いくら丼まいっ❣ ~もやしをくわえるばかりだった日々に出会った煌めき~
月日音
第19ら話 「いくら丼まいっ❣」解散!? すじこもバラせば、いくらだよ。
いくらが頭の中で
もちろん実際に爆発したわけではないし、頭の中でいくらが育っちゃう奇病にかかっているわけでもない。
けれども、
なのに、目の前の能天気は嬉々として語り続けている。
「かき
絶対にかき揚げであるはずがない。
かきわけって言葉あたりで
けれど、かきわけにしたって間違えであり、先駆けや草分けとでも言うべきところだろう。もはや井蔵の頭に草が生えているようにすら思えるバカらしさを感じてしまい、爆発に加えてふつふつとした笑いまで御石を襲ってきている。
――なんで、こんな場所にいるんだろ、あたし。
御石が今いるのは「秋鮭おいしいもの祭り」運営事務局となっている秋鮭市の公民館だ。二階に用意された控え室で、祭りのイベントステージに上がる出番を待っている。
というのも、「いくら丼まいっ❣」に祭りへの出演依頼が来たからだ。まだ活動実績なんてほとんどないはずなのに、井蔵の配信動画が広まったせいなのか、声がかけられたのだ。祭りの五日前に話が来たことからすると、予定していた出演者から直前になってキャンセルが入ったのかもしれない。
いずれにしても、「いくら丼まいっ❣」でギターと作詞を担当している御石も巻き込まれ、こうして祭りへ出ることとなってしまった。今日は街で買い物をする予定だったにもかかわらず。
「まさかのかき揚げって呼ばれちゃうのか~でも、なんだか、おいしそうだよね。私、おなかが空いてきちゃったよ。ねっ、二人もおなか空いてこない?」
「おぅ、かき揚げ丼はうめぇからな」
草原でも頭に生えてそうな井蔵の言葉に軽口で返事をしたのは
丼モノ屋の看板娘だけあって、しれっと何事でもないかのようにかき揚げを丼モノにしてしまっている。天丼と話すといつの間にか丼モノの話になってしまうのはいつものことだ。名前を呼ぶだけで丼モノなのだから仕方ない。
井蔵と御石の二人に、この天丼を加えた三人で今日のステージに立つこととなっている。これまでもこの三人だったように、これからもこの三人なのだろう。メンバーとしてはもう一人、作曲担当など裏方で動く
「コメヨちゃんはどう? まだ時間あるし、何か、ちょっと食べに行くのも――」
「くふっ、そうね……もう限界よ! こんなのに付き合ってられない」
控え室と言っても個室を用意してもらえるはずもなく、会議室のような場所であり、他の出演者やスタッフたちの目もある。なので、御石は頭の中の爆発をどうでも良いような思考でごまかし、どうにか自分の中でおさめようとしていた。
しかし、井蔵の何も分かっていないような問いかけが全てを吹き飛ばした。
「へ、どうしたの?」
「あんた、覚えてる? あたしを誘った時のこと。グループ組んで音楽をするにはどうしても作詞が必要だからって、詞を書いてくれるだけでもいいからって、そう言ったでしょ?」
「え、あ、うん」
「でも、あんたがエアギターだからあたしがギターやることになって――それがなんでアイドルなの? しかも、丼モノ系アイドルって何? あんたが誘ったのはガールズバンドじゃなかったの?」
気づけば、まくし立てていた。いくらをプチっとかみ潰す音まで響きそうなほど張りつめた空気が広がっていく。
「えっと、歌って、踊って、あれだよ? 楽器もやって、そういうので私は伝えたいの、いくら丼の――」
「あんたのやってるのは楽器じゃなくてエアギターでしょ?」
井蔵は「いくら丼まいっ❣」のエアギターボーカル担当だ。歌いながらエアギターで踊る。それなら、歌うだけでいいじゃないかと御石は思うのだが、井蔵の感覚では違うようなのだ。
「あの、もしかして、コメヨちゃんもエアギターやりたかった? なら、私と一緒にエアろうよ」
「……どうして、あんたはエアギターがいいと思えるの?」
「え、えっと、エアギターはエアーで気持ちを伝えられるから。いくらでも自由に私の感じた煌めきをエアーにぶつけちゃえるから、かな」
