破片と果実

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破片と果実

 何か書かなければならないという焦燥感が私を支配し、押しつぶそうとしていた。過度に力んだ指先は震え、原稿用紙に皺をつくる。賞の締切は迫っていない。日銭を稼がなければ死ぬという危機的状況でもない。唸るように鳴く空調機は煩わしいが、夏の驚異的な暑さからも私は守られている。昨日は、朝にトーストとコーヒーを、昼は夜の残りを炒めて炒飯にし、夜は野菜炒めなどを調理し食した。今朝も快適な気温のうちに数分程度散歩をし、太陽の光を身に浴びた。夜にシャワーを欠かしたこともない。


 ただ無意味に過ごしているというには不釣り合いな、健康的な生活の上に私はある。


 しかし、私は健康的であるが、心までは健康的であるとは言い難かった。この日々が、この場所が息苦しくてたまらないのだ。社会に出た頃にはあれだけ憧れた、平和に暮らせている現状。それを良しとできないでいる。


 ただ逃げたいと思った。何もかも投げ出して、私自身さえ置き去りにして。


 時間が経ち、外の気温も上がっている。それに応じて、唸るような音は大きくなっていく。まるで私の頭の中のようだ。無駄にうるさいところがよく似ている。昔から、私には考えすぎるきらいがあった。頭の中にはいつも鬱屈とした世界が広がっている。その上、そこから逃れる方法を自らの中に探すものだから余計に悪化した。どうして私はつらいのか、こんなに無力なのか。考えても考えても堂々巡りだった。


「ああ、うるさい!!」


 気が付けば、原稿用紙が一枚犠牲となっている。ところどころ破れ、ぐちゃぐちゃになったそれはもう使い物にはならないだろう。


 そこで、新しい一枚を取ろうと立ち上がった私は、一つのものに目を奪われた。いつか買った檸檬チューハイの缶。冷蔵庫にも入れられずに床に置かれたそれに、私は思わず手を伸ばす。冷たさはない、ただなんとなく目を離せない。匂いなどするはずがないのに、頭の中に微かな酸味が走った。私は俄かにその缶を机の上に置き、ボロボロの原稿用紙の皺を伸ばす。私は流れるようにペンを手に取り、自らの中身を紙に注ぎ込んだ。紙はすぐさま真っ黒になる。それでも私の手は激流のように止まることはない。裏面をも黒く染め上げていった。


 心地よい倦怠感と達成感に包まれ、私はその紙を捨てる。この行為に意味はなかったかもしれない。だが、答えほどではないにしろ、私は私を苦しめていた何かについての気づきを得た。


 その正体は一言で言ってしまえば、誰にでもある「諦めと絶望」である。


 私には幼少期の頃から育まれた小さな夢がある。初めは大したものではなかったが、父母や社会生活というものに押さえつけられ踏みにじられた結果、反発するように大きくなっていった。仕事を辞める理由になるほど、肥大化した夢は今にも私を押し潰すような勢いで迫り、尚且つ充足した日々を与えるはずだった。


 しかし同じか、それ以上に大きくなったものがある。それこそ、絶望であり、諦めだった。「夢を追うなど馬鹿らしい、非凡になれるはずもない、身の程を知れ」―― 内側の声はそう囁いていたのだ。つまり、聞こえない振りをしていたこの声こそが日々の焦燥感の原因であった。


 ただ時間まで働き、その疲れを癒すために休日を過ごすありふれた日々を私は否定した。それでも世間と違うことをしているのが怖いという感情は捨てられなかった。


 こんなものが私の望んだものなのか、私の望んだ人生だったのか。


 その叫びとともに、私は自らというものと対峙し、仕事を辞めることで決着をつけた。だが倒したはずの私はいまだに消えずに側に佇み、普通の社会生活に戻るべきだと囁き続けている。


 では私の夢とはなんだったのだろうか。その原点こそ特別な存在になりたいと言う願いであった。画家でもいい、政治家でもいい、物書きでもいい、とにかく有名になりたいと思った。歴史に名を刻みつけたい。何も残さないまま死にたくない。その願いは歳を得るごとに不気味な形へと変化していく。悪名でもかまわない。「1人殺せば、殺人鬼だが、100万人殺せば英雄だ」そんな言葉をどこかで耳にした。それは毒のように私の中を犯し、一つの手段になり得ようとしている。なんとしても、私という存在を轟かせたい。私の理性が善に傾いている間に、私は名を残さなければならない。そうやって、自分を追い込んでいた。


