第6話『魔王軍の影、決意の夜』
平穏は、嵐の前の静けさに過ぎなかった。
バルゴス卿の事件から約一ヶ月。集落の防衛体制がほぼ完成した頃、新たな訪問者が現れた。しかし、それは兵士ではなかった。ボロボロのローブをまとった、一人の旅の老人。彼は集落の門前で力尽き、見張りの自警団に保護された。
「水を……どうか……」
治療所で手当てを受け、意識を取り戻した老人は、まずそう呟いた。
リファが差し出した水差しを、彼は震える手で受け取り、貪るように飲んだ。
「……ありがとう、ご親切に。……ここが、噂に聞く“希望の地”ですかな?」
「希望の地?」と俺は聞き返す。
「ええ。西の荒野に、種族を問わず難民を受け入れる奇跡の楽園ができた……その噂は、絶望の中にいる我々の間では、最後の蜘蛛の糸のように広まっております。ですが……」
老人の表情が、暗く曇った。
「……私は、警告のために参りました。この地の主は、あなた様でしょうな」
「警告、ですか?」
「はい……魔王軍が、本格的に動き始めております。彼らは、この世界の最後の希望の光とも言うべきこの地を、必ずや潰しに来るでしょう……」
冷たい汗が、背筋を伝った。
「魔王軍……? なぜ、こんな小さな集落を?」
老人は深く息をつく。
「もはや“小さい”などとは言えません。あなた様の力による豊かな実りは、魔王が振りまく“荒廃”の瘴気に真っ向から対抗するものです。魔王にとって、あなた様の存在は、何よりも忌むべき目の上のこぶ。それに……」
老人は、ためらうように言葉を続けた。
「……バルゴス卿のような愚かな領主たちが、己の保身のために、魔王軍にこの地の情報を流した……という黒い噂もあります。奴らは、魔王軍という脅威を利用して、この地を手中に収めようと画策しているのかもしれません……」
俺は奥歯を噛みしめた。あの男……許せない。
「魔王軍は……どれほど強いのですか?」
「かつて大陸を統べていた王国連合軍でさえも、赤子の手をひねるように壊滅させました。魔物の大軍と、天変地異を引き起こす強大な魔術……。幾多の街や村が、一夜にして灰燼に帰しました。この老いぼれの故郷もまた……」
老人の目に、拭い去れない深い悲しみが宿る。
「あなた様の力は確かに強大でしょう。しかし、魔王軍そのものを敵に回すのは……あまりに無謀やもしれません。どうか……どうか、ご用心を」
老人はそう言うと深々と頭を下げ、休息もそこそこに再び旅立っていった。彼自身、魔王軍から逃れ続けなければならない身なのだろう。
残された俺たちは、重い沈黙に包まれた。
「……で、どうするんだにゃ、ケンジ?」
ミィナが、いつもの快活さを消した真剣な顔で尋ねる。
「魔王軍か……ついに本丸のお出まし、というわけだな」
ドルムは顎ひげを捻りながら唸った。
「ケンジさん……」
リファの声には、隠しきれない不安が滲んでいる。
俺は一度深く息を吸い、仲間たちの顔を見回した。恐怖はある。だが、もう引き返す道はない。
「……迎え撃つ。それだけだ」
「でも、ケンジさん、相手は魔王軍ですよ!」
「わかってる。だが、もうここには逃げ場のない人たちが大勢いるんだ。みんな、ここを終の棲家だと思ってる。俺たちが守らなくて、誰が守るんだ?」
俺は集落を見渡す。子供たちが元気に走り回り、女性たちが笑いながら洗濯をし、男たちが畑で汗を流す。様々な種族が、当たり前のように助け合って生きている。
「魔王軍が来ようが、何が来ようが、俺はここを守る。いや、みんなで、だ」
「……そりゃあ、当然だな!」ドルムが豪快に笑った。「俺たちがここまで汗水垂らして築き上げた楽園を、魔物の野郎どもに好き勝手されてたまるか!」
「ミィナも絶対に負けないにゃ! ケンジがいるなら、魔王だって引っ掻いてやるにゃ!」
「私は……戦えませんけど、最後まで、ケンジさんをお支えします!」
「クゥーオオーン!!」(俺もいる!)
ポチの咆哮は、もはや成獣のそれだった。
「よし……それじゃあ、作戦会議だ」
俺たちは急ぎ、各種族の代表者を集めて防衛会議を開いた。
まずは情報収集。魔王軍の規模、編成、侵攻経路。老人の話や、他の難民からの情報を統合する。どうやら魔王軍の前衛部隊、数千の規模がすでに動き出しているらしい。主力が動く前に、この“希望の地”の芽を摘みに来るつもりだ。
「数千……か。こっちは戦える者がせいぜい百人そこそこだ。まともにぶつかれば、一瞬でひねり潰されるな」ドルムが厳しい現実を口にする。
「だからって、籠城してるだけじゃジリ貧にゃ」
「ああ。だから、俺の力を使う」俺は三つの神農具を見つめた。「こいつらの真の力……大地そのものを味方につけて戦うんだ」
“開拓のクワ”で大地を隆起させ、防壁と無数のトラップを作る。“収穫のカマ”で植物を操り、敵の進軍を妨害し、拘束する。“大地のスキ”で地割れを起こし、敵部隊を分断、孤立させる。
さらに、ドルムが開発した新兵器――特殊な種を詰めた弾丸を放つ“種弾弓”や、強靭な蔓で敵を絡め取る“縛り罠”なども総動員する。
ミィナ率いる自警団は、その機動力を活かした遊撃部隊として動く。
非戦闘員は、集落の中心に造られた頑丈な地下避難壕へと退避。リファにはそこで、負傷者の治療指揮を執ってもらう。
準備は着々と進んだ。集落全体がピリピリとした緊張感に包まれるが、そこに諦めや悲壮感はない。誰もが自分の役割を理解し、覚悟を決めて任務に就いていた。
決戦の前夜、俺は一人、静まり返った畑の真ん中に立っていた。満天の星が、この世のものとは思えないほど美しく輝いている。
「……女神様、見てますか。あんたとの約束、果たせるかどうか……わからない。けど、やれるだけのことは、やってみます」
「ケンジさん」
振り向くと、リファが立っていた。
「明日は……絶対に、ご無事で。約束、ですよ」
「ああ、もちろんだ。君もな、リファ」
「はい。それと……これ」
リファはそっと、小さな布袋を差し出した。中には、乾燥させた薬草が入っている。
「お守りです。私が精一杯、治癒と守護の祈りを込めました」
「ありがとう、リファ」
俺はその温かいお守りを、しっかりと握りしめた。
すると、そこへミィナとドルム、ポチもやって来た。
「なんだ、水臭えじゃねえか、ケンジ」
「そうにゃ! 最後の晩餐なら、みんなで楽しまなきゃ損にゃ!」
「クン!」(同意!)
ミィナは大きな鍋を抱えている。中には、みんなで育てた野菜がたっぷり入った、湯気の立つシチュー。
「ははは、そうだな! 今夜はみんなで腹一杯食って、明日に備えよう!」
こうして俺たちは、星空の下、最後の夜の食事を共にした。
笑い声が響き、冗談が飛び交う。まるで、いつもと変わらない、平穏な夜のように。
だが、この場にいる誰もが、その胸の奥で静かに覚悟を決めている。
明日、この楽園の運命を賭けた戦いが始まることを。
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