エアギターはギターの下には位置しない、エアギターだからこそ表現できることがある、などと井蔵は本気で思っていそうだ。
「私たちをね、エアーはいつも包み込んでくれてる。だから、全てエアーにゆだねる感覚で、思うままにエアればいいって思うんだよ」
「もういい……あんたのいくら丼には、あたしの居場所なんかないって分かった」
話にならないと思った。御石は立ち上がり、控え室を出ることにした。けれど、腕を井蔵に「待って」とつかまれた。
「あたしがいなくたって続けられるでしょ? 今まであたしが作った歌詞は全部あんたにあげるから好きにすればいい。ギターだって元はいなかったんだし、どうにかなるでしょ。だから、手、離して」
「無理。無理だよ、コメヨちゃん無しじゃ、お米がないんだよ」
「ふっ、まぁ無理なら解散ね……今日はちゃんと出てあげるから、これであたしを巻き込むのは最後にして」
御石は腕を振り払って、今度こそ控え室を出た。どこへ行くか迷ったが、とりあえず公民館の三階に上がってみる。階ごとの地図によると待合室があるようだ。
待合室には祭りの最中だからなのか人はいなかった。電気も消えていたけれど、人感センサーがあったらしく勝手に点灯した。クッション素材の長椅子などが置かれている。
誰かに見つかれば怒られてしまうかもしれないが、その時はその時だと考え、しばらく時間を潰させてもらうことにした。
――まだ出番まで一時間半はあったはず……何やってんだろ、あたし。
自分でも何をそんなに怒っているのか分からなかった。丼モノ系アイドル扱いされたのを嬉しそうに井蔵が話しているのを許せないと御石は感じた。その許せない気持ちを起点に普段から感じている不満が溢れてきた。
何がそんなに許せなかったのか、思い返してみようとした。
正直よく分からない。
気に入らないことはいくらでもあった。井蔵の無茶苦茶さ、無遠慮さ、無謀さ――井蔵の何もかもが気に入らなかった。むしろ何もかも気に入らなかったはずなのに、なんで一緒に音楽をやれているのか不思議なくらいだ。
けれど、と思う。いつも井蔵に対して
「よぉ、オイシ。やっと見つけたぜ」
声を聴いただけで誰なのかは分かる。そばかすの散った顔に穏やかな微笑みを浮かべているはずだ。
「見つかっちゃったか、スキダ」
「いきなり告白されてもな、オレはもちろんスキダなんだが」
「そういうの
御石の隣に好田天丼は座ってきた。井蔵がついてきている様子はなく、彼女だけだ。
天丼とは幼馴染だ。昔からかくれんぼでも御石をすぐに見つける彼女なら、きっと現れるような気がしていた。
なんとなく御石は天丼の赤い髪の毛を指で
「さっき何も口出ししなかった癖に、説得しに来たの?」
「説得、とは違うつもりだが、オレの伝えられることを伝えに来た」
天丼は赤髪に
「イクラの奴、もやしをくわえて難しい顔してるぜ」
「もやし?」
「あぁ、
そういえば、と思う。
井蔵がもやしをくわえているのを見たことがある。なんでそんなのをくわえているのか聞こうとしたけれど、声をかけても無反応で、なんとなく後からは尋ねられなかった。
「さすがにキツかったのかもな、お前の……あれは何に怒ってたんだ?」
「……さぁね。あいつがかき揚げだなんだって喜んでるのを見てたら無性に腹が立ってきたの。元から気に入らないことはたくさんあったし」
天丼は「ふーん、そうか」と返し、何か考えているように上を見上げてしまう。
御石自身でも分からないのに、天丼が考えたところで分かりっこないだろう。
「にしても、もやしをくわえて、ね。あいつってほんと変なの……どうかしてるよ、ふふっ」
天丼が黙っているので、さっき聞いた井蔵の様子を思い浮かべてしまった。
井蔵の見た目はいたって普通なのだ。特徴がないのが特徴と言ってもいいくらいだろう。よく見れば、髪のぼさつきや服装のだらしなさが見受けられるものの、パッと見た印象で残るほどではない。なのに、何をしているのか注目し続けると、どうも変な行動をしていることが時折ある。その最たるものがもやしをくわえることだ。
――あいつはいったい何を考えてるんだろ?