 何かを造り上げろ。何よりも素晴らしく、私らしい何かを。


 数多ある選択肢の中、私は殊更、物書きへ惹かれていた。それはペンと紙さえあればできる手軽さと言う点も多いにある。だが、作家は他の何よりも自らを理解された上で名声を得られるという点が好ましい。ノーベルがノーベル賞を作ったように、私自身が理解されないままハリボテの名前だけ残るのでは味気がない。誰かに理解された上で影響を残し死にたい。ゆえに私にとって、この職業で名前を残すことがこの夢の最大値であると言えるのだ。


 エアコンのタイマーがピリリとなる音がした。頭からスッと思考の波が遠ざかっていく。壁掛けのデジタル時計によれば、もう昼時を軽くすぎたようだ。永遠のように続く思考の渦から抜け出すのに、思いの外、時間がかかったようである。しかし、それに反して気分はいつもより良かった。


 埃っぽい布団から這い出ながら、簡単に身支度へ取り組む。カーテン越しですら、強く差し込む日差しは何よりも快晴を物語っている。こういう時は、アイデアを探しに出かけるに限る。私はいつもの鞄を手に取った。馴染み深い何も入っていない重み。少しばかりの銭が入った財布を片手に、私はドアを開ける。鬱陶しいぐらいの夏の匂いが私の身体を突き抜けた。




 湿った空気と焦がすような熱が私を包み込み、既に不快感が押し寄せてくる。焼け付くような日差しに、青空はいつにも増して眩しく映った。思った通り、夏の快晴だ。


 だが私にはどうしても気に食わないものがある。大空を覆う白みがかった濁り。まるでガラス越しに見たようなその色が嫌いだった。


 PM2.5だの黄砂などが飛ぶ前はもう少し綺麗な青空が見えていた。少なくとも私が小学校ぐらいの頃はそうだったと思う。


 純粋な空が見たい。あの頃に帰りたい。


 あの頃は空だけに限らず、なんでも純粋に見えた。人を疑うことを知らず、楽しいことを楽しいと言えた。そんな私はどこにいってしまったのか。今の私の目には何もかもが曇って見えていた。むしろ、ちゃんと曇っている方が自然に見えるのかもしれない。少なくともあの空に比べれば見映えも暑さもマシに思えるに違いない。そんなことを考えながら、ともかく私は日傘を差した。澄んでいない空も私自身も顧みたくなかった。最寄り駅まではたった数分。私は何かから逃げるように歩き出した。




 駅までの道には、入り組んだ通りも学校も、ましてやコンビニすらない。気前よく話しかけてくる人もいなければ、元気な少年少女とすれ違うこともない。こういう時、私はネタになることはないかと考えながら歩くことが多い。


 だがそれができないほどに今日の暑さは特段強いものとなっていた。汗が体をつたい落ちる。皮膚が焼けつくような暑さを訴えていた。これらの感触がいつも異常に気になってどうにも頭が回らないのだ。これでは気分転換どころか逆効果である。今すぐにでも家に帰るべきだと私の身体は告げていたに違いない。


 そのとき、ふっと吹いた風が足を止めた。


 爽やかな匂いを含んだ風だった。


 頭の中にまで澄み渡るような気がした。私にはそれがどこから起因したものかすぐに見当が付いたし、慣れした親しんだものだと確信していた。


 どこかに檸檬の木があるのだ。黄色くて丸いあの檸檬の木が。暑さや鬱陶しさ、その時に感じていた悩みまで吹っ飛ばすように、頭の中が瑞々しい檸檬でいっぱいになった。それと同時に今まで止まっていた執筆への意欲が少しずつ溢れ出して止まらなかった。


 暑さで地表に出られなくなった人類がどう生きるのかというテーマはどうだろうか、哲学的な分野を挑戦してみるのもいいのかも知れない。取り留めのないことを考えては消していく作業に私は無意識のうちに没頭し、私の身体は精神を置き去りにしたようである。


