雨と木犀、ラ・クンパルシタ

木月陽@書籍発売中

「ラ・クンパルシタ?」


 イヤホンをむしり取った寺田の耳元にふと声が届き、とっさに見ると黒いタートルネックの女と目が合った。白目が青みがちに澄んだ背の高いその女と目が合った瞬間、周囲の音が消えたように思えた。


「私の好きな曲だ」と女が笑んで踵を返した。それでようやく音が戻って周囲の視線が全身に突き刺さり、慌てて寺田は自分のスマホにコードの先を突っ込んだ。



 学内の図書室で読んでいた小説に、「クンパルシタ」という単語を見つけた。意味を調べたところ曲の名前だった。動画サイトで演奏動画を探して再生していたところ、机と机の間の狭い空間を押し通ろうとした他の学生がぶつかってイヤホンがスマホから外れてしまったのだった。


 大音量で図書室中に鳴り渡ってしまったタンゴの響きを思うといたたまれない。本当は勉強するつもりだったが諦めて出る事にした。自動ドアを抜けるやいなや冷たい風が吹きぬけ、十月の空気だった。


 脳裏ではまだ音楽が鳴っている。タッタッターラ、タララルーラ、トゥッタッターラ、ルララルーラ――聴いてみれば耳に覚えのある曲で、どこで聴いたかは忘れても繰り返すフレーズだけは当分頭から抜けなくなる類の音楽だ。


 音楽に引きずられるように、先程の女の事を思い出した。どこかで会ったような気もすれば、全く知らない他人のような気もする。「私の好きな曲だ」と呟いた声が低く心地良かった事や、通った鼻筋がどこか日本人離れしていた事、差し色もないほとんど黒一色の格好が不思議と華やかに見えた事を思い出した。


 まだクンパルシタは流れ続けている。

 風にふと金木犀が香ったのを感じた。


   ■◇■


 あ、と納得したのが先だったかびりりと感覚が走ったのが先だったか、どちらだったかは判然としない。最寄り近くの喫茶店でコーヒーを机に運んできた彼女と視線がぶつかり、声を漏らしたのは同時だった。


「クンパルシタの」

「クンパルシタの」


 おどけるように鸚鵡返しした彼女は、週四でバイトしてるんです、と寺田が聞きたかった事を答えた。


「良くここに来てますよね?」

「週に三回は来てるかなあ」


 どうりで、と彼女は笑った。「見覚えがある気がしたんですよね」


「僕もです」

「何年生ですか?」

「仏文科の二年です」

「あれっ、私の方が年上だ……音楽科の三年。名前、聞いても良い?」

「寺田譲です。人に譲る、の譲で。みやはら、さん?」


「そう」胸の名札に目を落とした。「宮原仁美です。仁義の仁に美しい」


 ひとみちゃーん、と店主らしき声が店の奥からした。昼時も近づきいつの間にか空席の方が少なくなっている。はーいすみません、と返すと、今後もどうぞごひいきに、と笑んで仁美は去って行った。


 宮原仁美、と覚えた名前を心の中で反復した。またクンパルシタの音色が耳朶の奥に蘇った。


   ■◇■


 仁美がクンパルシタという曲名を知ったきっかけは寺田が読んだのと同じ本だった、と次に来た時知った。


「鈴木朔の『雨の音』って短編ですよね。私はあの短編集だと『電報の夢』が一番好きです。寺田さんは?」

「まだ全部は読んでいないんですが、『星と影絵』が今の所」

「『星と影絵』! あれも大好き。気分が塞いでる時に読むとすっきりして……。他の本は読んだ事あります?」

「いや、話題だと聞いて慌てて読み始めたくらいなんでまだ全然」

「お勧めですからぜひ読んでみて下さい。『南十字』とか良いですよ」

「ありがとうございます」


 やってきた客を誘導するため仁美はテーブルから離れていった。その背を目で追い、手の中の本の表紙を撫でた。


 雨がはらはらと降っていた。

   ■◇■


 他人行儀な丁寧語もどちらからともなく崩れ始め、寺田は週四で喫茶店に来るようになった。音楽科の男子は話が通じにくい天才肌ばかりで浮いた話の一つもない、と先日ぼやいていたのに背中を押されて、そっちのシフトが終わったら食事に行かないか、と誘うとすぐに喜んでと返事が来た。


 待ち合わせたレストランのそばには金木犀が咲き誇っていた。「金木犀の匂いがトイレを思い出すからダメって言う人いるよね」の一言で胸に氷が落ちたように感じ、「私は大好きなんだけどなあ」で足はふわついた。


 講義の話や本の話で話題は尽きず、「次はもう少し早い時間に来たいね」の言葉が嬉しかった。後輩におごらすわけには、と遠慮する彼女に大丈夫だからと言って外で待っていてもらう。


 外に出ると仁美に親しげに話しかける男がいた。


「宮原さん?」


 声を掛けると男はこちらを見た。顔立ちはそれなりに精悍だったが、何か値踏みするような視線が嫌らしかった。男は馴れ馴れしく仁美の肩に手を置いてから去った。


「誰?」

「元彼。しつこくて」

「そっか」


 二人が自分に気付く直前の表情が目に焼き付いていた。

 仁美は微笑んではいなかったか。


   ■◇■


 金木犀は雨の日に一斉に散る。傘を片手に橙の小花を踏みながら最寄り駅から歩いていた時、通りの反対で黒の似合う女が精悍な顔の男に手を引かれているのを見た。


 女の、仁美の顔には何の表情も浮かんでいない。諾々とただ手を引かれている。男はただ前を見て歩いている。寺田は思わず立ちすくみ、立ちすくんだ自分が恨めしかった。


 遠くに見る先で、仁美が男の手を振り払った。何か言葉を交わしている。思いの外二人は冷静に見えた。やがて男が頷いて背を向けた。振り返る事なく彼は歩いて行った。

 残された仁美が歩いて行く。決然とした歩調で。ヒールのある靴の踵を音高く鳴らし、散った木犀を踏みながら。


 どうしてだか堪らない気持ちになって、傘で顔を隠した。

 散りゆく花が甘く香っていた。


   ■◇■


 クンパルシタの音色が頭から離れない。波のように押し寄せては下がり押し寄せては下がるあの曲が脳裏に流れ出すと、糸に引かれるように仁美の顔が浮かんで、木犀が香って、そして二つの光景が蘇った。昔の男に微笑む彼女と、手を引かれ歩く彼女。


 有利なのは間違いなく自分のはずだ。知り合って一月半。思い切ってお付き合いしてくれませんかと切り出したら、あれ、今更? と笑顔の快諾だった。あの男はきっぱり振ったんだからまとわりつかないで欲しい、と彼女も言っている。

 それでも彼に向けられていた彼女の表情を思い出すと自信もぐらつき、そして焦げ付くような感情が広がった。


 シフトの臨時変更でその他の曜日にも顔を出すと知ってから毎日喫茶店に行くようになった。視界に彼女が入らない時間がもどかしかった。楽譜も読めないのに、音楽科に入らなかった事を二年前に遡って後悔さえした。


 雨の中を女が歩いて行く。はらはらと降る薫り高い小花が傘に付く。

 それを気にせず女は歩く。

 踏み込むように、まるでダンスのステップのように。



 恋した女が歩く。足音に合わせてタンゴが聞こえる。

 沈み、跳ね、回り、止まり、ステップを踏んで。

 ああ、『ラ・クンパルシタ』。

 後に調べた。低く強い、耳に残るフレーズを繰り返すその曲は、



 ――嫉妬の曲とも、言われるらしい。


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