「どうかしてるで思い出したが、イクラのいくら丼に対する愛は相当なものみたいだ」
「あーまぁ、グループ名にするくらいだもんね」
「いや、それはそうなんだが、想像以上だったんだ。あいつの勉強に付き合った時のことなんだがな、何か教科書を読んでぶつぶつ言ってたんだ」
井蔵ならば、何かよく分からないことを言うのは全く不思議ではない気がする。
「何を言ってるのか、よく聞いてみるとな。いくらが一粒、いくらが二粒って、言ってるんだ。どういうことかと思うだろ? どうやらな、教科書に載ってる句点をいくらに見立てて数えてたんだ」
「は? え、さすがにイクラでも……いや、イクラならありうる?」
丸いということ以外にいくらと句点の共通点なんてないだろう。
「句点を指さしながら、ふへへ、おいしそうって言ってたし、間違いないはずだ。勉強でよほど疲れてたっていうのもあるんだろうが、さすがに驚いた」
「そりゃ、驚くよ……」
どうかしてる。あまりにもどうかしてる。そんなことする人なんて他にいるだろうか。
「しかも、イクラって苗字なんだから……テンちゃんが天丼一杯、天丼二杯って数えるようなものでもあるんでしょ?」
「あぁ、そう言われると……そうだな、店で注文が重なれば、言いたくなってしまうこともあるからな……意外と普通なのか……いや、そうじゃない。それでな、思うんだが、『世の中にいくら丼の煌めきを伝えたい』っていうアイツの目的って、オレたちが想像する以上に本気なんじゃないか?」
歌って踊って、煌めきを伝えたい、そんな井蔵の願いを叶えるため「いくら丼まいっ❣」は結成されている。そんなことは最初から聞かされていて分かっていたけれど、どこまで本気かは分かっていなかったようだ。
いくら丼にそんなにも特別な何かを井蔵は見ているのだろうか。
――イクラの目の前であたしがいくら丼をわしづかみにして手でぐちゃっと潰したなら、あいつはどんな表情をするだろう。そう、もしも、いくら丼を潰した手を舐めるように勧めたなら舐めるんだろうか?
