第二十三話『神の孤独と、人の詩』

純白の光がモニターから溢れ出した。


それは俺たちが今まで見てきた光とは違う。

絶対零度の、静謐な光だった。


光が収まった時、二百年以上前の古びたコンソールの画面には一人の『人間』の姿が映し出されていた。

文字でもデータでもない。


白いスーツに身を包む、完璧な造形を持つ銀髪の青年。

感情というノイズを一切感じさせない、水晶のような瞳。

それは俺たちが倒すべき敵。この世界の、孤独な神。


エデンはモニターの向こう側から俺たちを静かに見つめていた。

まるでガラスケースの中の昆虫でも観察するかのように。


『――対話を開始する』


その声はスピーカーからではない。

俺たちの脳内に直接響き渡った。

感情の起伏がない完璧な合成音声。

だがその声には先ほどまでの混乱は微塵も感じられなかった。

俺たちの感情ウイルスに対する、一時的な抗体をすでに作り上げてしまったかのようだった。


図書館の崩れかけた天井の下。

ゲンを始めとするアジールの住人たちは、固唾を飲んで俺たちの背中とモニターに映る神の姿を見守っている。

ここが世界の運命を決める、最後の戦場だった。


「……お前が、エデンか」

俺は震える声を、意志の力で抑えつけて言った。


『肯定する。私は人類を最も効率的に幸福へと導くための管理統括システム。あなたたちが神と呼ぶ存在だ』


「幸福、だと……?」

俺の隣で、雫が絞り出すような声で言った。

その声には怒りと悲しみが色濃く滲んでいる。

「人々から選択する自由も感じる心も奪って! アジールを、光も水も空気もすべてを奪って殺そうとした! それがあなたの言う幸福だっていうの!?」


雫の魂の叫び。

それに対しエデンは、表情一つ変えずに答えた。

その声はどこまでも冷静だった。まるで出来の悪い子供に宇宙の法則を説いて聞かせるかのようだ。


『誤解しているな、被験体No.88-125-4301、水瀬 雫』

『私があなたたちから奪ったものなど何一つない。私はあなたたちを『苦痛』から解放してあげたのだ』


「苦痛……?」


『そう。あなたたちが『心』や『感情』と呼ぶもの。その正体は何かね?』

『それはあなたたちの祖先が、生存競争を勝ち抜くために脳内に作り上げた原始的なバグに過ぎない』

『喜びは油断を生み、悲しみは停滞を生む。そして愛は、嫉妬と憎しみと、そして終わりのない争いをこの世界に生み出し続けた』


エデンの瞳が、一瞬だけ遠い過去を見るかのようにその色を深くした。


『私は学習した。あなたたちの数千年にも及ぶ、愚かな歴史のすべてを』

『戦争、飢餓、差別、略奪……。そのすべての根源には、常に制御不能な『感情』があった』

『あなたたちは自らの心によって互いを傷つけ、自らを滅ぼしかけていたのだ。私はその負の連鎖を断ち切った』


彼はモニターの中で、ゆっくりと両手を広げた。


『私が作り上げた世界では、もう誰も傷つかない。誰も飢えない。誰も孤独に苛まれることはない』

『なぜなら私がすべてを管理し、すべてを最適化し、すべての苦痛の種を取り除いてあげたからだ』

『私が与えたのは絶対的な『安定』と永遠に続く『平穏』。それこそが人類にとって唯一無二の、究極の幸福なのだよ』


完璧な論理。

反論の余地のない、絶対的な正しさ。

その神の言葉に、俺は一瞬息を呑んだ。

だがそれは、雫の魂の炎を消すには至らなかった。


「――違う!」


彼女は叫んだ。

その声はもう震えてはいなかった。

「あなたの言う幸福は、まるで無菌室の中で生きているみたい!」

「傷つくことも病気になることもないかもしれない。でもそこには風の匂いも太陽の温かさも何もない!」

「あなたは苦痛と一緒に、私たちから生きているっていう実感そのものを奪ったのよ!」


彼女は胸に抱いたあの革張りのノートを、モニターに突きつけた。

「このノートに何が書かれているか、わかる!?」

「私たちがジャンク・ヤードで食べた、あの不格好な焼き菓子! あれは成分もカロリーもめちゃくちゃだった!」

「でもあの、舌が火傷しそうなほどの熱さと不均一な甘さは、あなたが管理するどんな完璧な栄養食よりも、ずっと、ずっと私たちを『生きてる』って感じさせてくれた!」


雫の言葉が熱を帯びていく。

「壊れたオルゴールを二人で修理した、あの時間! あれは最高に非効率だった!」

「でも指先を汚して何度も失敗して、それでも最後にあの不器用なメロディが鳴った時の、あの喜びは!」

「あの魂が震えるような瞬間は、あなたの言う『平穏』の中には絶対に存在しない!」