 気がつくと私は駅の前にいた。




 ガタゴトと聞こえる音に少しだけ耳を傾けながら考える。私はどこに向かうべきだろうか。私には別に行く当てなどなかった。電車はどこまでも繋がっているし、私はどこまでもいける身分である。家で待つものも遠出を気にするものもいない。急ぐ必要もないゆえに私はベンチに座りながら、人の往来や物音に目を向けていた。


 漠然とどこに行こうかと考えを巡らせているうちに、私は一人のスーツ姿の男がポケットからハンカチを落としたことに気づいてしまったのだ。面倒だが、私にも善い人間でありたいという気持ちぐらいはある。軽く届けてやろうと思い私はその男に駆け寄った。


 私は少しばかり感謝されれば良いと思っていた。それ以外は何も望んでいなかったのだ。だが、彼から帰ってきたのは顰めっ面と申し訳程度の会釈のみだった。その時、私の中に熱っていたはずの何かが少しずつ燻り始めたのだ。さっきまでの高揚した気分はどこかへ消えて失せ、その穴を埋めるように鬱屈とした何かが私の中に溢れて止まらなくなる。


 彼だってこの暑さで気が立っていたのかも知れない。待ち合わせに遅れていただけかも知れない。もしくは表情に出ない人ではないだろうか。そういう自分を慰める言葉を頭の中で反芻したところで、私は私自身の黒い何かを止めることなど出来なくなっていた。私のような人間に拾われたことが不愉快だったのだろうか。働きもせず生きる私はそれほど罪深いのだろうか。私は何も考えないように切符を買った。もはやどこに行くかすらどうでも良かった、どこかに行ってしまいたかった。




 異様な眠気と強い頭痛に揺られながら、周りを見渡すと電車の中にはいくつかの人々がいた。子連れの夫婦もいたし、いかにもな格好をした会社員や、制服姿の学生もいた。そんな彼らの中に私は一人ポツンと座っている。彼らはさも当然のように座っていて、私は妙な後ろめたさから縮こまっていた。さっきから心がざわついている。どうにも気分が悪い。眩暈がする。私にとっての今日と彼らにとっての今日はどうしてこんなに違うのだろうか。電車の中で笑い合う子どもたちを見て、私はそんなことを思った。不安がずきりと心を刺す音がする。私が得たくても得られなかったものを彼らは持っていた。日常を当たり前のように過ごすこと、その惰性を許容すること。私にはそれができなかった。ゆえに私は夢に逃げるしかなかったのだ。いや逃げたのではない、選んだのだ。


 トンネルに差し掛かり音が反響する。それに呼応するように私の中で声が響く。その声はだんだん大きくなり、叫びへと変化する。私は逃げ場を求めて窓の外に目をやった。しかし、当然のように窓の外には無限の暗闇しかない。私を助けるものは何もなかった。ゆえに頭の中の思考はぐるぐると同じところを回り出し、とどまるどころか加速し始める。


 永遠かと思われる時間を止めたのは、ただの女学生の笑い声であった。それが私に向けられたものだったかはわからない。だが私は苦虫を押し潰したような顔をしていたに違いない。だから私を笑ったのかも知れない。先ほどから私の頭は既に茹で上がっている。沸々と湧き上がってくる感情が暴れ始める。これこそ怒りだ。暖かな日差しさえ鬱陶しく、目の前のすべてが憎らしい。少なくとも女学生に対してのものではない八つ当たりの感情が私を支配する。


 我慢が限界を超え、全ての音が遠くなった。気がつけば私はカバンの中からナイフを取り出していた。どこからか入り込んだその刃物は、まるで使い慣れたように手に馴染んだ。冷ややかな金属感がわからなくなるくらい強く私はそれを握りしめる。私は刃を彼女らに向けた。それを見ても彼女たちは怯むことなく笑っている。周りの全ての人たちも同じように笑っていた。まるで私など存在しないかのように笑っている。私など取るに足らない存在だと嘲笑っている。


 私は、ためらいもなく刃を突き立てた。私の手に生暖かさが伝う。


 ――この方法でしか、お前は歴史に名を刻めない。私の中でそんな囁きが響いて止まない。


 やがて、むせ返るような血の匂いが周囲を覆った。だがそんな匂いも返り血すらも、もはや気にならない。遠くに聞こえる悲鳴を聞きながら、2人、3人と同じように殺めていく。私の中の怒りが少しずつ達成感へと変わるのを感じる。あと何人殺せばこの名前は歴史に刻まれるのだろうか。それだけが重要でそれ以外はどうでもいい。


