虚境アカデミア

江渡由太郎

第1話 影の始まり

 晩春の午後、放課後のチャイムが鳴り響いた後の教室は、下校した生徒たちのざわめきが微かに残っていた。


 窓の外では西日に照らされた桜の花びらがひらりひらりと舞い散り、柔らかな風に乗って舞い込んでくる。その光景は一見すればいつもと何ら変わらない当たり前の平和そのものだった。


 だが、水城悠真の心は落ち着かなかった。


 彼は席に腰を下ろしたまま、机に肘をついてノートを閉じる。授業で使ったばかりのVR演習端末――学校が誇る最新鋭の〈アストラル・システム〉が、まだ机の上に置かれていた。ヘッドギアの表面には微かな熱が残っており、先ほどの仮想空間での戦闘の余韻を告げている。


 そのVR演習は、ただのゲームではなかった。

 剣や弓、術式や魔法を駆使して異形の怪物と戦う疑似空間は、学校のカリキュラムの一環として組み込まれている。体力と戦術、思考力を養うため――と教師は説明するが、悠真はあの空間に説明できない“異物”を感じ取っていた。


(……今日も、あれを見てしまった)


 矢を放った瞬間、敵の怪物が消滅する。その裂け目の奥に、一瞬ぞっとするような“目”が覗いた。演算プログラムのバグだと考えるには、あまりにも生々しい凍てつくような冷たい視線だった。


 彼は唇を噛み気持ちを押し隠そうとした。

 クラスの誰もそんなものは見ていない。見えてしまうのは――自分だけ。


「おい、水城」


 不意に声をかけられ、悠真は顔を上げた。そこに立っていたのは、黒瀬怜司。


 スポーツ万能、学年の人気者。彼の明るさは周囲を自然と引きつける魅力があった。


「さっきのVR演習、すごかったじゃん」


 怜司は机に腰かけ、気安げに笑った。


「光の矢、的確に撃ち抜いてさ。最後のやつ、俺も見てた。水城、ああいうの得意なんだな」


 悠真は視線を逸らし、机の上の端末を指でなぞる。


「……別に。大したことないよ」


「謙遜すんなって。俺なんか、剣振り回すだけで精一杯だし」


 怜司の笑みは、茜色の夕陽に照らされてより輝いて見えた。


 悠真の胸が、微かに跳ねる。


 誰にでも優しく、軽やかに声をかける怜司。けれど――今の言葉は、まるで自分だけに向けられたように感じられる。


「……君は、すごいよ」


 思わず、呟いていた。


「え?」


「戦ってるとき、迷いがない。……僕はすぐ臆病になるけど、君は違う」


 怜司は意外そうに目を瞬かせ、それから不意に微笑んだ。


「お前、そうやって人をちゃんと見てるんだな。……なんか嬉しいよ」


 胸の奥に、熱が広がっていく。悠真は言葉を失い、頬を赤らめた。


 その時――背後の電子黒板に“影”が走った。


 その禍々しさにぞくりと背筋が凍る。


 電子黒板に映った漆黒の影は、人の形をしていた。歪な顔、裂けた口。まるで笑っているような、それでいて悪意に満ちた底なしの闇を孕んだ表情。


(また……!)


 悠真は思わず声を上げかけたが、怜司は何も気づいていない。


 影は音もなく揺らぎ、次の瞬間には霧のように消えた。


 胸を押さえ、呼吸を整える。


(……僕にしか、見えない)


 彼は幼い頃から、こうした“もの”を見てしまうことがあった。妖怪や幽霊と呼ばれる類。人には信じてもらえない世界の影。


 高校に入ってからは消えたと思っていたが、このVR演習が始まって以来、再び姿を現すようになった。


 怜司が首をかしげている。


「どうした? 顔色、悪いぞ」


「……何でもない」


 かろうじてそう答えると、怜司はしばらく見つめた後、笑って肩をすくめた。


「無理すんなよ。……なあ、今度の土曜にあるVR演習の自由対戦に出てみないか?」


「自由対戦?」


「クラスごとにチーム組んで戦うやつ。俺、水城と組んでみたいんだ」


 思いがけない言葉に、悠真の胸が跳ねる。

「……僕と?」


「ああ。お前の弓と俺の剣。相性いいと思うんだよな」


 怜司は真剣な目で言った。冗談ではない真っ直ぐなその瞳には熱がこもっていた。


 言葉が出ない。


 だが心の奥底で、何かが小さく灯るのを悠真は感じていた。




 その夜。


 自室の机で課題を片づけていた悠真は、不意に窓の外に気配を感じた。


 風がざわめく。カーテンが揺れる。


 視線を向けると――そこに“狐”がいた。


 白銀の毛並み、揺れる尾。だがその瞳は、深い紅に燃えている。


 狐はまるで笑うように口を開いた。


『――ようやく、見つけた』


 声は直接、心に響いた。


 悠真は息を呑んだ。


「……君は、誰……?」


 狐は人の姿に変わった。長い黒髪を揺らし、紅の瞳を持つ美しい少女。その背にはなお、淡く九つの尾が揺れている。


『名を紅葉という。……お前たち人と妖の狭間に立つ者よ』


 妖狐は、悠真を見据えて微笑んだ。


 その瞬間、窓の外の闇に――昼間、黒板に浮かんだ“影”がいくつも蠢くのが見えた。


(あれが……異界の存在……?)


 紅葉は静かに告げる。


『境界は崩れ始めている。お前と黒瀬怜司――その絆こそ扉を開く鍵となるだろう』


 悠真は凍りついた。


 なぜ、怜司の名を知っているのか。


 紅葉の深紅の瞳は妖艶に揺れていた。



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