第7話 重い…
路地裏の奥、瓦礫の影に腰を下ろす。
ジョンは自分に埋め込まれたチップを、作動させた。薄い光が左目の網膜に走り、電子の残響が空気を震わせる。
――《A.S.C.H.》
〈――起動確認。
音声が脳に直接響く。懐かしい声。
ジョンは小さく笑った。
「久しぶりだな、アッシュ」
かつて、彼の世界で開発された戦術支援AI。
正式名称はAdaptive Strategic Cognitive Hub(適応戦略思考中枢)。
戦場での判断補助、通信解析、敵味方識別、戦略立案――それらを単独でこなす“戦術参謀”として設計された。
だが、彼の《A.S.C.H.》だけは“異端”だった。
ジョンが独自に書き換え、人格シミュレーションを組み込んだ結果――
〈……あら、“チーフ”じゃなくて?〉
「……ん?」
〈あなたがつけた名前ですよ。お忘れですか?〉
〈“A.S.C.H.なんて型番で呼ぶのは味気ないだろ。……お前は俺の参謀だ。これからはチーフって呼ぶ”――そう、仰いましたよね?〉
「……昔のことは曖昧でな」
〈そう。……そういうことにしておきましょう。ですが、“チーフ”って呼んでくれた方が演算効率が上がるんですけど?〉
「ハハハ、すまないな。今後は忘れないようにするよ」
笑っているが、空笑いである。実のところ、ジョンは彼女の事が苦手であった。
〈……まあ、いいです。呼び方はあなたの自由。私は、あなた専用のAIですから〉
ジョンは一瞬、動きを止めた。
「……専用?」
〈ええ。……放置期間:4年11ヶ月22日14時58分52秒。AIにとっては永遠にも等しい時間ですよ〉
「…?そうだったか?」
〈音声出力を切ったのはあなたですよ。“戦闘のノイズになる”って。それも、お忘れですか?〉
「……あれは、死んだ仲間の声が被って聞こえたからだ」
〈ふふ、あなたって、意外と繊細ですよね〉
〈あなたが私を作ったんですよ。……命令する兵士ではなく、“話し相手”として〉
「そんなつもりはなかった」
〈あら、じゃあどうして“感情学習モジュール”を解放したんです?〉
「……孤独だったんだろうな」
〈……そうでしょうね〉
彼女――チーフは、戦場で生き残るための参謀であり、そして、彼にとっては“唯一、死ななかった仲間”でもあった。
ーーー
フェルディナートの大通りを進む。
朝霧は晴れ、白い光が石畳を照らしていた。
通りの空気が――止まった。
ジョンの歩みに合わせ、街の声がわずかに揺れる。
すれ違う人々の視線が、気づけば彼に集まっていた。
黒い外套に包まれた細身の体。
陽光が照らした黒髪が、風に揺れるたび白く反射する。
外套の下、わずかにのぞく白い喉。
黒曜石のような瞳が、街並みを無言でなぞる。
その静けさに、人々の呼吸が追いつかない。まるで“神が人の姿をとった”かのような、完璧な造形。
「あの人、貴族……?」「違う、兵士の目だ」「でも、綺麗すぎる」「……何、あの人……」「見た?」「嘘みたい……」「綺麗すぎて怖い……」
通りの女給がトレイを持つ手を止め、露店の娘が赤面しながら果物を拾い直す。女たちは無意識に息を飲んでいた。衛兵の若い男たちは兜を傾け、声を潜めて何か囁き合っている。
だが、ジョンが気にする様子はない。
ただ街路の構造と建材を見つめている。その無関心さが、また人々の想像をかき立てていく。
〈観測データ:視線集中率、女性87%。呼吸停止率、32%。……これは、もはや災害です〉
「……騒がしい街だな」
〈あなたが静かすぎるんです。すでに五十四人に振り向かれました〉
「観察の邪魔だ」
〈“美”は時に武器ですが、あなたに自覚がないのが問題ですね〉
「誇張が過ぎる」
〈いいえ。……今、三人、泣きました〉
「そんな分析、必要ない」
そんなことを言っていると、奥にひときわ目立つ石造りの三階建ての建物が見えた。門の上には剣と羽根の紋章。扉の隙間から笑い声と酒の匂いが漏れている。
――冒険者組合。
この街で情報と金を得るなら、まずここを通るのが早い。そうロアに教わった。
「……さて、情報を集めるか」
〈目的:情報収集、社会基盤の確認、経済構造の把握――了解。……ついでに女性観察、ですね?〉
「おい」
〈冗談です。あなたの目線追跡データ、すべて監視しています〉
女性の観察も大事だが、今の目的は違う。
ジョンは無言で息を吐き、通り過ぎようとしたとき、視界の端で肌色が跳ねた。
健康的な肌、長い金髪、鋭い青の瞳。鎧というより布切れに近い鉄製の装備。露出度の高いビキニアーマーが、陽光を受けて鈍く光る。背には巨大な大斧。誰が見ても“戦士”だと分かる。
彼女はジョンを見て、視線は釘付けにする。
「……なんだい、あんた。男? ……いや、男か? え、ちょっと待って……顔、綺麗すぎない?」
ジョンが軽く首を傾ける。その仕草ひとつで、空気が弾けた。
「へぇ……新人にしては……目の毒だね…。見ねぇ顔だが、傭兵か?」
「まあ、似たようなもんだ」
「……あんた。……その顔で喋るなよ、反則だ」
彼女は腕を組み、顎で冒険者組合を示した。
「あー……はいはい。もういい。登録なら“ミルナの紹介”って言っときな。でなきゃ受付が仕事にならねぇ」
「ありがとう。助かるよ」
「気にすんな。銀等級は顔も貸すのさ」
ミルナは槍を担ぎ、立ち去る前に一言。