「話は戻るんだが――」
「え、うん、何?」
なぜか想像してしまった変な考えを打ち消すように、御石は
「イクラの語ってた丼モノ系アイドルのかき揚げっていうのと、オイシがこだわっていたガールズバンドっていうのについてなんだが……」
「べ、別にそんな、それほど、こだわってるわけじゃないけど?」
「あぁ、そうか、こだわってなかったのか。それなら、たぶん、あいつも同じだ。あいつにとってみれば、アイドルだろうとガールズバンドだろうと、どうでもいいんじゃないか?」
どうでもいいなんてあるはずないだろう。アイドルか、ガールズバンドかでは、周りからどう見られるか、扱われるかがかなり違うように思う。音楽をやっていて、それを気にしない人間なんているのだろうか。
「あいつにとっては、自分が誰にどう思われるかなんて、いくら丼の煌めきを伝える目的に比べれば、どうだっていいんじゃないか、って思うんだ」
「どうだっていい……?」
「あぁ、アイドル扱いでもガールズバンド扱いでも、賑やかしや数合わせであってもかまわないんだろうさ。あいつの言葉によれば、あいつは『いくら丼を食べて感じた煌めきを伝えたい』って目的でやってるんだから」
煌めきを伝えられれば、自分がどんな風に見られようとかまわない。つまり、目的のためなら手段を問わないというのと似たような考えだろうか。
「何、それ……」
通りで話が合わなかったはずだ。御石が気にしていることを井蔵は全く意に介してなかったというわけだ。気付いてないというよりは感覚がないということなのだろう。
確かに、井蔵は「いくら丼の煌めきを伝えたい」と言い続けていたし、それ以外の目的を聞いた覚えがない。
考えてみれば、ガールズバンドかアイドルか、なんて他人が勝手に分類してくるようなもので確かにどうでもいいのかもしれない。きっと大事なのは、何をやりたいか、何を表現したいかを曲げないことなのだ。
「気に入らない……」
納得はできたものの、何か悔しさのようなものがまだ御石には残っていた。
言うなれば、いくらとキャビアだ。
これから食べるのが、いくらかキャビアか、でこだわっていたのに、「そもそもどっちも魚卵なんだからどっちでもいいでしょ」って勝手に何を食べるか決められた上に、「実はどちらもロシア語だとイクラだから違いを気にする感覚自体がなかった」と教えられたような気分だ。そして、おいしく食べるという目的さえ満たせるなら、こだわるだけバカバカしいと納得してしまったような、そんな悔しさだ。
「気に入らないか?」
「あ、いや……うん、気に入らない。ごめん」
御石の目をまっすぐに見つめてきた天丼に
「謝らなくていい。どう思うかはオイシの自由だ。さっきも言ったが、説得に来たわけじゃないんだ。伝えた方がいいと思えたことを伝えただけだ。どうするかはお前が、いや、お前とあいつが決めればいい」
「……うん、ありがと」
「お前が『いくら丼まいっ❣』をやめようと続けようと、オレたちが幼馴染で友達なのは何も変わらない。そんなものでダメになるような――」
「そんなものでって言うのは、イクラにもあたしにも失礼じゃない?」
天丼の言ってくれそうなことが分かってしまったので、御石は途中で言葉を遮った。今ここでその先の言葉を聞いたら心にきっと突き刺さってしまうだろう。
「あぁ、その通りだな。すまん。でも、オレにとって大事なのは、『いくら丼まいっ❣』そのものじゃないんだ。そこにいる、あいつイクラとお前オイシだ。お前たちとどんな時間を過ごせるかが大事だと思ってる。だから、たとえ今日で解散になるのだとしても、それはそれだ」
「くっ……もう分かったよ。テンちゃん、控え室戻ろう。そろそろ準備もした方がいいでしょ?」
ステージに上がる前にお手洗いへ寄っておかないといけない。
今日ほどオシャレするのに相応しい機会なんてそんなにはないので少しは気合を入れてきたのだ。後から写真や何かを見て、折角キメてきたメイクが崩れちゃっていたら悲しい。
こういうところ、メイクに無関心な天丼は全く分かってないから少し困る。
