枯枝くんちの奇日常
@yanyan1
第1話
暗く、冷たい空間。彼女に齎されている重力圏の方向も定まらぬ中、佐野 清美(きよみ)は自身の頬に触れる濡れた感触を切っ掛けに覚醒した。
現状、彼女の周囲を構成してるのはほんのりとした、恐らくこの区画内に置かれているのであろう家具の輪郭を浮き彫りにする闇があるだけである。その為、良く凝らしてみなければ自分が瞼を閉じているのか開けているのかさえも判別できない程の朧さがそこにはあった。
そんな中でも、佐野は自身が、何かが波打つほどに薄く満たされているコンクリートの上でうつ伏せになっている事に気が付く。これに伴い、次第に彼女の掌、腹部、膝小僧のそれぞれに、固い床との接点を認識した。
「……何処、ここ」
未だまどろみの残る脳内で記憶を手繰り寄せようと試みるが、明確な答えは返ってこない。むしろ、それを取り払おうとすればする程に彼女の頭は痛みだし、遂には片手で押さえる程の鈍痛が続いた。
「……出なきゃ」
人間の持つ本能がそうさせたのか、佐野は服が張り付く程に冷たくなっている体に鞭打ち、奮い立たせ、その場で立ち上がった。
ぼんやりと見える机の位置を確認し、より精度を上げるために手探りで上面に触れる。そして、それを支えに今も尚ふらついている足を補う様にしながら、腕に力を入れる事で全身を持ち上げた。
「ここから、出なきゃ……」
無性に、彼女はこの暗闇からの離脱を切望する。一体どの様にしてこの場所に到達したのか、何が切っ掛けでこの様な場所で気絶していたのか。それすら定かでは無いにも関わらず、どういう訳か佐野はこの場からの脱出を望んでいたのだ。
勿論、この様な空間に好き好んで居続けたい人間など、そうはいない。
ましてや、彼女自身、最近就職したばかりの新社会人である。大して幸福であった訳でも無く、人の尊厳から間一髪で逸脱しなかっただけ。かつ一般的とは言い難い、比較的に暗部の多い会社に籍が決まっただけの人間である。
平均的。細かな境遇などを抜きにすれば、彼女を表現するのに妥当な言葉がそれだろう。所謂、常人という者である。
ならば、そんな常人がこの暗闇からの脱出を試みるのは当然の帰結ではないのか。恐らく、大半の人間がそう答える筈だ。
しかし、こと彼女に関しては状況が異なっていた。
「出なきゃ……ここから、出なきゃ……今すぐ、今すぐに……! 出なきゃ……! 出なきゃ……! 絶対に出なきゃ……!」
最早、切望などを通り越した懇願、いや、もっと言えば強迫観念にも似た感情が、今の彼女を突き動かしていた。
唐突な状況によるパニックとも違う。経緯、記憶、状況の把握。それら人間が備えている知性よりも先にやって来るこの焦燥感。どういう訳か、ここから出る事が今の彼女を構成している要素であり、それ以外の様々な思考や理性と呼べる活動よりも優先的に脳が指令を出す。突発的な感情のみが先行し、それに体が突き動かされていたのだ。
「出して……! 出して……! 出せ……! 出せ! ここから出せ!! 出せ!!!!」
扉なのかただの壁なのか。それすら分からない状態でも、気が付けば彼女はそれを命一杯の力を込めて叩いていた。感触からこれらもコンクリート製なのか、一般的な女性の腕力しか持ち合わせていない彼女の力では当然、外界へと届く反響すら起こりはしない。
それでも、今の彼女はこの感情にのみ突き動かされ、固い壁面を叩く手を止められなかった。
打ち付けるたびに皮膚が裂け、湿度の高いこの空間が織りなす湿り気以外のぬめりが彼女の拳から滴る。
痛みが走ろうが関係ない。兎に角、彼女はここから出たい、それだけになる。
「だせ!! だせ!!!! だせえ!!!!!!!」
喉の奥が痛む。声帯が裂ける。尚も叫ぶ。己の声が反射し、己の耳に戻る。それが彼女の狂気をより焚き付け、尚も叫ぶ。
「出してよおおおおおおおおお!!!!!!!!」
渾身の一振り。その瞬間、彼女の腕からは、はっきりと、明確な、まるで大きな枝が折れた様な音が発せられた。
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早朝午前4時。フローリングで構成された廊下にて、1人の男子学生がそこの中心に立っていた。
背格好はおよそ160cm程で、どちらかと言えば痩せ型に入る体型である。髪型も丸く整えられた豊かな毛量で、身に着けている黒色の学生服の着こなしも相まって、より彼の規則正しさが強調されている。
「おはようございます」
未だ日の昇らない時間。それに付け加え、あまり日当たりの良くない区画が故の見えづらさを持ったこの廊下にて、未だ幼さの残る顔を持つかの男子学生は、たったひとりで朝の挨拶を述べていた。
そんな彼が見つめる先には、彼の全身を写し出す程の高さのある姿見があった。
この様な暗がりで、ましてや鏡に向かって誰かに語りかけるなど、普通の感性を持った人間では到底しないであろう所業である。
「昨日はよく眠れましたか? ……いや、眠る、と言う行動は本来は生者にのみ適用される現象ですね。なら、質問を変えましょうか。いつ、自己の認識が確定しましたか?」
尚も、彼は自身の姿が写っているだけの鏡に向かって語りかける。そこに見える顔は、とても穏やかで、友好さすらも孕む程に微笑んでおり、一見すれば好印象を受ける好青年のそれだ。
しかし、どういう訳かその顔面には前述した様な中身が伴っているようには決して見受けられず、何処かしら虚偽の臭いが漂っている。
それを本人は知ってか知らずか、まるでこれらが規定の所作であるように表情が固定されているのだ。