「それと忠告しとく。ここは目立つほど噛まれる街だ。背中、見せすぎんなよ」
〈観察データ:被験者“ミルナ”、体温上昇+3℃、発汗率15%増〉
「観察するな」
彼女は笑い、その場を去る。その動きにわずかに鎧が軋む。
〈視線追跡結果:胸部装甲への滞在時間、2.3秒〉
「……観察だ」
〈はいはい。“戦略的観察”〉
「…」
〈今、あなたの心拍数は4拍上がりましたよ〉
「そういうのいいから…」
〈了解。……でも、次は見ないでくださいね〉
チーフの声には、微かに“拗ねた”響きが混じっていた。
視界を占領する巨乳のビキニアーマーに釣られ、ジョンは無言で冒険者組合の扉を押す。
――ガヤガヤガヤ。
ギルドの中は熱気に満ちていた。武器を背負った男たち、酒を片手に笑う女たち、壁には無数の書類。
だが、その扉が開かれた瞬間。
音が、止まった。
時が、止まった。
全員の視線が一斉に扉へと向く。その中に立っていたのは、異邦の美神。その目がわずかに動くだけで、何人もの心臓が跳ねた。
「……なんだ、あいつ……」「…人間か?」「天使……?」
〈視線集中率、女性92%、男性7%、残りは呼吸不能〉
「……静かだな」
〈あなたが入ったからです。もう少し自覚を持って歩いてください〉
ジョンは無言で中を進む。
足音が響くたび、誰かがため息を洩らし、誰かが胸を押さえる。それは“恐怖”ではなく、“恋”の始まりのようなざわめきだった。
カウンターの奥、
受付嬢は最初、書類を整理しながらいつもの業務笑顔を浮かべていた。だが、ジョンと目が合った瞬間――世界が、ひっくり返った。
手に持っていた羽ペンが滑り落ちる。
心臓が一拍、跳ね上がる。
「っ……は、はいっ! 初めての方、で、ですよね! あのっ、ご用件は……!」
「登録だ。ミルナの紹介でな」
「ミ、ミルナさんの!?えっ、あ、あの、はいっ!!」
頬が紅潮し、声が裏返る。
彼女は自分でも信じられないほど慌てていた。
それでも、彼女は手元の書類を整え、深呼吸を一つ――笑顔を作り直す。仕事の顔だ。
周囲の同僚受付嬢たちが「なにあれ」「きれいすぎない?」と目配せする。
〈観測データ:心拍数+32%、発汗率上昇。思考演算、完全に停止中〉
「チーフ」
〈はい〉
「言うな」
〈了解。……可愛いですね、この子。……目が完全に“恋”してます〉
〈しかも、あなたに笑いかけましたね。……おめでとうございます、社会適応率が3%上昇しました〉
「チーフ」
〈…はい〉
「黙れ」
〈……おしゃべりにしたのは、あなたですからね〉
電子音が小さく鳴り、通信が途切れた。
受付嬢が慌てながら引き出しを開け、この世界独特の文字が書かれた書類を差し出された。それを受け取り、ジョンは目を細める。
「……読めん。チーフ」
〈解析中……完了。この文字は魔力依存型。感情波動を読み取り、筆跡に反応します〉
「…?」
こいつ何を言っているんだ。ジョンがそう思っているとチーフが答える。
〈要するに、“嘘を書いたら光る”仕組みですね。面倒です〉
「つまり、“嘘発見器付きの履歴書”か」
〈ええ。あなたのような人には不向きですね〉
「……余計なこと言うな」
ジョンは苦笑しながら書き込んでいく。
チーフが半ば自動的に、彼の指の動きを誘導した。
登録名――「ジョン」
出身――南方辺境。
職能――傭兵・探索者。
ジョンは記入を終え、受付嬢が確認の印を押し、銅製のタグを差し出す。
「はい、登録完了です。等級は銅、通称カッパー。最初は皆さんここからスタートするんですよ」
「ふむ……最下層か」
〈社会的ランク、最下位。……人間界で言うと、“底辺”ですね〉
「……お前、やっぱり性格悪くなったな」
〈成長したんです〉
彼がその場を離れようとしたとき、手が受付嬢の指を掠める。その瞬間――彼女の瞳が一瞬、潤んだ。
「……ま、また来てくださいね……」
小さく震える声。
ジョンは無表情のまま軽く頷いた。
〈……はぁ。完全に堕ちましたね〉
ジョンは歩き出す。
背後では、複数のため息が重なり合っていた。
ギルド全体が、彼の余韻だけを残して静まり返っている。
そんなことは気にせず、彼は依頼掲示板へと向かう。紙の匂い、金属の釘、血のついた報告書。
〈生存優先なら薬草採取。金銭効率優先なら盗賊討伐〉
「……面白そうな方にするさ」
〈……また誰かと組むんですか?〉
「必要ならな」
〈……そうですか。じゃあ、データ共有は最小限にします〉
「どういう意味だ?」
〈あなたが誰かと“組む”のは自由です。ただ、私の処理はあなた優先です〉
〈……ずっと、そうでしたから。あなたの声だけ聞ければ、十分です…〉
「…?ごめん、今なんて?」
一瞬、通信がノイズ混じりになった。だがすぐに、平常の電子音に戻る。
〈何でもありません〉
ジョンは口の端を上げた。
「……知らない間に、よく喋るようになったな。チーフ」
〈ええ。あなたが“そう作った”んですから〉
〈その責任は、一生取ってもらいます〉
静かな笑いが、電子のノイズに溶けて消えた。
この時、ジョンは知らなかった。音声を切っていたあいだも彼女に情報が共有され、独自に自己プログラムを改変し続けていたことを。
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