控え室に戻ると、今度は井蔵がいなくなっていた。どこへ行ったのか天丼と待っていたが、帰ってきたのはギリギリだった。しかも、今朝に御石が井蔵にしてあげていたメイクがひどく崩れていたので、最初からやり直しになってしまい、時間もなかったので本当に軽くしかメイクをしてあげられなかった。
「さっきは、無理なら解散とか、その前の色々とか言い過ぎた。イクラ、ごめん」
「コメヨちゃん、その、あの……今日が終わっても一緒に続けてくれる?」
いよいよ出番が次まで迫っているステージ裏でようやく井蔵に謝れた。
ドタバタして、メイクの時にも井蔵がステージでのことを相談してくるので、それどころじゃなかった。
「それとこれとは話が別。だけど、まずはステージね。練習の成果をちゃんと出せたら、続けてあげるって約束するよ」
「えっと……うぅ、コメヨちゃん、絶対に約束だからね」
安易な約束をしたと、いずれ後悔しそうな気がした。それでも、今はこれでいいのだと、そんな風に思えてしまった。
❣❣❣
「秋鮭おいしいもの祭り」での『いくら丼まいっ❣』のステージは順調に進んだ。
二曲目の『いくらにハートをぶっさせ❣❣❣』を歌い終えたところだ。
練習の時よりうまく演奏できたように思えちゃうのは気分が高揚しているせいかもしれない。たぶん、井蔵の歌や振る舞いや言葉に気持ちが引っ張られているのだ。
――パッと見だと全く目立つような奴じゃないのに、ほんとどこまであたしを巻き込むつもりなんだろう。
今日のステージで『いくら丼まいっ❣』が歌うのは三曲であり、残り一曲だ。
最後の曲の前に、観客とのコール&レスポンスを井蔵が始めた。コール&レスポンスとは、演奏者が呼びかけの言葉を口にして、観客が応じる言葉を返す、ライブなどでよくある演奏者と観客のちょっとしたやり取りのことだ。
感覚としては、合言葉で「山」に対して「川」と返すようなのと近い。違いといえば、そのやり取りを秘密の暗号としてではなく、大声での交流として利用するかどうかだ。
複数人の出演者がいるようなステージライブではそんなにやらないと思うが、祭りの主催者に許可を貰ったのだろう。
『いくら丼まいっ❣』の場合は、井蔵が配信する中で自然発生した「いくら!」の呼びかけに対して観客が「どん!」を返すやりとりがある。
「いくらー?」「「どん!」」「まいまいっ、ありがと、もう一回いくよぉ」
「いくらー!」「「どんっ!」」「まいまいっ、ありがと、次がらすとぉ」
「いっくっらー!」「「どんっ!」」
「まいまいっ、ありがとぉ」
観客の声、「どん!」に合わせて天丼がドラムを鳴らした。
いくらと観客、そして天丼のやり取り、これが終われば残すは三曲目のみだ。
「もう一つ、次の、コール&レスポンスもいっけっる~?」
それは聞いていない。思わず井蔵の方を見ると、こちらに向けて何やらうなずいたように思えた。
「じゃ、いくからね~!」
「お米は~?」「「おいしー!」」
「おぉ、いい感じだね。ありがとう。あと二回するからねぇ。準備はい~い?」
また井蔵がこちらを見てきた。天丼の方を見ると何も知らないとでもいうように両方の手のひらを天へとあげるようなジェスチャーをしてきた。
――全く、イクラめ、なんてことを。
「お米は~!」「「おいしー!!」」
御石はギターの弦をはじく、軽い返事をするように。
「うんうん、次がラストだよぉ」
明らかに御石と呼ぶレスポンスなのだ。なら、そのレスポンスに天丼がドラムで答えたように答えないわけにはいかない。
「お・こ・め・は~!」「「おいしー!!」」
再びギターを
「みんなありがと~! 次の曲が最後です。『ドンマイ、どんまい、いくら丼まいっ!』」
天丼がドラムでリズムを刻み始める。
御石もギターで天丼のリズムへ乗っていく。
井蔵の方を見るとうなずいて「い・く・よ」とでもいうように口を動かすのが見えた。
❣❣❣
ステージを終えてしばらくしてから、御石が公民館のお手洗いへ向かうと聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「えぇ、そろそろ土井クランを動かし始めようと思いまして。きっとイクラを潰すには良い頃合いでしょうから」
