『今、向かってるから』
大地ノコ
不在着信
当たり前だが、「死ね」と言われた人物が本当に死んでしまった場合、発言者は自殺教唆罪に問われてしまう。これは、ここ数年のSNSの普及により、周知の事実と化し始めた。
なぜ、ただの言葉が罪に問われるのか? それは、罪状は違えど、人を殺す言葉と人を殺すナイフとに差があるのかと質問されれば、ないと答えるのが妥当だからだ。
そう、だから、この法律には納得している。しているからこそ、私は震えている。
もしも今、私がこの場から飛び降りたら……彼が罪に問われてしまうのだから。
♦️
時は数年前に遡る。
「ねぇー、卒論終わらないんだけどお」
「仕方ないだろ。3年のときサボりまくってたんだから」
「あれは仕方ないの! 喜人様の追っかけしてたんだから!」
「それを世の人はサボるって言うんだよ……」
この時期になると、基本的にうちのような小規模私立大学においては、卒論の執筆が終わっているらしい。先輩談だから間違いない。
というわけで、4年の12月の今日、研究室に泊まり込みをしていたのは私ただ独りだった。
「はぁ寒い。このアルコールランプ、つけていいかな?」
「いいとは思うけど、どうせその火力じゃ変わんないぞ」
「火が付いてると、なんか暖かいって感じしない? 温度は別にどうでもいいの!」
そう言いながら、適当に放り投げられていたマッチを手に取る。この2ヶ月で何十回と指導を受けたおかげで、ようやく一発目で綺麗に火がつくようになった。
「ふふん、私にかかればこの程度……」
「なぁ、このランプ、多分アルコール入ってないよ」
ロープに火をつけて直後、彼はそう言った。
彼の指先には、無色透明な液体に満ちたアルコールランプが。けれど、確かにロープに灯った火は一瞬にして煙と化してしまった。
「な、なんでぇ!?」
「昨日、マッチの火消しに使ってなかった?」
一瞬にして、ありとあらゆる記憶が蘇る。
「あああああ、そうだったあああ、水でタプタプにしてたんだぁ」
「備品も無料じゃないんだし、大切に使えよ」
「はいぃ…………」
諦めて、指にするものをマッチからペンへと移し替える。文章もまだ目標の半分。しかも、この調子なら全て書いても必要字数に届かないだろう。
「あぁ、考えたくない」
「死ぬ気で考えれば、なんとかなるって」
「じゃあ死ぬ」
「勘弁してくれよ……お前に死なれたら、その、困るんだ」
♦️
ところで、どうして彼は研究室に残っていたのだろうか。私は彼が実験の類をしている所を見た事がない。
卒業式には出席していたはずだから、一応学生ではあったのだろう。ならば尚更、何故研究室に残ったりしていたのだろうか。
彼は言っていた。『私に死なれては、困る』と。私だけにできることというのが、この世界にあるのだろうか。絶対に、存在しない。
職場でも、何度も言われた。私の代わりなど、いくらでもいるらしいのだ。ただの脅し文句かもしれない。無視をすれば、すべてがうまく運んだのかもしれない。けれど、その言葉は無視をするには、あまりにも心当たりがありすぎたのだ……。
♦️
「はああああ、書ききった……」
「おめでと、随分と早かったな」
「うん……早かったんだよ……」
「あ…………が、がんばれ」
何とか執筆を終えた私は、必要字数を再び確認する……現実逃避のために。しかし、確認の数を増やすほどに、それは現実だと否が応でも信じさせられる。
「あと……2000文字……?」
どうしよう。流石に表現云々で何とかなる文字数ではない。かといって、これ以上実験を行う元気も時間も残っていない。
「あああああ……終わった、留年するんだ、私」
「死ぬ気で頑張ればなんとかなるだろ」
「じゃあ死ぬ」
「勘弁してくれ、犯罪者にはなりたくない」
やけくそになりながら、文章全体を推敲する。削れる部分はあっても追加できる部分は残っていない、完全にかさ増しされきった文章群だった。
つまり、おしまいという訳だ。
「そういや、お前って仕事決まってんの?」
彼はそう尋ねた。
「え、まぁうん。ブラック企業らしいけど、ほんとに働きたい職種だったからね」
「大丈夫か? お前にブラックとか向いてないだろ」
「大丈夫だよ! もうカフェラテ飲めるし」
「そっちじゃねぇし、結局ダメじゃねぇか」
♦️
