第9話 才能の証明、技術の不在

翌日の放課後。約束通り、青野彗悟は体育着姿で、再び武道場の前に立っていた。昨日とは違う。今日は、彼自身の明確な目的がある。


意を決して引き戸を開けると、昨日よりも遥かに熱量の高い、練習中の空気が彼を飲み込んだ。数十の視線が、場違いな闖入者である彼に突き刺さる。




「…来たんだ」




練習の輪から外れ、彼を待っていた水野栞奈が、静かに言った。 その瞬間、鋭い声が飛んだ。




「おい、素人が何の用だ。ここは遊び場じゃないぞ」




声の主は、菊田 空。




その目には、明確な敵意が宿っている。


練習を止め、腕を組んで近づいてきた主将の竹村が、栞奈に問うた。




「水野、どういうことだ?」


「キャプテン。菊田くんも。この青野彗悟の身体能力を、二人にどうしても見てもらいたくて、私が呼びました」




栞奈は、二人の実力者を前にして、一歩も引かなかった。


彼女は、彗悟に向き直ると、道場の床に引かれたラインを指差した。




「青野くん。あの線から、助走なしで、ただ真っ直ぐ向こうへ跳んでみて。全力で」




空手着の集団の中で、一人だけ体育着の彗悟。好奇、侮蔑、様々な視線が突き刺さる中、彼は言われた通りに、ラインの前に立った。 そして、ただ、跳んだ。




予備動作のない、爆発。


彗悟の身体が、まるで砲弾のように射出される。他の部員たちが記録する平均的な距離を、遥かに超えた地点に、彼は音もなく着地した。




「うそだろ…」 「なんだ今の…バケモンかよ…」




道場のあちこちから、驚愕の声が漏れる。竹村も、そのありえない跳躍力に、わずかに目を見張った。


しかし、菊田だけは、冷めた目で言い放った。




「だから何だ。それはただの跳躍力だ。陸上部に行けばもっと跳ぶ奴もいるだろう。俺たちがやっているのは空手だ。そんなものは、何の役にも立たない」


「違う!」


栞奈が、即座に反論する。




「重要なのは距離じゃない!今の跳躍に、力を溜める『タメ』が一切なかったこと!全身のバネを一瞬で爆発させる、その初速!それは、どんな稽古を積んでも決して手に入らない、本物の『才能』よ!」




二人の天才が火花を散らす。栞奈は、その才能を空手に繋げるための、第二の証明を試みた。 通常では絶対に届かない、絶妙な距離に上級生を立たせ、ミットを構えさせる。




「青野くん、今と同じように跳んで、あのミットを殴ってみて」




言われるがまま、彗悟は再び跳躍した。 彼の身体は、信じられないことに、その遠いミットにまで到達した。 だが――。




パスッ




ミットに当たった彼の拳は、そんな情けない音しか立てなかった。 握りは甘く、体重も乗っていない、ただの「猫パンチ」。さらには、着地の際にバランスを崩し、数歩よろけてしまう。




「…見たか。これが現実だ」




菊田が、嘲笑うように言った。




「才能だか何だか知らないが、技術がなければ、ただの素人の遊びだ。時間の無駄だ」




菊田の言葉は、正論だった。道場の誰もが、そう思った。 ただ一人、主将の竹村を除いて。 彼は、険しい顔で黙り込んでいる。菊田とは違うものを見ていた。常識外れの踏み込みの「速さ」と「距離」。そして、あまりにも対照的な、完全に「ゼロ」の技術。




栞奈が、竹村に最後の問いを投げかける。




「キャプテン。見ましたか。彼の才能は本物です。足りないのは、空手の全て。でも、それなら、私たちが教えられます」




竹村は、しばらくの間、何かを考えるように押し黙った後、ゆっくりと彗悟の前に立った。そして、道場の隅に置いてあった、使い古された折り畳み済みの道着を一つ掴むと、それを彗悟の足元に、ボスッと投げ捨てた。




「…おい、素人」




竹村の、低く、よく通る声が響く。




「お前がとんでもない原石なのか、それとも、ただの時間の無駄なのか、俺にはまだ分からん。だが、面白いもんが見れたのは確かだ」




「……え?」




「明日から、それを着て練習に来い。答えは、それからだ」




呆然と、足元の、白く、分厚い道着を見つめる彗悟の姿を、道場の誰もが、ただ黙って見つめていた。

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