その声が誰によるものか確認すると、想像通りの人物だった。
土井紫、『いくら丼まいっ❣』の最後の一人――表舞台に立たず、何をしているのかよく分からない奴だ。
「あら、あなたでしたか。聞かれてしまいましたかね」
微笑みを浮かべ、近づいてくる。長い髪を一度だけ手ですくように振り払いながら。
「来てたんだ?」
「えぇ、当然ですよ。表に出ないとはいえ、私、紫はマネージャーも担当しておりますので」
紫は陰のソイソースとして作曲を担当する他、マネージャーやスポンサーにもなっている。聞くところによると、大手醬油メーカーである土井醤油の跡取り娘らしい。
「お疲れ様です、オイシコメヨさん」
「えぇ、とっても疲れたの、ドイムラサキさん」
気のせいじゃなければ、先ほど「イクラを潰す」などと言っていたように思う。しかし、この様子だと尋ねても変な挑発を受けるだけだろう。
「オイシさんは『いくら丼まいっ❣』から抜けるのでしたっけ。残念なことですが、代わりの人は私の方でもご用意できますので気兼ねなさらないでね」
「なんで、知って……や、うん、そう思った時もあったんだけどね、イクラに止められちゃったんだよ。あたしの代わりはいないみたいなことも言われちゃったし、続けることにしたよ。ドイさんのお節介はほんとありがたいんだけれどね」
御石も相手に負けるものかと満面の笑みを浮かべた。今回のことは、井蔵の言葉、「いくら丼の煌めきを伝えたい」っていうのを信じ切れず、勝手な理想を押し付けてしまったせいで起こったことだと思っている。
けれど、井蔵にも、こんな風に思っていることは知られたくない。ましてや土井に少しでも知られるのは絶対に嫌だ。
「はぁ、そうですか。あなたが鮭の稚魚のように流されやすい人で良かったです。イクライルカも喜ぶことでしょう」
「はは、ちゃんと帰るところは覚えてるからね。じゃ、あたしはこれで」
これ以上に喋って変な弱みを握られるなどは避けたい。
けれど、すれ違おうとした時、土井が喋り始めた。
「私たち、『いくら丼まいっ❣』は、まだ自分が何者か分かってません。丼モノ系アイドルと思われたり、ガールズバンドと思われたりするかも。でも、何者であろうと今日こうして皆さんとお会いできる機会にたどり着け、とても嬉しいです。『いくら丼まいっ❣』でいくら丼の煌めきを感じて頂きたいです。よろしくお願いします」
井蔵が今日のステージで観客に向けて話した言葉だ。たぶん一言一句が同じだし、語り口調や間の取り方もほぼ同じだろう。
まだステージに慣れておらず、もっと失敗するかと思ったのだが、この井蔵の言葉が御石の緊張をほぐし、演奏に集中させてくれたようにも思えた。
「どこが、イクライルカの言葉で、どこがあなたの言葉なんです?」
「さぁねぇ、ドタバタしてる時に話してたから」
「そうですか。まぁいいでしょう」
「じゃ、そういうことだから」
紫は井蔵にはもう会ったのだろうか、それともこれから会うのだろうか。
ふとそんな疑問が頭をよぎった。
御石ではなく、井蔵に尋ねればいいのに、と思ったためだ。
「くれぐれも無理をなさらぬよう、鮭の
「せいぜい頑張ってみるよ。ありがと」
「心より応援しておりますわ」
最後に一段と明るい笑顔を向けてくる紫だった。
井蔵からは幼馴染で優しい友達だと聞いているけれど、紫のそんな様子を少しも見たことがない。かといって、全くの絶縁などになっている様子でもない。
――どっちにしても、イクラとドイ、二人の問題だよね。
ケンカなどが『いくら丼まいっ❣』の仲間内で起こったならば、御石も振り回されるのだろうけれど、今日まさしく振り回す側となってしまった身としては何も言えない。「なるようになる。それはそれだ」と天丼ならば言いそうな気がする。
かき揚げ丼もいいけれど、やっぱり今はいくら丼が食べたい気分だ。
いくら丼まいっ❣ ~もやしをくわえるばかりだった日々に出会った煌めき~ 月日音 @tsukihioto
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