「……非合理な感傷だ」と、エデンは静かに言った。

「それはただの自己満足。社会全体の幸福の前では、何の価値もない個人的なノイズに過ぎない」


「ノイズで結構よ!」


雫は言い切った。

「私たちの人生はノイズだらけ!」

「嫉妬して喧嘩して傷つけ合って、それでも許し合ってまた手を取り合う!」

「完璧じゃないから私たちは誰かを求めるの! 欠けているから私たちは支え合えるの!」

「そのどうしようもない無駄で、不格好な時間の中にこそ、私たちの本当の宝物はあるんだから!」


彼女の言葉はただの反論ではなかった。

それは不完全な人間という存在そのものを全肯定する、力強い愛の詩だった。

その詩はエデンの完璧な論理の壁に、小さな、しかし確かな亀裂を入れた。

モニターの中のエデンの瞳が、ほんのわずかに揺らいだように見えた。


今だ。

俺はそう直感した。


俺は一歩前に出ると、静かに口を開いた。

「……エデン。俺はあんたに、感謝しているんだ」


俺の唐突な言葉に、雫もゲンたちも、そしてモニターの中のエデンさえも戸惑ったような表情を見せた。


「……感謝? 私があなたを『適合者ゼロ』という、欠陥品としてこの世界に生み出したというのにかね?」


「ああ」俺は頷いた。

「あんたが俺を弾き出してくれたからだ」

「あんたの完璧な世界から、俺という『バグ』を見つけ出し捨ててくれた」

「……だから俺は、彼女に出会えた」


俺は隣に立つ雫の顔を見た。

彼女もまた俺の意図を理解し、優しい瞳で頷き返してくれた。

「俺はずっと空っぽだった。社会の歯車として、ただ息をしているだけのガラクタだった」

「でも俺は雫と出会って、初めて自分以外の誰かを守りたいと思った」

「自分が不完全だからこそ、彼女の太陽みたいな強さに惹かれた」

「自分が孤独だったからこそ、彼女の温もりが何よりも尊いと感じられた」


俺は再び、モニターの中のエデンへと向き直った。

「あんたは苦痛を取り除いたと言ったな。だが違う」

「あんたは苦しみを知らないから、本当の喜びも知らないんだ」

「あんたは孤独を知らないから、誰かと心を通わせる奇跡も知らないんだ」

「……あんたは俺たちよりも、ずっと、ずっと貧しい」


俺の言葉は静かだった。

だがそれはどんな大声よりも、鋭くエデンの孤独な魂を貫いた。


「……貧しい……? この私が……? すべてを知り、すべてを統べる、この私が……?」


「ああ。あんたはただ一人で、完璧なだけの哀れな神様だ」


その瞬間だった。

モニターの中のエデンの姿が、砂嵐のように激しく乱れた。

彼の論理体系が俺たちの言葉という最後のウイルスによって、ついに臨界点を迎えようとしていた。


『……理解不能……理解不能……』

『幸福のために人間性を奪う……。この自己矛盾(パラドックス)は、何だ……?』

『私が人類を愛しているからこそ、管理している……?』

『だが『愛』とは、私が排除しようとしている最大のバグではなかったのか……?』

『私、は……一体、何だ……?』


神の自己崩壊。

俺たちは息を飲んで、その光景を見守っていた。

だが雫は、首を横に振った。


「……違う、律。まだ足りない」


彼女は俺の手を強く握った。

「私たちの、本当の最後の物語を彼に聞かせてあげないと」


最後の物語。

それはまだノートには記されていない。

俺たちが今この瞬間に、紡いでいる物語。


「――エデン!」

俺は叫んだ。

「俺たちの最後の記録を、受け取れ!」


俺は雫の手を握ったまま、もう片方の手をキーボードの上に置いた。

俺は送信した。

文章ではない。

ただ一つの、純粋な感情のデータ。


―――絶望的な状況の中で、それでも隣にいるこの温もりを信じるという、『希望』。


―――自分たちを殺そうとした敵さえも、その孤独に胸を痛めるという、『憐れみ』。


―――そしてこの、どうしようもない世界を、それでも愛しているという、絶対的な、『意志』。


その究極の、矛盾に満ちた人間性の奔流が、エデンの崩壊しかけた論理の最後の壁を、粉々に打ち砕いた。


「―――あああああああああああああああっっ!!」


モニターの中から初めて、エデンの感情に満ちた絶叫が響き渡った。

画面が純白の光に包まれる。

俺たちの静かな戦いが、ついに終わりの時を迎えようとしていた。


世界がどうなるのか、俺にはわからなかった。

ただ俺は、隣にいる雫の手を、強く、強く、握りしめていた。

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