ブラックバーン・ファミリア ~ 猫とキス魔と異能者界隈 ~

海東 いお

第1話 黒猫が降ってきた

 五月最後のチャイムが、まるで一日を使い果たした後の長いため息のように、ゆるやかに校舎へと溶けて消えていく。


 窓から滑り込む橙色の光が、空気中に舞うチョークの粉をキラキラと照らし出し、まるでスローモーションの映画のワンシーンのようだ。誰もいなくなった教室は、生徒たちの熱気が去った後の静寂と、微かな寂しさを漂わせている。

 机の上に置きっぱなしになったプリントの束の角が、窓からの風にピラリ、と小さく旗のように揺れては、力なく元の位置に落ち着いた。


 僕は――折間理生おりま りおは、そんなありふれた放課後の風景の中で、ノートの片隅に無意識に描いていた星の絵を、親指の腹でゆっくりとこすって滲ませた。

 くっきりとした輪郭を持っていたはずの星は、黒鉛の粒子に塗り潰され、ただの汚れた黒点へとその姿を変えていく。白い紙の上だからこそ、それは星として輝いていられたのに。

 まるで、僕自身のようだ、なんてらしくない感傷に浸ってしまう。


「折間理生」。女の子みたいな名前だと、小学校の頃から何度からかわれたか分からない。

 高校生にもなって、その名前をいじる幼稚な輩は減ったけれど、代わりに定着したのが「マリオ」という、悪ノリにも程があるニックネームだ。あのスーパーヒーローとは似ても似つかない、ごく平凡で、むしろ少し気弱な僕には、あまりにも不釣り合いだ。

 それでも僕は、努めて明るくそれを受け流す処世術だけは身につけたつもりでいた。

 けれど、笑顔の仮面の下、胸の奥深くの柔らかい場所は、いつだって誰かに軽く擦られたように、ヒリヒリとした痛みを抱えている。


「話していいかニャ」


 不意に、机の天板にぽっかりと影が落ちた。聞き覚えのない、しかし妙に威厳のある声。

 顔を上げると、そこにいたのは一匹の黒猫だった。ベルベットのように艶やかな毛並み、そして夕陽の光を吸い込んで爛々と輝く、知的な金色の瞳。

 教室入口のドアは固く閉ざされていて、窓も換気のために開けた数センチの隙間しかない。どうやって入り込んだのか。


 そんな僕の疑問など意にも介さず、黒猫は当然といった顔で僕の筆箱を鼻先でつんと小突き、そして、当たり前すぎる口調で、再び喋ったのだ。

「聞こえてるニャ?」

「……え、今、喋ったのって、君?」

 あまりの超常現象に、僕の思考は完全にフリーズする。思わず目を瞬かせ、目の前の黒い生き物を凝視した。

 幻覚か、それとも疲労が見せた幻聴か。


「いかにも、我輩わがはいが喋ったニャ」

 黒猫は、まるで指揮者がタクトを振るように、しなやかな尻尾を一拍、リズミカルに揺らした。

 そして、ふんぞり返るように小さな胸を反らせて続ける。

「ヒトの言葉というものはニャ、聞く耳がある感受性の高いヤツにしか届かん、特別な周波数なのだニャ」

 その口ぶりは、まるで大学教授が講義でもしているかのように自信に満ち溢れていた。

「名を名乗れニャ」

「お、折間、理生。二年A組です」

 僕はほとんど反射的に、自己紹介をしていた。猫に向かって。クラス名まで丁寧に。


「折間理生。ふむ、悪くない。素質は十分と見たニャ」

 猫――いや、この威厳ある存在は、僕の名前を吟味するように復唱すると、満足げに頷いた。

 そして、次の瞬間、その知的な雰囲気はどこへやら、金色の瞳をキラキラと輝かせ、真剣な面持ちで訊いてくる。

「……で、『ちゅ〜る』は?」

「え? 猫のおやつの『ちゅ~る』? そんなの持ち歩いてるわけないだろ。だって僕、高校生だし」

 あまりのギャップに、固まっていた思考がようやく動き出す。思わず否定する言葉が口から出た。


「交渉決裂ニャ」

 黒猫はぷい、と顔をそむけたが、すぐに気を取り直したように僕を見据える。

「まあ、よい。我輩の名はバーン。ただの黒猫にあらず。これからお前たちのリーダーとなり、お前を導く者ニャ。そして、お前に力をやる」

 その声には、何の疑いも挟ませない、絶対的な確信がこもっていた。


「力って……一体、何のだよ?」

 あまりに突飛な展開に、僕の眉が訝しげに上がる。新手の詐欺だろうか。猫を使った。


思痛吸収エイク・レスキューだニャ。」

「エイ……?」

「いいから手のひらを見せるニャ」

 言われるがまま、僕が右の手のひらを開くと、そこにバーンは前足を乗せた。まるで、犬がする“お手”みたいに。

「これは、どういうこと?」

 僕が尋ねると、バーンは、すぐに前足を下ろした。

「今のは発現の儀式ニャ。これで、お前は思痛吸収エイク・レスキューという力を使えるようになった」

「だから、その力って?」


 バーンは、机の上から床へと軽やかに飛び降りた。そして、僕が座る椅子の脚に、親愛を示すように額をこすりつけながら、驚くべき内容を淡々と告げる。


「お前の力の発動条件は、キス。口じゃなくても、手の甲や額でもよいニャ。キスした相手の“ダメージ”――肉体的な痛みに起因しない、精神的な苦痛を根こそぎ抜き取り、お前の器の中へ移す能力ニャ。ただし、代償はある。連続使用すれば鼻血が出る。体力も消耗するニャ。それから、絶対遵守の規律が二つ。異能の使用は一日一回だけ。そして、これからお前が作る“家族”のメンバーには、原則この異能は使えない。いいか、ここは絶対だニャ」


 その声は猫のものとは思えないほど低く、よく通った。教室の曖昧な空気を切り裂き、僕の鼓膜に直接刻み込まれるようだ。

 ごくり、と自分の唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。

「……それって、誰かの痛みを、僕が代わりに引き受けるってこと?」

「その通りニャ。そして、お前の決めゼリフは『吸うぞ、その痛み!』だ」

 バーンは僕の意見も聞かずに勝手に決めつけ、「うむ、実に似合うニャ」と一人で満足げに頷いた。


「いや、勝手に決めないでくれるかな!」

 僕が慌てて抗議の声を上げようとしたが、バーンは意に介さず、さらに畳みかけるように言った。

「物事には順序というものがあるニャ。最初のメンバーはお前、そして二人目は、桜台梓さくらだい あずさだ。あと二人、加入予定の候補者がいる。我輩と四人。血の繋がりを超えた魂の家族――“ファミリア”を結成する。その名は、ブラックバーン・ファミリア。略称はBBF。我輩の名を冠した、気高き集団ニャ。まだ教えられないこともあるが、それは今後の交渉材料だニャ。我輩は出し惜しみをするタイプなのだ」


「あと二人って、一体誰なんだよ?」

 僕が食い下がると、「今は伏せるニャ」とバーンは短く答え、金色の瞳で廊下のほうを鋭く見やった。まるで、そこに次のターゲットの姿でも見えているかのように。

「どんな物語も、最初のページは派手で印象的な方がよい。既に力は授けた。――さあ、行くニャ。桜台梓のところへ」

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