第4章 餌


朝の光は、隆史の部屋のカーテンをすり抜けて差し込んでいた。しかし鏡の前に立つ隆史の顔は、その光を吸い込むように青白かった。

眼窩はくぼみ、瞳孔は妙に開き、奥で鈍い光を反射している。舌の奥からは、かすかな鉄の味が込み上げていた。


歯を磨こうと口を開けると、喉の奥で何かが蠢いた。

びくりと咳き込み、白い陶器の洗面台に赤い点が飛んだ。

血ではなかった。

糸のように細い、黒ずんだものが、一瞬うごめき、すぐに水に流された。


隆史は両手で顔を覆い、小さく呻いた。

「……なんだよ……これ」


体の異変は日増しに増えていた。

夜眠ろうとすると、内臓が自分のものでないように動き出す。腸を這い、胃をこじ開け、背骨に沿って何かが擦りつけられる感覚。

ベッドの上で背を反らし、歯を噛み締めても、動きは止まらなかった。


大学の講義中、教授の声は遠く、意味を結ばなかった。

黒板に並ぶ文字は水面に映った影のように揺れ、耳には絶えず「ざあざあ」と水が流れる音が響いていた。

ときに、誰かが自分の鼓膜を爪で掻いているような「カリカリ」という音まで混じる。

その音が聞こえるたび、胸の奥で心臓が乱打する。


――休み時間、廊下を歩いていたときだった。


「……やあ」


耳のすぐそばで声がした。

反射的に振り返ると、そこに春生が立っていた。

制服の袖口を直しながら、にこやかに微笑んでいる。


だが、隆史の胸は一気にざわめいた。

背を向け逃げたいのに、足は勝手に前へ進む。

見えない糸に引かれるように。


春生もまた、同じように一歩ずつ隆史へ近づいてきていた。


至近距離で見た春生の顔には異様なものがあった。

皮膚の下を血管が走り、まるで別の生き物が脈打っているように浮き出していた。とりわけ手の甲に広がった赤い発疹は、虫刺されのように見えながら、よく見ると小さな口のように開閉を繰り返していた。


「……調子、悪そうだね」


春生は低く囁いた。吐息が隆史の頬にかかる。

匂いは血と湿った土を混ぜたようで、吐き気を催すのに、呼吸を止めることができない。


隆史の頭の奥で声がした。


「もっと近くへ……触れろ……」


気づけば春生の指先が隆史の首筋に触れていた。

その瞬間、電流のような衝撃が走った。筋肉が勝手に痙攣し、視界が白くかすみ、呼吸が止まりかける。


「やめろ!」


隆史は弾かれたように後ずさった。

だが背中には冷たい壁。逃げ場はない。

春生は笑みを浮かべたまま近づいてくる。


ただ、その右の瞳の奥には涙が滲んでいた。


「……ほんとは……嫌なんだ……」


春生の声は震えていた。

だが体は逆らえず、また一歩前に出る。

手の甲の発疹が隆史に触れようと蠢いていた。


隆史は喉の奥から声にならない呻きを漏らした。

心臓は暴れ、頭の奥では針金をきしませる音が響き続ける。


――そのとき。


カン、カン、と甲高い音が空間を切り裂いた。

授業終了を告げるチャイムだった。


周囲のざわめきが一気に戻り、春生ははっとしたように距離を取った。

何事もなかったかのように笑みを作り、軽く会釈し、背を向けて歩き去る。


廊下に取り残された隆史は、震える体を壁に押し付けた。

首筋に残った指の跡は赤黒く腫れ、脈打つように熱を帯びていた。


その様子を、どこか別の場所から見ている視線があった。

冷たい蛍光灯の下、顕微鏡越しに記録をつける男の視線。


圭吾は筆を止めず、ぼそりと呟いた。

「……カマキリと……ネズミ……。順調だ」


声は無感情だった。

しかし、その無感情こそが最も恐ろしく、隆史の日常を崩壊させる遠因となっていた。

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