歩道の3人
レネ
🪻
その日もタツヤは愛犬のコーギーのメスを連れて散歩に出た。コーギーの名前はポピーといった。
タツヤはいい加減、ポピーの散歩に疲れていた。
それまでは1日2回の散歩を、妻と一回ずつ交代でやっていた。朝,妻が行ったら夕方はタツヤが行くといった具合に。
ところがひと月ほど前、妻が足首を骨折して、ポピーの散歩はおろか、買い物も、掃除、洗濯、皿洗いも、全部タツヤがやらなければならなくなった。
3度の食事だけは、妻がキャスター付きの回転椅子に座って、どうにかこうにかこなしてくれていたが、それは夏の盛りのことだったので、連日の猛暑の中、タツヤは疲れ切っていたのである。
特に朝早くの、陽光が射す前に済ますポピーの散歩と、日が落ちてから、30度を越す暗闇の中の散歩はタツヤにはひどくこたえた。
暑い中を1回40分以上1日2回歩くのは、かなりの体力の消耗だった。
「一体、いつ涼しくなるのだろう」
タツヤはそればかり考えるのだった。
その日の夕刻の散歩は、まだ日が沈む前、32度の熱風が吹く中を、ポピーに引っ張られながらもう30分ほど歩いていた。
ポピーの用足しもようやく終わり、帰宅の途に着いた時だった。
もうほとんど日は暮れていたが、街灯が照らす50メートルほど先の歩道で、誰かが自転車でバッタリ転んで倒れるのが見えた。近づくにつれ目を凝らすと、どうやら70に近いような老人らしかった。タツヤの前を歩いていた同じ年頃の男が、
「大丈夫ですか」
と、自転車を起こし、転んだ老人の手を取ろうとしていた。
「いててて」と言いながら、横になったまま老人は起きようとしなかった。
その時タツヤは、
「大丈夫ですか」とだけ声をかけようと思ったのだが、何も言わずにその横を通過した。
右手にポピーを繋ぐリードを持ち、左手にはポピーのフンが入ったビニール袋を持っていたので、自分は何も手伝えない、そう思ったのだ。手伝うにしても、まずポピーのリードをどこかにくくりつけなければならない。
つまり、そこまでするにはタツヤは疲れすぎていた。一刻も早く家に帰り、冷たい飲み物を飲みたかった。
タツヤはそのまま、そこを通り過ぎた。ポピーも当たり前のように歩いている。
横になった老人と、老人を起こそうとする老いた男から、タツヤは少しずつ離れていく。
10メートル、20メートル、と。
その時、タツヤは本来ならそういう人に優しく接していたであろう自分はどこへ行ったのか,と思った。
しかもひと月ほど前にも、女子高生が目の前で自転車を横転させた時は、
「大丈夫ですか?」
と優しく接していたのだ。
疲れとは、人間を無関心にさせるものなのだろうか?
もう50メートルも離れただろうか。
しかしその時、タツヤの心の中で何かが揺れた。それが何かは、タツヤには分からなかった。
タツヤは唐突に方向転換し、倒れた老人の方へ向かった。ポピーは嫌がっている。無理やり引っ張って、老人の元へと辿り着いた。
先ほどの老いた男が介抱していた。
「大丈夫、ですか?」
タツヤはやっとの思いで声をかけた。
「立ち上がれないみたいで」
と介抱している男が言った。
タツヤはポピーを街灯に繋ぎ、フンの入った袋を置いて、老人に言った。
「救急車呼びましょうか」
「すみません」
と老人は言った。
老人も介抱していた老いた男も、携帯電話を持っていないとのことだった。
タツヤが119番すると、
「はい、火事ですか、救急ですか?」
と聞いてきたので「救急です」と答え、すぐに老人と電話を替わった。
老人は自分の状態を説明し、
「はい、67歳です」
と言った。「はい」「はい」と答え、電話を切った。
「10分くらいで来ると言ってました。どうもすみませんでした。もう大丈夫です」
老人はそう言った。
しかし、介護していた老いた男も、タツヤも、この夜の闇の中に老人1人を置いていくわけにはいかない。しかも気がつくと、のどがカラカラだった。
タツヤは近くに自動販売機があったのを思い出し、ポピーを置いてそこまで行き、ミネラルウォーターを3本買ってきた。
老人はしきりに「すみません」「すみません」とタツヤたち2人に恐縮していたが、薄闇の中で見ても、顔は痛みに歪んでいる。
やがて救急車が到着し、老人を乗せると、救急隊は受け入れてくれる病院を探しているらしかった。
タツヤと老いた男は、
「じゃあ、失礼します」
と言って別れた。
もちろん互いに何の見返りも期待していないから、それっきりである。
67歳かあ。まだ若いんだ。とタツヤは呟いた。
タツヤは今年、72になる。
歩道の3人 レネ @asamurakamei
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