第18話 灯った火
翌日の早朝。
まだ夜の気配が濃く残る中、水野栞奈は一人、武道場の前に立っていた。
(……来ない、か)
昨日の彼の瞳には、確かに何かの光が宿ったように見えた。だが、あれは一時の感情だったのかもしれない。心が折れ、全てを投げ出す気持ちも、痛いほど分かる。
諦めて、一人で鍵を開けようと、引き戸に手をかけた、その時だった。 道場の内側から、「…押忍」という、まだ慣れない、しかし芯のある声が聞こえた。
栞奈が驚いて中に入ると、そこには、すでに一人で柔軟運動を始めていた青野彗悟の姿があった。昨日着ていた体育着ではなく、渡された道着を、きちんと着込んで。 彼が顔を上げる。
その目には、もう迷いや絶望の色はなかった。ただ、ひたむきな光が宿っている。 栞奈の問いに対する、これが彗悟の言葉のない答えだった。
栞奈が何か言う前に、彗悟の方から切り出した。
「水野。もう一度、俺と組手してくれ。一本だけでいい」
彼の口から、初めて「練習を要求する」言葉が出た。
組手が始まる。 結果は、同じだった。彗悟の渾身の追い突きは、栞奈の流れるような体捌きの前に、むなしく空を切り続ける。 だが、その内容は、昨日までとは決定的に違っていた。
以前の彼は、ただ闇雲に突っ込むだけだった。だが今の彼は、栞奈の動きを、その一挙手一投足を、食い入るように観察していた。
(違う…ただ避けてるんじゃない。俺が踏み込む、そのコンマ一秒前に、彼女の左足の踵が、わずかに浮く…そこが予備動作か…!?)
(息を吸った瞬間…?いや、違う。肩だ。突こうとする瞬間に、俺の肩が、無意識に力んでる。それを読まれてるんだ…!)
彼は、もはやただの練習台ではなかった。栞奈という、最高峰の生きた教科書から、その技術を「見て盗もう」としていた。
その時、道場の入り口に、もう一つの人影が現れたことに、二人は気づかなかった。 菊田 空だ。 鈴木先生の言葉が、そして、あの素人の、本気でなければ避けられなかった一撃が、彼のプライドを揺さぶり、休日返上で誰よりも早く朝練に来たのだ。
彼は、道場の中で組手をしている二人に気づき、足を止める。 最初は「まだあんな無駄なことを…」と侮蔑の表情を浮かべた。 しかし、すぐに気づく。青野彗悟の「質」が変わっていることに。
まだ下手だ。動きは荒削りすぎる。だが、その目つきが違う。昨日までの「怯えた素人」ではない。「相手を分析する戦士」の光が宿っている。そして何より、栞奈の高度な体捌きを、不格好ながらも必死に模倣しようとしている。 その、ありえない速度の学習能力を、菊田は見抜いていた。
やがて、朝練が終わる。 汗だくの彗悟と栞奈が道場を出ると、入り口で待っていた菊田と鉢合わせになった。 彗悟は、思わず身構える。また、何か罵倒されるのか、と。 だが、菊田の口から出たのは、予想外の言葉だった。彼は、侮蔑でも、賞賛でもない、ただ冷たい事実を告げるような声で言った。
「…真似事か。無駄な努力だな」
彼はそう吐き捨てると、彗悟の横を通り過ぎ、道場の中へと消えていく。 その言葉は、一見するとただの悪態だ。しかし、彗悟と、そして栞奈は、その言葉の裏にある意味を、正確に理解していた。
「無駄な努力」ということは、彼が、彗悟の行為を、初めて「努力」だと認めたということ。
侮蔑の対象ですらなかった存在が、初めて、同じ土俵に立とうとしている者として、菊田に「認識」された瞬間だった。 彗悟は、菊田が消えた入り口を、静かに、しかし燃えるような強い意志を宿した目で見つめていた。
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