霊世界アンテナガール

イズラ

第1章 教唆煽動

プロローグ

「……はは」

 携帯電話を置いた。

 それから、何事もなかったかのように問題集を開いた。

「……はー」

 弱った声を吐きつつも、大学ノートを開いた。まだ真っ白だ。

 整然と並んだ計算式は二重に見えていた。

 それでも、平然と問題を解き始める。

「は」

 シャープペンシルの芯が折れた瞬間、その手が石のように固まった。巡らせていた論理的思考も一瞬にしてすべて消えた。

 そこにあるのは、ただの虚無。頭は、電源の切れたテレビのようだった。

「……はははは」

 虚空に一人、髪の長い女性が立っていた。肌は少し焼けていて、人目をはばからない笑顔は太陽のようにまぶしい。”麦わら帽子とひまわりの似合う女性”といったところだろうか。

 一歩、また一歩と歩み寄る。足は嘘のように前へ前へと進み、やがて彼女の前でぴたりと止まった。

「セキさん」

 もう一度名前を呼んでみる。手を振ってみる。睨んでみる。抱いてみる。触ってみる。笑ってみる。

「セキさん。どこにいるんですか……?」

 虚空に立ち尽くし、虚空に触れ続ける。

 彼女の姿はどこにもなかった。


      *


 勉強机で目覚めた。

「……はーっ」

 喉が異常に乾いていた。頭も少し痛い。

 ひとまずキッチンに向かおうと、椅子から立ち上がった──。


 廊下は真っ暗だった。

 視線を落としながら一歩、また一歩と慎重に歩く。

 思い返す記憶などなかったかのように、ただ”今”に集中し続ける。

 階段を下りるのにも、一分ほどかかった。

 今日は、床がよくきしむ気がしたのだ。


「はー……」

 暗い部屋で水を飲むと、なぜだかものすごく落ち着く。

 それ以前に、暗い部屋そのものが好きなのかもしれない。なぜだか、”せい”を実感できる気がするのだ。

 朝の光は嫌いだ。これから始まる苦行の象徴だから。それと、朝の太陽はまぶしすぎるから。

 そうだ。

 明日はお休みだった。

 明日は、あの教室に入らなくていいのだ。

「……はは」

 それに今の環境とも、もうじきおさらばだ。

 通信制高校。

 自分の中で納得できる道ではなかった。それでも、選ばざるを得ない道。唯一照らされた道だったのだ。お母さんの懐中電灯で。


 やがて、インターホンが鳴った。

 コップを置いたばかりだった自分は、少し伸びをしてから、玄関へ走った。

 上下の鍵を素早く回して、今日こそ”おかえり”の準備をする。

「……は」

「やぁ。元気かい?」

 背の高い影が落ちる。

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