 女でも子どもでも会社員でも関係ない。数をこなせば届くのだ。


 吐き気を催すような血の匂いも気にならないほどに私は万能感に酔いしれる。


 そして私はこう思った、最初からこうすれば良かったのだと。頭の中で、電車の停止音が響く。まるで世界の終わりのような大きな音が耳に残った。




 甘い柑橘の匂いに包まれて、私は目を覚ました。そこは終点だった。返り血も血飛沫も、悲しむ人々の姿も、何一つなかった。辺りを見渡す私に駅員さんは心配そうに「大丈夫ですか、立てますか」と声をかけてくれた。実際かなり汗をかいていたし、顔色も多分良くなかっただろう。


 しかし、大丈夫と言って私はそそくさと車内からでる。真面目に働く彼らの迷惑になるのは避けたいと思った。歩いて改札口まで足を運ぶ傍ら、私はさっきまで見ていた夢について思いを巡らせていた。夢の中で見た光景は所詮夢の中で見た光景でしかない。その事実に少し安心する。ぼんやりとしか思い出せはしないが、あれも私にとっての一つの願いの形でありゴールなのだろう。実際、気に入らないものを壊したいと考えることは多い。だが私の天秤はいまだに善性を示している。夢と現実の境が曖昧になりつつある私でも、その一線だけは越えてはいけない。


 ふらつく足取りでなんとか改札を抜けていく。喉が強く渇いていた。何か飲むべきだ。そう思い隣接されているカフェへ足を向ける。


「アイスコーヒーのMサイズを一つ」


「他にご注文はよろしかったでしょうか」


 こんな定型文でさえ、今の私には貴重なコミュニケーションである。社会性を求められる場は、もはやこうしたやりとりにしか残っていない。


「どうぞごゆっくりお過ごしください」


 私は会釈しながらコーヒーを受け取り、それを口に含んだ。ほろ苦さとともに少し眠気が飛んだ気がする。


 やはり寝起きにはコーヒーが一番良い。今となっては嗜む程度だが、社会人時代には手放すことがなかった。これを飲んで働いているというだけでまわりに溶け込めているような気さえしたからだ。あの頃、別に働くこと自体を苦痛に思うことはなかった。同僚が嫌いなわけでもなかった。皆気のいい人たちだった。飲み会だってある程度、参加していた。


 グラスの中の氷がカランとなる。その音は私に同僚との一幕を思い出させるのに十分響いた。


 酒の匂いが町の華やかさと混じり合うようないい夜だった。私たちは付き合いとはいえ、気持ちよく酒と雰囲気に酔っていた。その日はお偉方も来るような日だったが、畏まったものではなく、お世辞と社交辞令が飛び交いながらも、お互いに精一杯楽しませようと感じられる思いやりに溢れた夜でもあった。私はこの会社のそんなところが好きで、その時は辞めるなどとは微塵にも考えなかった。


 急に、ふっと冷たい風が吹いたのを覚えている。冬の寒さのような冷たい風だった。


 カランとグラスを鳴らしながら彼は語った。「俺、この会社好きなんすよ。このまま結婚して子どもつくって骨埋めたいっす」その一言には打算めいた匂いがした。ゆえに、私より一回り年下の後輩が、役職の高い人たちの前で話したことなど真に受けなくてよかった。だが私はその言葉を聞いてこわばった笑みを浮かべることしかできなくなった。背筋が凍る。居場所を失ったように、体が小刻みに震えていた。 彼らの楽しそうな輪から急に投げ出され、途端に自分が作り笑いでも笑えているか不安になった。手にした酒の味もわからない。このまま老いて、何も為すことなく死んでいく。その想像が現実感をもって私の中に染み込んでいく。何より怖かったのは、その不安を分かち合う相手が自分以外に見当たらなかったことだ。 あの日はそれでもいいと酒で流し込めたが、私は結局そんな結末に納得できなかった。


 そんな記憶が、今の私の手元にある薄いはずのコーヒーの味を少しだけ苦くさせた。 既に氷は解けてしまっている。コーヒーを飲む傍ら、私は夢をヒントに自らについて一つの仮説を立てていた。


