第9話「湿原の鼓動、導水の影」
◇朝の余韻
初日の実演が終わり、泉は静かに呼吸を続けていた。
王都側への送水六割、里の水位安定。数字は揃った。だが胸の奥の緊張は解けない。導水ギルドの影が、確実に動いているからだ。
アリアは柵の上で矢を整え、子どもたちを見守る。
ミラは腹を壊した者たちに薬を配り、笑顔を絶やさない。
セレナは石板に数字を刻み、査察官と短く言葉を交わしていた。
俺は泉の水を手に受け、流れの音を耳の奥で測る。――昨日より太い、確かな鼓動。
「この拍を、三日守る」
呟くと、女神の声は返らない。ただ水面が一度だけ揺れ、応えのように光を散らした。
◇湿原へ
昼前、俺たちは再びラース湿原へ向かった。
半分ほどほどけた結び目を、さらに緩めるためだ。
ひび割れた大地の下で、まだ硬い塊が眠っている。
掌を土に当てると、鈍い脈が指先を震わせた。
――怒りの残響。三十年前、強引に塞がれた川筋の痛みが、まだそこにあった。
「ここをほどけば、“等流”は一気に広がる」
セレナが低く言う。「だが逆に、導水ギルドに気づかれる危険も大きい」
ミラは袋を探り、湿り粉を取り出した。
「少しでも和らげよう。水を呼ぶ手助けになるはず」
アリアは弓を握り、辺りを警戒する。
「昨日の黒外套……必ずまた来る。なら、迎え撃てばいい」
俺は三人の顔を見て頷いた。
「拍を合わせる。――いくぞ」
◇結び目の歌
掌を大地に沈める。
古い布目を探り、硬く固まった泥をほぐす。
水呼びの種を三粒埋め、息を吹きかける。
しゅる、と微かな音がした。
土の奥から、細い水糸が顔を出し、互いに絡み合う。
ミラが粉を撒き、アリアが矢で土を割り、セレナが呪式で環境を安定させる。
やがて――地の底から、低い唄のような振動。
湿原そのものが、眠りから目覚めるかのように鳴った。
水が、帰ろうとしていた。
◇黒外套の襲撃
「止めろォ!」
叫びと同時に、砂塵を裂いて黒外套の一団が現れた。
導水ギルド。肩章には銀の水瓶の印。
彼らは瓶に符を貼り付け、湿原の新しい流れを吸い上げようとする。
「水を“商品”に変える気か!」
俺が叫ぶと、先頭の男は冷ややかに笑った。
「水は権利。権利は札に。札は金に。――それが世界の秩序だ」
「違う! 水は巡るものだ!」
矢が飛び、瓶を叩き割る。アリアだ。
ミラが香袋を投げ、黒外套の呼吸を乱す。
セレナは雷で符を焼き切る。
俺は掌を地に押しつけ、結び目をさらに緩める。
水が怒りを鎮め、湿原の奥から音を立てて湧き上がる。
導水ギルドの足元が泥に沈み、彼らは呻き声を上げた。
「退け!」
彼らは撤退の合図をし、砂塵の向こうへ消えていった。
残されたのは、ひとつの水脈。
湿原が、確かに息を吹き返したのだ。
◇女神の声
『――よく、ほどいた』
水面から、女神の声が流れ込む。
『結び目はあと一つ。人の胸にあるものだ。レオン、汝の怒りをどこへ祀る?』
胸が締めつけられる。
カイルの顔が浮かぶ。追放の日の冷たい石床、制裁旗の赤。
赦せない。だが――祀れるかもしれない。
「……祠を作った。俺の中に。そこへ置く」
『ならば、拍を保て。置き場を忘れるな。そうすれば律は流れる』
声は溶け、湿原の水音だけが残った。
◇帰路
夕暮れ、里に戻ると泉の水位は安定していた。
アリアは子どもたちに矢の構えを教え、ミラは薬の調合を続け、セレナは石板に今日の成果を記録する。
俺は焚き火の傍で掌を水に浸し、拍を数えた。
三日のうちに、残るはひとつ。
――俺の胸の結び目。
夜の空に星が灯る。
水は巡り、世界は呼吸を続ける。
その拍を守り抜くと、固く誓った。
(つづく)
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