第3話 彼女の心

薪がはぜる乾いた音が、石造りの地下室に小さく響く。焚き火の赤が壁のひび割れをなぞり、影を大きく伸ばしては縮めていた。


ロアはジョンとの戦闘を思い出す。


​思い返せば、一射目から常軌を逸していた。

放った瞬間、外れるはずがないと確信していた。矢は首筋を裂き、即死させる軌道だった。

けれど奴は――頭をわずかに傾けただけでかわし、そのまま背後から迫る矢を振り返りもせずに掴み取った。

やすやすと。何でもないことのように。

矢を扱う者なら分かる。あれは不可能だ。音を裂く速度を目で追い、さらに手で捕らえるなど、理屈で説明できる領域ではない。

だがこいつは、まるで遊戯のようにやってのけた。


二射目はさらに異様だった。

眉間を正確に射抜く矢――それを真正面から右手で受けたのだ。

死んだだろう。そう思い近づき、声がするまで気づかなかった。

死を偽装するための芝居。致命を受けたと思わせ、相手の油断を誘う。掌を貫かれるのを承知で。血が弾け、骨ごと裂かれる衝撃に、普通なら絶叫して倒れる。だが奴は握りしめた。矢を逃さぬよう完璧なタイミングで。


まんまと私は騙された。


ジョンの呼吸は落ち着いている。縫い目の走る肩も足の断端も、血はすでに止まっている。ここへ連れてくるまでに散々流していたはずの赤が、今はもう滲まない。異常な生命力と、あり得ない回復速度。普通の人間ならとっくに死んでいる。


眠りの合間に、喉から小さな寝息が漏れる。その音がやけに耳に残って、ロアは無意識に呼吸のリズムを合わせそうになり、慌てて視線を逸らした。


頭をよぎったのは――利用価値。

生かせば売れる。

奴隷市場なら高値がつくだろう。四肢を欠いても「死にかけても生き残る」珍品として貴族の見世物にされる。闘技場に放り込めば、血と土の中で化け物じみた活躍をする。

学者に売れば、臓器を一つ一つ取り出され、瓶詰にされて標本室に並べられるだろう。

商人に渡せば「不死の兵士」として神輿のように扱われ、都市を練り歩かされるかもしれない。

あるいは帝国の戦線に差し出せば、百人殺す駒になる。生還するたびに人々の恐怖を煽り、敵国への抑止になる。


そのどれもが現実味を帯びていた。

だからこそ生かしておく価値はあった。

冷酷で合理的な計算。それが答えのはずだった。


……だったのに。


『惚れたかい』


耳の奥に、あの掠れ声がまだ残っている。

冗談だ。間違いなく冗談。死にかけで口が軽くなっただけ。

そう言い聞かせても、心臓が跳ねる。鼓動が一つ早まる。


いや待て。なんだこれは。なぜ今、その言葉が蘇る。


「惚れた?誰が?僕に?いやいやありえない。……ありえないよな?」

「この僕に……惚れただと!? 馬鹿か、冗談だろ!」


頭を振っても、声は消えない。まるで焚き火の残り火みたいに、耳の奥で燻り続けている。


思わず頭を抱えそうになる。落ち着け。冷静になれ、僕。これは錯覚。馬鹿げた妄言に過ぎない。まともじゃない。……なのに、耳が勝手に思い出す。声が頭から離れない。


「スー…ハー…スー…ハー…相手は半死人だぞ。しかも変態だ」


「……いや、でも顔は悪くない」


顔をちらりと盗み見る。

焚き火に照らされた横顔。血に塗れた戦場の顔ではなく、今はただ眠る青年の顔。

鋭い目尻の線、頬の陰影、無駄のない輪郭。


――正直に言えば、好みだった。


だから余計に腹立たしい。


彼は本来なら、誰もが振り返るほどの美男子だった。

均衡の取れた輪郭と、彫刻のように端正な顔立ち。

その瞳は、夜を閉じ込めた宝石のように澄んでいた――。

見る者の恐れを越え、理屈を無視して“美しい”と感じさせてしまう。


神に愛されすぎた造形。

光と影の比率さえ完璧に整ったその顔は、まるで“人間という概念の誤差”のようだった。

世界が曖昧に見えるほどの均衡。


そして、その美しさは男女を問わず心を奪う。

男は憧れ、女は恋に落ちる。

笑えば頼もしく、沈黙すれば崇高に。

立っているだけで人の理性を奪い、話せば相手にとって“理想の声”になる。


なぜ兵士に“美”を与えたのかは謎であり、誰も気にしない。戦場では感情も容姿も不要。ただ戦い、生き残ることだけがすべてだった。


だが、この世界ならばーー人々を魅了して止まないだろう。


それがジョンという存在。


しかし、彼自身はそれをまったく自覚していない。

場の空気に合わせ、相手の反応を自然に読み取り、最適解で応じてしまう。

意図せず、誰に対しても“理想の相手”を演じてしまうのだ。


つまり――

"無自覚イケメンキザ真面目スケベ野郎"だったのである。


そんな致命的な組み合わせを、本人は「普通のこと」として生きている。

人たらしの天才。だがその才能に気づいていないのが、いちばんタチが悪い。


「……ほんっとに、腹立つ奴だな……」


ロアは唇を噛む。

しかもあの時、彼は"ダークエルフ"と聞いても怯まなかった。普通なら忌避する。嫌悪の色を露わにする。けれど彼は違った。むしろ「きれいだ」と言った。軽口に決まってる。


……それでも、胸の奥が温かくなったのは事実だった。


「違う、違う。利用価値だ。僕はそれで残したんだ」

「タイプだからって惚れられた気になるな……!僕は違う、そういうんじゃない…僕はチョロくないっ!」

自分に言い聞かせるように呟く。

奴隷として売るため。戦力として使うため。研究材料として差し出すため。

理由はいくらでもある。そうやって言い訳はできる。


……でも。


頭の中に浮かぶのは利用法じゃなく、あの笑み。

血まみれで矢を掴み止めながら、なぜか愉快そうに笑っていた顔。

常識じゃ有り得ない。恐怖のはずなのに、心臓が勝手に高鳴った。


「落ち着け僕。まともじゃない。こんな奴に惹かれるなんて……」

額に手を当て、深呼吸をする。

地下室の湿った空気が胸に重く入る。けれど、火照った鼓動は収まらない。


ぱちりっと薪が弾け、赤い光が宙を走った。

影が伸び、眠るジョンの輪郭を揺らす。

その度に心がざわめく。利用価値のはずだった。冷酷な計算のはずだった。

……なのに今は、理由のつかない引力に縛られている。


ロアは小さく息を吐き、両手を組んだ。

「……本当に、どうかしてるぞ…」




―――




その頃。

草原にはまだ血と鉄の匂いが残っていた。

夜気を切り裂き、無機質な声が響く。


「巨大エネルギー波を確認。軸のブレを検出。対象、別座標へ転移」

「コードネーム、X06598…ジョン、生存の可能性――高」


淡い光が地面を走り、戦場の痕跡を読み取っていく。

機械仕掛けの影が一度だけ空を仰ぎ、静かに告げた。


「追跡を開始する」


風が草を揺らす。

冷たい月の下で、影は音もなく闇に溶けた。

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