 周りに合わせて生きることが苦しい。


 できないからこそ、特別でありたいと願っている。


 ――それこそが、自分の本質ではないだろうか。


 では私の本当の願いとはなんなのか。


 それならば普通になりたいが正しいと言えよう。そう考えた瞬間、私はそんなわけがないと心の中で叫んだ。


 私は彼らに憧れたのだ。


 夏目漱石。芥川龍之介。太宰治。


 ――そして何より、梶井基次郎の『檸檬』に。


 鬱屈とした雰囲気と裏腹な爽快感のあるオチ。


 読めば読むほど深みのある文章に惚れ惚れとしたあの日を忘れたことはない。


 何よりも檸檬というのが良かった。


 あの黄色の果実には匂いだけでない強く惹かれるものがあったのだ。


 また苦悩や人生観を芸術に昇華するそのやり方にも惚れ惚れした。


 彼らのようにそれができれば、私の望みはきっと叶うはずである。


 では彼らのようになりたければどうすれば良いのか。少し考えてみた。だが、考えてわかるのなら誰もが文豪になっているはずだ。そう思い馬鹿らしくて考えることすらしなかった。第一、私の頭の中に答えが眠っていてほしくもない。多分足りないのはインスピレーションや情報に違いない。もっとあらゆる何かに触れるべきなのだ。そうと決まれば、あの場所にいくしかない。私は少量残していたコーヒーを飲み干し、この場を後にした。




 様々な物をみるならばここしかないだろう。機能性と芸術性、高級品と日用品、二つの相反したものが集まる場所こそ百貨店である。私は様々な物を当てもなく見るのが好きだが、その中でも工具やものづくりの道具を見るのがとても好きであった。金槌や木槌を使う職人に想いを馳せ、布やおしゃれなボタンなどをみては鞄のどこかしらに縫いつけてはどうだろうかなどと考える。無駄に装飾の多い貯金箱を見てはそれを使う人間の部屋を妄想してみるなど面白いこと限りがない。


 例えば、あの愉快なアヒルのぬいぐるみなどは私の友人にきっと似合うだろう。滑らかなアヒルの首をさすりながらそう思った。彼女は可愛らしいものが好みだという。ならば、この愛嬌のあるボディはまさにうってつけと言えよう。彼女は日々、この首に抱きつきながら眠るに違いない。そうして、ストレスなどが溜まるとこのモチモチの腹に顔を埋めるのだ。


 この盆栽などは隣の阿呆にでもくれてやれば面白い。美味い実が育つと嘯けば、一生懸命育てるに違いあるまい。やつの部屋は汚れていて物など送る価値もないが、庭だけは広いのだ。昔、やつは庭の百日紅の木に実がなるのはいつかと聞いてきたことがあった。実はなるが食えるものではないと言った時のやつの顔などまさに見ものだった。


 そのような愉快な想像を繰り返していると、私はついに運命的な出会いを果たすことになる。それはかの有名な南京玉であった。ガラス製の小さなものがひそかに煌めいているのを私は見逃さなかった。私はその袋を一つ手に取って眺めた。これを檸檬の主人公は舐めるのが好きで幽かな涼しい味がすると語った。私もその気持ちを少しでもいいから味わいたいものだと思っていたのだ。一度意識するといてもたってもいられなくなった。


 一体どうしてやろうか、一思いに舐めてみようか、口の中で転がしてみようか。


 私は、はやる気持ちを押さえつけてそれをレジへと運んだ。 今どき南京玉でここまで心を躍らせる男など、私以外にいないだろう。だが私には、それが金貨よりも眩しく見えたのだ。




 百貨店を出た私は足早に帰路についた。南京玉を早く舐めてみたかったからである。流石に街中や電車の中で舐めるわけにはいかないが、帰り道程度なら人通りも少ない。ゆえに私は最寄りの駅に着いた瞬間に袋を破った。一つ手に取る。少しひんやりとした手触りが心地よい。ひとしきり触って満足した後、私はそれを口に含んだ。


 幽かで涼しく爽やかな味はしなかった。しかし、不思議と懐かしく温かい味がした。そのまま南京玉を舐めていると、なぜか私はふと頭に父と母のことがよぎった。少しずつ思い出されていく記憶に、私はゆっくりと浸っていく。


