに――世界が少し違って見える。
孤児たちの笑顔。
魔獣たちが静かに寄り添い、子どもたちのそばで眠っている姿。
争いの影が消えた世界は、まるで長い冬の終わりのようだった。
彼女は微笑み、すぐそばに立つ巨体――ファルグを見上げる。
「ねぇ、ファルグ。あなたたち、名前ってある?」
《名……?》
ファルグの低い声が響く。
《我らは互いの気配と声で呼び合う。名など、要らぬ。》
「そう……でもね。」
アリアは風に髪を揺らしながら言った。
「これから一緒に生きていくのなら、呼び合う“名”があった方がいいと思うの。
あなたたちを“仲間”として呼ぶための、たった一つの言葉を。」
孤児の一人が、そっとアリアの服の裾を引いた。
「アリア姉。僕たちも、考えていい?」
「うん!」
別の少女が笑顔で頷く。
「だって、名前って嬉しいでしょ? “あなた”って呼ばれるより、ずっと特別だもん!」
その瞬間、神獣ユグドラシルの声が響いた。
《――待て。》
低く、荘厳な声音。大地そのものが警鐘を鳴らすようだった。
子どもたちは驚いて立ち止まり、アリアも視線を向ける。
「……どうしたの、ユグドラシル?」
《“名を授ける”という行為――それは遊びではない。》
ユグドラシルは深く目を閉じ、ゆるやかに言葉を紡いだ。
《名とは、存在そのもの。名を持つということは、世界の理に“記録”されること。
その理を書き換える行為こそ“ネームド”――神代の力。》
アリアは息を呑んだ。
孤児たちは不安げに顔を見合わせる。
《人の身でネームドを行えば、魔力はすべて生命力へと変換される。
魔力が尽きれば、魂は燃え尽き、命が消える。
ゆえに、弱き者の名付けは死を呼ぶ。》
谷に沈黙が走った。
ノエルが小さく声を震わせる。
「じゃあ……僕たちが名前を付けたら、死んじゃうの?」
アリアはゆっくりと首を振り、穏やかに笑った。
「大丈夫。あなたたちは何もしなくていい。――代わりに、私がやる。」
ユグドラシルが驚いたように瞳を細める。
《おぬしが……? しかし、それは――》
「平気よ。」アリアは微笑んだ。
「以前の私は魔力がなかった。でも今は違う。
大気のマナを魔力に変えることができるから、燃え尽きることはない。」
風が静まり、世界が息を潜めた。
アリアはファルグの前に立つ。
「まずは、あなたから。」
ファルグは一瞬ためらったが、やがて静かに頷いた。
《……名を、くれるのか。》
アリアは目を閉じる。
掌に青い光が集まり、空気が震えた。
「炎のように熱く、誇り高く、仲間を守る者。
その魂に、世界が認める“名”を与える。――あなたの名は《ヴァルガ=ファルグ》。」
瞬間、眩い閃光が走った。
渓谷全体が鳴動し、風が爆ぜる。
アリアの魔力が奔流となって大地を満たし、彼女の髪が青白く輝いた。
ファルグの巨体が光に包まれ、形を変えていく。
荒々しい毛並みが滑らかに、骨格が人型へと変化し、紅の瞳に理性の光が宿った。
《……これが……名の……力……》
声が人語へと変わる。
孤児たちが歓声を上げ、アリアは深く息を吐いた。
「はぁ……やっぱり、魔力をすごく使うわね……」
セリーヌの声が心に響く。
『アリア、魔力残量5%以下! 限界よ!』
「……平気。大気マナを再変換するわ。――止まらない。」
彼女の周囲に風が集まり、淡い光が舞い踊る。
アリアは笑みを浮かべながら、他の魔獣たちを見渡した。
「次は、あなたたちの番よ。」
《我にも!》《我に名を!》《名を持ちたい!》
歓喜の声が広がる。
アリアは一体ずつ、丁寧に名を与えていった。
名を呼ばれた瞬間、魔獣たちは光に包まれ、人の姿へと変わる。
角のある者、獣耳を持つ者、翼を持つ者――その姿は多様で、美しかった。
彼らの瞳には“言葉”が宿り、互いに微笑み合った。
《我……話せる……》《あなた……ありがとう……アリア……》
その光景に、ユグドラシルが呟いた。
《……なんと不可思議な……魔獣が人へと進化するなど、このルミナリアの理には存在しなかった。
おぬし……まさか、“創造の火”を宿しておるのか。》
アリアは微笑みながら肩で息をした。
「ただ、名前を与えただけよ。けれど――それだけで“存在”が変わる。」
ユグドラシルはしばらく沈黙し、やがて少し照れくさそうに呟いた。
《……妾も、名を貰えぬものかのう。》
アリアが目を瞬いた。
「え? あなたも?」
《この老いさらばえた身ではあるが……若き日の息吹を、もう一度感じてみたい。》
アリアは微笑み、頷いた。
「わかったわ。あなたにも、名を。」
彼女は両手を掲げ、空気を震わせる。
風が渦を巻き、光が収束していく。
「再生を司り、大地と命を繋ぐ者。――あなたの名は、《ユグ=ルナシル》。」
天地が揺れた。
轟音。閃光。大地が震え、ノルドリス全域に光の波が走る。
ユグドラシルの老いた姿が、光の中で若返っていく。
皺の刻まれた甲羅が輝く翠玉色へと変わり、瞳には金色の生命光が宿る。
その瞬間、大地が脈動を始めた。
岩の隙間から芽が吹き、草が伸び、花が咲く。
滝が流れ、渓谷が緑に包まれる。
そして――大地の中央から、一本の巨木が生まれた。
根が地を貫き、枝が空を突く。
その幹は聖樹を遥かに凌ぎ、天と地を繋ぐ光の柱のようだった。
風が唸り、鳥たちが鳴き、空の雲が裂けて光が降り注ぐ。
孤児たちが叫んだ。
「すごい……木が……天まで届いてる!」
ノエルが息を飲む。
「まさか、ノルドリスが……生きてる……?」
ユグ=ルナシルは静かに笑った。
《ふふ……思い出したわい。ノルドリスとは、本来この身の名。
この地は、妾の背に築かれておったのじゃ。》
ヴァルガ=ファルグが膝をつき、深く頭を垂れた。
《……まさか、我らが大地そのものの上に生きていたとは。》
風が吹く。
緑の葉が舞い、渓谷が“森”へと変わる。
生命が再び循環し始めた瞬間だった。
アリアは胸に手を当て、光の木を見上げる。
「これが……名の力。“存在を呼ぶ”ということ。」
セリーヌの声が穏やかに響いた。
『あなたは、女神の炎を“名”という形で再現したの。
言葉で命を創り、世界を蘇らせたのよ。』
ルイがアリアの手を握り、見上げて微笑む。
「アリア姉……この世界、すごく綺麗だね。」
アリアは静かに頷いた。
「ええ。これは――“みんなの名前”が創った世界。」
光が大地を包み込み、天へ昇っていく。
神樹ユグ=ルナシルの葉が風に揺れ、青い光が降り注ぐ。
その中心で、アリアは微笑んでいた。
人でもなく、神でもなく――世界を呼び覚ます“名を授ける者”として。
――こうして、ノルドリスは再生した。
かつて憎しみに満ちた谷は、今や生命の楽園となった。
その奇跡は、やがて世界を揺るがす伝承の始まりとなる。
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