霊の目礼

蛍野土産

第1話

 至極平凡と言われればそれまでの小さな田舎町に生を享けた者にとって、大抵興味の湧く話題がある。いわゆる、その土地の「言い伝え」だ。静かな田園風景を縁取る山々の奥、人気のない路地にある祠、何百年も生きてきた老木などに、何か不可思議な存在を見出す。そして、永遠と続いていきそうな人間の紡ぐ歴史という流れに、そっと色づいた物語を流し込む。それは次第に色褪せ、黄ばみ、些か歪な様子で儚げに錆びついているものもあれば、今もなおゆったりと誰かの心の奥で安らいでいるものもあるのだろう。


 しかしはたして、そんな物語が生まれるのは、昔に限ったことなのだろうか?


 ぼうっと灯のつく祭りの夜、やがて小さくなる囃子の声に寂しさを覚え、その翌晩一人で神社に歩いて行った少年の話をしよう。日の暮れた夏の夜。小山の上にある神社は見上げてみると、もう片付けはとうに終え、すっかり昨晩とは様変わりしていた。鬱蒼とした大木が何本も境内を囲み、あれだけはっきり見えた鳥居はただ影を蒙昧にかくすのみ。幾余の提灯の代わりは薄白い月明りだけである。懐中電灯でも持ってくればなどと悔やむもののさして躊躇もなく石段を上ったが、いざ二つ目の鳥居をくぐった時不意に辺りの木々が騒めきだしたのにはさすがにギクッとした。彼はそっと賽銭箱に近づき、すっかり鳴りを潜めて天井の闇に姿を隠している鈴を見上げて、直感的に、自分がいまここにいるべきではない気がしてきた。何故だか知らない。なんだか背後で木の葉ががさがさ迫ってきていて、夜風が戦慄き、目の前の木造がおんおん啼いているかのような心地がしてきた。当然何かの錯覚だろうと冷ややかな態度で建物の周りを一周しようとするが、そのくせ、自分の後ろを振り返ろうとはしなかった。背中がひどく、冷たかった。

 境内の右側に足を向けるとすぐ広い空間に出て、昨晩賑やかに屋台が並んでいたのを思い出した。何かしら跡でも残っているんじゃないかと若干期待しながら少し歩き回ってみたが、何も見つからない。清掃員だかが優秀だったのかと思われるが、彼は半ば思考が侵されていた。妙な考えばかり浮かんできそうな気がして、さっさと頭の働きをやめてしまったのだ。「嘘のように」消えた屋台の幻影から逃げるように足早にその場を去りながら、心臓がばくばく鳴るのを抑えようと身を縮こまらせていた。

 なんのつながりがあったのか、ハングルが彫られた古扉。何故か窓の半分開いた小さな祠。道に覆いかぶさるようにして枝を伸ばした老木。それらを追い抜いていつのまにか小走りになっていて、ようやっと一周したなと思ったころ、下へ降りる石段を見つけた。真っ赤な鳥居は静かに夜闇に燃え、その向こう、山の麓には先程見たような蔵屋敷の列がある。薄暗いなんてものではなかった、とっぷりと暮れ落ちた空には雲がかかり、見守る者は誰一人いなくなった。──少年はただただ身体を震わせていた。

 息をすーっと吐いて、駆け下りた。もう一度吸い直す暇などあるはずもなかった。何度も躓き縺れた足に、筋肉や骨というのがちゃんとついているのかどうか、疑われた。手すりを持つ余裕ぐらいは残っていたから、己の神経に異常がないことを、その冷えた金属棒の感触のみで確かめていた。片手が虚空を掴むのも恐ろしくなって、すぐに両手で手すりを握り始めた。

 それからは、通い慣れた学校を見つけるまで、道を走り続けていた。それ以外に自分を守ってくれるものがないと、信じていた。こんな時間までも、仕事をしている先生たちの灯す明かりが、凄く恋しかった。あるいは、友達もいてくれないかと願った。


 誰か誰か、誰か、……



   タスケテ

 

 



 少年は知らず知らずのうちに、泣いていた。もう学校にたどり着き、先生たちに囲まれているというのに、涙と嗚咽と震えは留まらなかった。いつもは怖い隣のクラスの先生から慰められていた。友人たちや、大好きな担任の先生はいなかった。


 その日以来か、少年は摩訶不思議な物事に対して、極めて実践的な考えを持つようになった。別に何が見えるでもないというので、頭の中でだけ捉えているものがあるのだろう。ある祭りの終わった翌晩、たった一度境内を回っただけ。本当にそれだけだ。それだけだが、彼にとって「霊」とよばれるものを信ずるに値する、否、信じなくてはならない出来事であったということである。

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