三十五歳、新任教師。教室は僕を待ってくれない

コテット

第1話 非常勤最後の日

 ~ 教室の匂いと色紙の重み。非常勤を卒業する夜、未来はまだ霞んでいる ~


 最後のチャイムが鳴ったとき、黒板の粉は薄く宙を漂い、日直の「起立、礼」の声が少し裏返った。笑いが起き、すぐに収まる。子どもたちの視線がばらばらに彷徨い、やがて僕に戻ってくる。

「先生、元気でね」

 誰かが言った。誰だったか、見失う。僕は笑って「もちろん」と返したつもりだったが、口の中が乾いて、音になったかどうか自信がない。


 四年一組。非常勤として最後の担当クラスだ。黒板の端に書いた今日の予定は、消す時間を逃して妙に生々しく残っている。「読み取り」「漢字テスト」「理科観察」。これらは来週には別の誰かの字で書かれるのだろう。教室の匂いは、いつだって同じだ。消しゴムのかす、絵の具の蓋、机の木、運動靴のゴム。

 子どもたちが一斉に立ち上がる。机の引き出しから、折り畳まれた色紙が現れた。

「先生、はい」

 受け取った瞬間、角に貼られた小さなシールが指に触れて、なぜか胸が詰まった。色紙の中央には、僕の似顔絵。輪郭は大きすぎ、目はやけにキラキラしている。周囲を埋め尽くすメッセージには、文字の濃淡があった。濃いのはきっと、よくしゃべる子。薄いのはたぶん、恥ずかしがり屋。

「先生が作ったクイズ、またやりたいです」

「図工のとき、ほめてくれてうれしかった」

「社会の地図のやつ、うちでもやった」

 それから、ひとつ。

「先生がいなくなっても、べつに泣かないから」

 笑い声が起きた。書いた本人が顔を真っ赤にしている。僕も、笑った。笑いながら、色紙の端を強く持ちすぎないように、力の加減を探っていた。


 終わりの挨拶が済むと、子どもたちは思い思いに僕へ集まり、また離れていった。ランドセルの金具がぶつかる軽い音。廊下に流れる足音の速さ。最後に残ったのは、椅子を静かに上げる二人の子と、窓際で黙っている一人の男の子だった。

「北川、どうした?」

 僕が声をかけると、北川は首を横に振って、窓の外の校庭を見続けた。

「……先生、次はどのクラス?」

 彼は振り返らずに言った。

「次は、僕自身の“最初のクラス”だよ」

 少し回りくどかったかもしれない。非常勤としていくつもの教室に出入りしてきたけれど、春からは正規採用で初めての担任になる。そう説明すると、北川はやっと振り向き、唇をぎゅっと結んだ。

「……ふーん」

 それが彼なりの「がんばれ」だと、僕は勝手に受け取ることにした。


 子どもたちが校門へ吸い込まれるころ、職員室の窓は橙色を帯びはじめていた。僕は出欠簿を所定の位置に戻し、配布資料の余りを封筒にまとめる。机の引き出しの奥から、無くしたと思っていた青いホチキスが出てきて苦笑した。非常勤という肩書きは、便利で、不便だ。いちいち鍵を借り、いちいち返す。郵便物の名前の横には、いつも括弧で(非常勤)と書かれていた。

 でも今日は、違う。


 職員室の隅、校務用の掲示板。バインダーに挟まれた白い紙の右上に、僕の名前が印字されている。「採用候補者通知」。定型の言葉が並ぶその真ん中あたり、「四月一日付 小学校教諭」とあった。

 目で読むより先に、手のひらがじんわりと汗ばむ。紙はただの紙で、軽くて、薄い。それなのに、肩にのしかかる重さが確かにあった。


「佐久間先生」

 背後から呼ばれて振り向くと、学年主任の山田彩花がファイルを抱えて立っていた。

「おつかれさまです。色紙、もらってましたね」

「ええ。なんていうか、胸にくるものがありますね」

「良かったです。――で、春からは同じ学年です。四年」

 彩花は当然のことのように言い、ファイルを抱え直す。

「学年会の感じ、結構スピード速いんで。最初は大変かもですけど、頼ってください」

「頼る、のが、苦手で」

「知ってます。顔に書いてあります」

 意地悪でも笑いでもない、淡々とした口調だった。彼女は若いのに、言葉の置き方が巧い。僕は笑って頷くしかなかった。


 夕方、校舎の外に出ると、風が冷たかった。三月はいつも、季節の嘘つきだ。日向は春で、日陰は冬のまま。自転車置き場で鍵を探りながら、僕は背中のリュックの重さを確かめる。色紙、採用通知、未完成の授業案。