そういえば、5年前は一口も飲めなかったブラックコーヒーも、いつの間にか毎朝飲まないとダメな体になっていた。始業に間に合わせるため、起床時間が異常に早くなり、睡眠時間の確保が難しくなり……。
彼の忠告をはじめから聞いておけば、こんな葛藤もしなくて済んだのにな。
♦️
「わ、私、卒業できたの?」
「おめでと。流石に無理だと思ったけど、案外行けるもんだな」
私たちは、入学式どころか、オープンキャンパスと比べても規模の小さい卒業式を終えた。しっかり、卒業生として、終えた。
「あのあと意味のわからない考察しかしてなかったのに」
「この位の学校なら、ちゃんとデータ揃ってたらそれでOKって感じなんじゃねぇの?」
にしても、大概だと思う。実験内容を発展させて未来にはこんなことがあるといいな、なんていう実用性皆無の想像をしたかと思えば、唐突にどうしてこういう考え方が生まれたのか、と過去回想を交えたり……。
「まぁ、俺だったら単位を渡すわけないってレベルのレポートだったけどな」
「やっぱそうだよねー……はぁ、社会に出たら、もっと真面目に働こ」
「あぁ、不安だあ……」
こんな私が卒業できたという輝かしい事実を前にして、彼は大きなため息をついた。
「いいか? 辛くなったら死ぬ気で頑張れ。でも、マジで辛くなったら、絶対死ぬなよ?」
「任せて! こんなに人生謳歌してきたんだから、まぁなんとかしてみせるって!」
確かに、喜人様の熱愛報道が出た時は3日くらい寝込んだけれど、それ以外は元気に生きてきたのだ。どうせ、何とかなるに違いない!
「ま、ほんとに死にたくなったら死ぬから、安心してよ」
「勘弁してくれ……犯罪者にはなりたくない……」
♦️
そう。『死ぬ気で頑張れ』、彼の口癖だった。私自身、この言葉は好きだ。
実らない努力は、足りていないだけ。死ぬ気で頑張って初めて、諦める資格が手に入る。彼はたまに、そんなことを話していた。
言葉だけを見ると、人情の欠片もないものだが、これを語るとき、彼はいつも笑顔だった。暖かな笑顔が、とても、印象的で……。
当時の私は気にも留めず、理解すらもできていなかったけれど、働き始めて、言葉の真意がよくわかった。
諦めることは、とても簡単で、とても無責任。だから、死ぬ気で頑張れ。
「ごめん……その言葉、真に受けすぎちゃったみたい」
震えながら、柵を跨ぐ。今この瞬間、風が吹けば落ちてしまうだろう。いや、むしろその方が幸せかもしれない。
このままだと、私は結果的に彼に殺されたことになってしまう。それは、ダメだ。彼は報われるべきだ。幸せな生活を送るべきだ。
私なんかとは違う存在だ。
彼が犯罪者になるのだけは勘弁だ。
「…………」
私はおもむろにスマホを取り出す。開いたのは、メッセージアプリだった。
『ねぇ、今暇?』
『平日真昼間に聞くなよ。暇だけど』
ただ、一方的に言葉を残そうとしただけなのに、どうやら暇だったらしい。
失敗だった。このままでは、絶対に気持ちが揺らいでしまう。早々に、会話を切り上げないと。
『私、社会に出てから、だいぶまともになったんだ』
『なんだよ急に。ちょっと怖いぞ』
『ありがとう。君のおかげで、いい生活が送れた。君は悪くない。本当に、ありがとう』
『おい、わざわざ研究室に残った意味がなくなるだろ。俺にも話をさせろよ』
『だめ、ありがとう』
『俺は、お前のことが好きだっ
これより先を見たくなくて、慌ててスマホの電源を切った。はぁ、最後の最後に、彼にトラウマを植え付けてしまったかもしれない。それでも、確実に、これで彼は犯罪者ではなくなった。
スマホがブルブルと震える。でも、もうこれは必要ない。手を伸ばして、そのまま空中で握っていた掌を広げた。スマホは空中でクルクルと回転したかと思うと、ピシャッと音を立てた。
人を殺す言葉と人を殺すナイフに、大きな差は無い。けれど、概念としては大きな違いがあるはずだ。例えば、言葉には多様な側面がある。1つの言葉にも微妙なニュアンスの違いが含まれる。
「もっと、察しづらい文章とか打てただろうなぁ」
そして、これが遺言になることに呆れ笑いを発する。
…………遺言と、化した。
『今、向かってるから』 大地ノコ @tsutinokodayo
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