「……うーん。駄目ですねえ。やはり、構成要素の基礎となっている感情の発露のみでしか反応を返してはくれないみたいです。これじゃあ、折角うちに来てくれてもまともな会話が成り立ちません。しょうがない。一旦は、要観察と言う形で保留にしましょう」
そう言うと、かの男子学生は何処からか取り出した紫色の布を鏡に被せ、踵を返す様に向きを変えながらその場を後にした。
彼がここを離れてから直ぐ。心なしか、例の姿見が少し揺れた様な気がした。
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階段を下りた先には、先の廊下と同様に薄暗い台所兼リビングを内包している区画が存在していた。流しと調理場からは食事用のテーブルと、その奥に置かれている向かい合わせのソファーと薄型テレビが一望できる。
一見すれば極々当たり前のLDKである。が、ある一点のみ、その一点の要素こそが、この場所を異質な空間足らしめていた。
それは件の白いソファーの上に設置されていた。端的に言えば、ボロボロの段ボールや黄色く変色した新聞紙、それらを無理矢理ガムテープで補強するように形作られた人型がそこに座っていたのだ。
合計で3体。それぞれ、大中小と形容されるような背格好を有しており、否応なしにこれらが所謂家族という組織形態を表現している事が窺える。
その出で立ちは、まるでこの3人家族が、何も映っていないテレビを眺めているだけの団欒を演出している配置だ。しかし、あまりにも杜撰な人形の造りがより一層この空間の不気味さを演出している。
「……もう。駄目じゃないですかー」
そう言うや否や、かの青年は人型の方へと近づいた。かと思えば、彼はすぐさま人形たちの足元で腰を折り、何かを拾い上げる。
「これは実験なんですから。しっかりと新しい家族を迎え入れてあげてください」
そう言いつつ、彼は一体の人形をソファーに座らせた。それは、稚拙な工作然とした3体の人型とは異なり、恐らくは既製品であろうプラスチック製の赤ん坊を模した人形である。
前後に倒す事で瞼が閉じたり開いたりするタイプのこの赤ん坊は、まるで新品同然の肌色をを有してはいるが、何故が口周りだけが黒く変色していた。
あまりにも整合性の欠いたこの組み合わせに対し、この青年は偉く満足げに大きくうなずき、尚も語りを続ける。
「うんうん。やっぱり、この形が一番しっくりきますね。貴方方は本来三位一体の様な構成要素で成り立っている存在ですが、それぞれが強い念を抱き、この家に根付いている怨霊として認識されています。ですが、もしその中に別の要素を組み込ませたらどうなるのでしょう。その子も貴方方と同じように強い念を抱き、多くの人、取分け未婚の女性の命を奪い続けてきました。……そろそろ落ち着いても良い頃だと思って貴方方に託したんです。新しい家族の形がどうなるのか、楽しみじゃないですか?」
並べられた4体の人形の前で、この童顔の青年は両の腕を広げながら己の理論を力説していた。一体誰が彼の話を聞いているのか。彼以外に、ここには息をしている者など無い筈なのに、彼はこれでもかと言う程に生き生きとした口調で語っている。
しかし、何故か彼の周囲に存在する、一種の空気感とでも言うのであろうか、それが途端に重さを持ち、ひり付き、まるで感情その物が部屋の中で充満していくように満たされ且つ彼を敵視し始めた。
気体が密封されている空間が、唯一人の子供に、ましてや生きてすらいないものが攻撃性を有した感情を持つ。
この様な現象が起こる。そんな事があり得るのだろうか。そう言ったごく当たり前の疑問が浮かぶのは必然であろう。
だが、現に彼はそれを己の肌で感じ取り、享受し、甘受していた。
「なんだ。まだまだ現役じゃないですか」
まるで挑発とも取れる様な彼の言葉に対し、更に周囲に漂う圧力は勢いを増した。喧嘩など買うまいと言った大人な態度などここには微塵も存在せず、真向から殺り合おうという気概さえ窺える。
そして、それをまともに受け取った青年はと言えば、自身の右手をズボンのポケットに入れ、何かを強く握りしめていた。
まるで、その右手にある物が彼の切り札だと言わんばかりに力を込め、その上、相手が自分自身に反旗を翻して向って来るのを今か今かと待ちわびているのだ。
この男は、この戦いその物を楽しんでいる。先程、青年によって座らされた赤ん坊がそう感じている様な気がした。
が、次の瞬間、軽快な呼び鈴が彼を含めた周囲の空気全ての意識を向けさせた。
すぐさま、青年はそれが鳴る方へと赴き、先程まで完全に臨戦態勢となっていた場の雰囲気も静まり返える。
「もしもし、枯枝(かれえだ)です。はい。三男、無垢郎(むくろう)の方です」
空かさずに受話器を取った青年は、電話向こうの存在に対して自らを『枯枝 無垢郎』と名乗った。
「はい。ご依頼は予定通りに。ですが、僕のやり方は父や母、ましてや僕の兄や姉とは大きく異なります。勿論、対象の処理は問題なく行います。ですが、その後の対応には一切口を挟まない、これだけは確約してください。では」
簡単に己の要件だけを伝えた彼は、慣れた手つきで受話器を置いた。
「込み入った話はまた後でしましょう。これから仕事なので。それじゃ。……ちゃんと、仲良くしててくださいね?」
そう言い残し、彼、こと枯枝 無垢郎は真直ぐに玄関へと向かった。
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