 彼らは私に厳しかった。勉強を強いるだけでなく、働き口まで彼らが用意していた。私は今までやりたいということを口にしたことさえない。何不自由ない暮らしは与えられていた。だが敷かれたレールを走ることを強いられていた。一概に良い親とは言えなかったかもしれない。


 南京玉の温かさはそんな私にも良い思い出があったことを思い出させた。6つばかりになる頃、私はどうしても車のおもちゃが欲しくなった。それは小さく後ろに引いても走りなどしないが、それなりに精巧に作られていて、私の琴線に触れたのだ。今では車種すら思い出せない。そんな赤い車に夢中になり、らしくもなく私は一日中、父に買ってほしいと頼み込んだのだ。初めは難色を示していた父と母が、私を連れて玩具屋さんに連れて行ってくれた。


 こんな大事なことをどうして忘れてしまっていたのだろう。


 あのときの冷たい手触り。やがて一日中握りしめて温かくなった車。


 ――それを思い出した途端、頬が濡れていた。


 私は宝物のように残りの南京玉を鞄にしまいこむ。


「なんだ、くぐもってなんか、ないじゃないか」その日の夕焼けは昔のように赤く美しく見えた気がした。




 家に帰るなり、私は家中をひっくり返すように、あの赤い車を探した。まさか監獄のようにさえ見えていたこの部屋が宝島だったとは夢にも思うまい。私はまるであの頃に戻ったように必死だった。齧り付くようにCMやおもちゃさんを眺めたあの純粋さが私に戻ってきた。疲れも埃っぽい匂いも気にならなかった。


 小一時間ほど探した後、私はついにそれを見つけた。薄汚れた箱に私の名前が刻まれている。軽く埃を払い中から慎重に車を取り出した。日差しが軽く私の部屋を照らす。塗装は剥がれ、燻んでしまっていたが、私の車だった。何よりも大事な思い出はここにあった。


 その金属ゆえの冷たさと、それがゆっくりと人肌で温まっていく過程に浸る。あの時のように、前後に押しては引いてを繰り返す。錆からくる軋んだ音が私にとっては力強いエンジン音に聞こえた。今、この世界には私と赤い車しかない。それは私の思い出を駆け巡り、今を超え、見たこともない美しい世界へと私を誘った。この車は幼少期の私だけでなく、今の私さえ連れてどこまでも走ったのだ。


 私はひとしきり楽しんだ後、どうして自分が偉大になりたかったかがやっとわかった。何よりも、この車に似合う男になりたかったのだ。父と母が買ってくれたこの何よりも大切な宝物に、見合うような人間になりたかったのだ。もうすぐ日が落ちる。だが、夕焼けの光はまだ部屋の端を照らしていた。




 その日の夜更けのことである。私は徐に起きあがり、クローゼットを開く。誰にも真似できない画期的なアイデアを思いついた。私は嬉々として、仕事着のスーツに手を伸ばし、身にまとう。ネクタイまでビシッと閉めた。


 しかし、鏡に映る私はまるで他人のようだ。


「馬子にも衣装」ーーー何故かそう思った。


 着なれたスーツのはずなのに、その姿がおかしくてたまらない。


 スーツを脱ぎ捨て、近くにあったナイフに手を伸ばす。冷ややかな金属の肌触りと手首の微かな震え。もう止まることはできない。


 こぎみのよいビリリという音が部屋に響いた。


 スラックスから順に引き裂いては重ねていく。布切れは薄い層となり、やがて小さな山になっていった。


 そこへ、ばら撒くように、それでいて丁寧に南京玉を飾りつけていく。その滑らかな感触に私は温かさを想起した。


「何か足りない気がする」


 そう呟きながら、鞄の中に手を伸ばすと、美しい色と香りの檸檬があった。


 ざらざらとした手触りとたちのぼる香り。


「これが欲しかった」


 私は山の上に檸檬を構え、ゆっくりと果汁を絞った。私の指先に果汁の冷たさが伝う。


 山からほんの一滴ほどの血の匂いがした。


 だがそれを掻き消すように、爽やかな匂いが全てを覆い尽くしていく。まるでこの部屋の絶望を振り払うように。


 私は満足気に、檸檬を山の頂へと飾る。


 その瞬間、悟った。


 ― ―私は芸術に生きる者となったのだ。


 柑橘系の匂いに紛れ、私の熱が微かに漂っている。

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