第2話『一粒の種、エルフの涙』
「すごい……これが、神農具の力……」
目の前に広がる、艶やかな黒土。数秒前まで、絶望的な赤茶けた荒野だったとは到底信じられない。懐かしい土の香りが、肺を満たしていく。
だが、どれだけ見事な畑があろうと、蒔くべき種がなければただの空き地だ。ポケットを探っても、出てくるのはオフィスの鍵くらい。現代日本のサラリーマンが、スーツに野菜の種を忍ばせているはずもなかった。
「どうする……せっかくの畑が泣いてるぞ」
途方に暮れて周囲を見回す。枯れ草、小石、そして――あれは?
風に運ばれてきたのだろうか、ひび割れた地面の隙間に、ぽつんと小さな実が落ちていた。拾い上げてみれば、あまりに小さく、何の種かも判別がつかない。
「……これしかない、か。ダメで元々だ」
女神に授かった三つの神具。“開拓のクワ”は使った。残るは“収穫のカマ”と“大地のスキ”。
僕はその小さな一粒を、黒土にそっと埋めた。これで終わりか、と思ったその時、ふとカマが手の中で微かに震えた気がした。
「……次は、これか」
導かれるように、“収穫のカマ”を種を埋めた場所の上で、軽くひと振りする。
パチッ、と。
微かな、しかし命が弾けるような音。目の前の地面から緑の双葉が勢いよく飛び出し、まるで早送りの映像のように、ぐんぐんと天を目指して伸びていく。茎は太く、葉は青々と茂り、わずか数十秒で、それは見事なジャガイモの株へと成長を遂げた。土が盛り上がり、その下にはいくつもの芋が実っているのが見て取れる。
「……は?」
思考が凍り付いた。光合成は? 水分は? 成長に必要な時間はどこへ消えた?
恐る恐る手を伸ばし、土から顔をのぞかせた芋を一つ引き抜く。ずっしりとした、生命の重み。泥を払えば、滑らかな薄茶色の皮が現れた。紛れもない、極上のジャガイモだった。
「……食べられる……のか?」
喉の渇きと空腹が、僕の常識を麻痺させる。クワで土を掘り返し、芋をいくつか収穫した。
問題は、火と水だ。
そうだ、“大地のスキ”があった。直感的に、この道具なら乾いた大地を潤せるかもしれない、と感じた。女神がくれた神具なのだから、きっと。
半信半疑で、耕した土地の端にスキを突き立てる。スキが意思を持つように微かに震え、地中深くへと沈んでいった。次の瞬間、ゴボゴボという音と共に、スキを立てた地点から清らかな水がこんこんと湧き出し始めた。それはあっという間に小さな泉を形作る。
「水だ……! やった!」
狂喜して水を両手ですくい、夢中で喉に流し込む。どこまでも冷たく、清らかで、ほのかに甘い。人生で味わったどんな名水よりも、それは格別に美味しかった。
それから、慣れない手つきで石を組んでかまどを作り、どうにか火をおこす。文明の利器に頼り切っていた自分を、今ほど呪ったことはない。ジャガイモを火の中に放り込むと、やがてたまらなく香ばしい匂いが立ち上った。
焼き上がった熱々のジャガイモを、息を吹きかけながらかじる。
「……うまいっ!」
何の味付けもない、ただの焼き芋。なのに、口の中に広がる甘みとホクホクとした食感は、これ以上ないご馳走だった。生きている。その実感が、じわじわと体の隅々まで満たしていく。
「……ああ、生き延びられた……」
安堵のため息をついたのも束の間、すぐ近くの枯れ草の陰で、ガサッと微かな物音がした。
振り返ると、何かが倒れている。警戒しながら近づいてみると――そこにいたのは、尖った耳を持つ、骨と皮ばかりに痩せ細った少女だった。ボロボロの布をまとい、その意識は朦朧としている。物語で見たエルフ、そのものだ。
「おい! 大丈夫か!?」
声をかけるが、返事はない。ただ、ひび割れた唇が微かに動いている。
僕は慌てて泉の水を運び、ゆっくりと彼女の口元に含ませてやった。少女は激しくむせながらも、本能で水を飲み干していく。
やがて、彼女の虚ろな瞳が、焼き芋の香りがする方へと吸い寄せられた。その瞳の奥には、紛れもない、生の渇望――飢えの色が燃えていた。
僕は焼き芋の一つを割り、少女にそっと手渡した。彼女は震える手でそれを受け取ると、ほとんど噛むこともなく、喉に流し込むように食べ始めた。
「ゆっくり……ゆっくり食べろ。熱いから……」
次の瞬間、少女の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……どうした? まずかったか?」
少女はか細く首を横に振る。そして、嗚咽を絞り出すように言った。
「……おいしい……です。こんなに……温かくて、おいしいもの……食べたのは……初めて……です……」
その言葉が、僕の胸に鋭く突き刺さった。
これこそが、この世界の現実。女神が嘆いていた、飢えの苦しみ。
「……たくさんある。だから、ゆっくり食べるといい」
彼女は涙を流しながらも、一心不乱に焼き芋を食べ続けた。その姿は、女神から託された使命の重みを、僕に痛いほど実感させた。
少女の名はリファ。魔物に村を焼かれ、逃げるうちに家族とはぐれ、食べるものもなく彷徨っていたという。
食べ終わると、彼女はふらつきながらも立ち上がり、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます。あなたが……これを分けてくださらなければ、私は今頃……」
「そんな……僕も、運が良かっただけだよ」
「いいえ」リファは首を振り、まっすぐに僕を見つめた。「あなたの力は、普通ではありません。この死の大地で水を湧かせ、瞬く間に実りをもたらすなんて……。あなたは……女神様のお遣いなのですか?」
僕は、手にしたカマを見つめた。
女神の遣いかどうかはわからない。だが、この力で、彼女のような苦しみを味わう人を一人でも救えるのなら――。
「僕はケンジ。これからここで、もっと大きな畑を作るつもりだ。よかったら……君も手伝ってくれないか?」
リファの瞳が、星を宿したようにぱっと輝いた。
「はい! ぜひ! 私でお役に立てるなら、何でもします!」
こうして、僕の異世界開拓生活に、最初の仲間が加わった。
荒野に灯った、小さな小さな希望の光だった。
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