 駐輪場の端で、体育主任の小谷が手を振った。

「佐久間、今度から“先生”な」

「今までも先生だったつもりなんですけど」

「つもりじゃなくて、“そのクラスの先生”。全然違うから覚悟しとけ」

 笑って言う割に、目は真剣だった。

「叱るのが苦手なんだろ? 叱らなくていい方法を、叱れるまで探す。そんで、どうしてもってときは叱る。順番を間違えんな」

「肝に銘じます」

 口は軽く返せる。だけど、心は答えを持っていない。


 家までの道は、街灯の点き始める時間帯だった。コンビニで夕飯と翌朝のパンを買い、レジ横の募金箱に十円玉を落とす。チャリンという音が、思ったより小さかった。アパートに着くと、階段の踊り場で一息つく。深呼吸の仕方を忘れていたかのように、息が浅い。

 部屋の電気をつけると、狭いキッチンと小さなテーブル、ノートパソコン。壁に貼った小さなホワイトボードには、「春 学級開き」「自己紹介」「係活動」とマジックで書かれたまま。二週間前に書いた字は、よれている。未来の計画は、いつも少し震える。


 電子レンジが唐揚げ弁当を回す間、採用通知をもう一度取り出す。そうだ、ここに至るまでに、三年かかった。通信制の講義、夜のレポート、朝のスクーリング。非常勤の時給で生活をつなぎながら、空きコマで教材を作った。広告代理店での時間は、嘘みたいに遠い。プレゼンのスライドは得意だったのに、教室では一枚の板書にすら手間取る。

 やっと辿り着いたはずなのに、怖い。

 “担任”という言葉が、夜の部屋を少し狭くする。


 弁当を食べ終えると、パソコンを開いた。真っ白なスライドに「学級開き」とだけ打って、止まる。子どもに何を伝えたい? 何を約束したい? 何を求める? 言葉が浮かんでは消え、カーソルだけが点滅する。

 画面の横にスマホを置き、メモアプリを開く。

 ——自己紹介は短く。

 ——クラス目標は、子どもと作る。

 ——禁止より、約束の言葉。

 修飾語が邪魔だ。削る。

 ——あいさつ。

 ——話を最後まで聞く。

 ——誰かの頑張りを見つける。

 画面の白さが、少しずつ温度を持ち始める。広告のコピーと違って、受け手はクライアントではない。十歳だ。彼らは、僕がうわべだけで喋れば、すぐに見抜く。

 僕は、嘘をつかずに、格好をつけずに、言葉を置けるか。


 ふと、色紙を取り出す。中央の僕は、やはり目がキラキラしすぎている。隅のほう、淡い鉛筆の文字。「図工のとき、ほめてくれてうれしかった」。思い出す。のこぎりの扱いがぎこちなかった子。直角が出ず、何度もやり直した子。作品は歪だったが、最後に「ここ、いいじゃん」と言ったとき、その子の耳が赤くなった。

 たぶん、あれで良かった。

 “正しい”より先に、“うれしい”が必要な日がある。


 メモに一行、加える。

 ——うまくいかない日を、いっしょにやり直す。

 指が止まり、背中がふっと軽くなった気がした。


 その夜、僕は珍しく夢を見た。

 黒板の前に立つ。白い粉がふわりと舞い、教室は空っぽだ。机の上に、一冊のノート。表紙には子どもの字で「きょうしつのやくそく」。開くと、最初のページにたった一行だけ。

「せんせいも、まちがえる」。

 目が覚める。静かな部屋。時計は午前二時を少し過ぎていた。

 夢に笑われたような気がして、僕は笑った。


 翌朝。

 学校の門はまだ半分閉じられている時間帯。管理員さんに会釈して、中へ入る。職員室の灯りは少なく、コピー機の待機音だけが低く鳴っている。

 黒板消しを取りに行こうとして、足を止めた。職員室の奥、掲示板の脇に新しい紙が一枚、増えている。

「四月人事 学級配置(案)」

 紙の前に、彩花が腕を組んで立っていた。

「早いですね」

 声をかけると、彼女は振り返らずに答えた。

「眠れなかったので」

 僕は紙を覗き込む。四年二組、担任 佐久間直樹。副に、山田彩花。

「――副?」

「案、ですから」

 ようやく彩花がこちらを向く。

「でも、そうなったら心強いでしょう?」

「心強い、という言葉の重さを、今知りました」

 彼女は笑った。

「じゃ、始めましょうか。学級開き、どうします?」

 どうします、の中に、僕への信頼が少しだけ混じっていた。


 職員室の窓から、朝の光が差し込む。粉塵が光の粒になる。僕は吸い込まれないように、足を少しひらいて立つ。

 教室は、僕を待ってはくれない。

 だから、僕が、教室へ会いに行く。


 黒板消しを片手に、ドアへ向かう。

 春の廊下は、まだ少し冷たい。

 その冷たさが、合図になった。



 次に待つのは、初めての職員室――そこで彼を待っているのは孤独か、それとも出会いか。

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