第16話 紅葉の祈り

 雨が降っていた。灰色の空の下、校舎の屋上にはひとり紅葉(くれは)の姿があった。

 その白い指先が虚空をなぞるたびに、風がざわめき、透明な結界が音もなく広がっていく。


「境界が……壊れかけている」

 紅葉の瞳は紅く揺れ、遠くの空を見つめていた。その眼差しの先には、現実とVRの狭間に生まれた“裂け目”が、黒く脈打ちながら広がっている。

 そこから漏れ出す影。狐面を被った異形、目のない女、獣のように歪んだ学園の教師たち——妖怪と人間の区別が、もはや意味を失いつつあった。


 彼女は静かに呟いた。

「……悠真、怜司。二人を守るためなら、私は……」


 雨が強くなり、紅葉の髪が頬に張り付く。

 彼女の背後には、小さな狐の霊たちが群れていた。橙色の光をまといながら、ひとつの意志のように紅葉を包む。

 彼女は手を合わせ、古の言葉を紡ぐ。

「——縁を結ぶ者よ、双界を渡る者よ。願わくば、愛の名において彼らを繋げ」


***


 一方、悠真は昏い教室で目を覚ました。

 机の上にはヒビの入った端末があり、そこに映る画面は、VR世界〈リンク・ノワール〉の残骸のように乱れていた。

 怜司の姿がない。

 胸の奥が焼けるように痛んだ。


「怜司……どこにいるんだ……!」


 突然、窓の外から叫び声が響く。

 グラウンドには無数の影がうごめいていた。狐面の妖怪たちが、生徒を取り囲み、現実とは思えない光景が広がっている。

 血と電子ノイズが混ざり合い、空気そのものが歪んでいた。


 その中心に、怜司が立っていた。

 黒いコートを羽織り、どこか異界の存在のように冷ややかな微笑を浮かべている。

「……やっと来たね、悠真」


 悠真の心臓が跳ねた。

 かつての優しい笑顔ではなかった。怜司の瞳は、まるで誰かに“操られている”かのように、紅く光っている。


「まさか……怜司、君が……?」

「違う。これは僕じゃない。“管理者”が……僕を通して話している」


 その声には、人間の温もりと機械の冷たさが混じっていた。

 怜司の指先が動くたび、周囲の妖怪たちが蠢き、世界のコードが軋む音が響く。


「境界が崩れたんだよ、悠真。もう現実も幻想も区別なんてない。僕たちは——ひとつの物語に閉じ込められた」


 悠真は震える手で彼の腕を掴んだ。

「だったら……俺たちで終わらせよう。この悪夢を」


 怜司の唇がわずかに震えた。ほんの一瞬、彼の中に“本来の怜司”が戻ったような気がした。


「……紅葉が言ってた。君を守るために祈るって」


 その名を聞いた瞬間、怜司の紅い瞳がかすかに揺らいだ。

 紅葉の光が、屋上から溢れるように夜空を照らし、二人の影を包み込む。

 狐たちの声が響いた。

 ——“結べ、絆を。壊れた世界を繋ぎとめるために”。


 悠真と怜司は手を取り合い、紅葉の祈りの光の中へと身を投じた。


 その瞬間、空間が弾け、時間が逆流するようにすべてが白く染まった。

 夢か現かもわからない世界の中で、悠真の耳に、紅葉の声がかすかに届いた。


「——どうか、二人で生きて」


 そして世界は、静寂に包まれた。



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