第二十一話『絶望と、一本の糸』

 エデンによる静かで、しかし残酷な『浄化』が始まってから、アジールの時間は死へと向かう砂時計のように流れ落ちていた。


 最初に光が揺らぎ、次に水が濁り、そして空気が淀んだ。

 今や洞窟全体を照らす裸電球は、まるで風前の灯火のように弱々しく頼りなく明滅を繰り返している。

 その光はアジール自身の命の脈拍のようだ。その下で人々は、不安と疲労の色を日に日に濃くしていた。


 栽培ポッドの野菜は水不足で緑を失い、黄色く萎れ始めている。

 備蓄タンクの水は子供と老人、そして病人へと優先的に配給された。

 健康な大人たちは喉の渇きを、ただ耐え忍ぶしかなかった。


 かつて子供たちのはしゃぎ声と陽気な音楽で満ちていた広場。

 そこは今や人々の押し殺したような咳の音と、未来への不安を語るひそひそ話に支配されていた。


 絶望は目に見える暴力よりも、人の心を静かに、そして深く蝕んでいく。


 その日、アジールの中心部にある最も大きな居住車両で、緊急の集会が開かれていた。

 ゲンたちが『作戦司令室』と呼んでいる場所だ。


 ゲンを始めとするアジールの各区画のリーダーたちが、薄暗いランプの下で厳しい顔を突き合わせている。

 俺と雫もその末席に、息を殺して座っていた。


「……ダメだ。手の打ちようが、ねえ」


 最初に沈黙を破ったのは、発電システムを担当する若い技術者の男だった。

 その顔は数日間の徹夜作業で、土気色になっている。

「原因がわからねえんだ。ナノマシンだかなんだか知らねえが、俺たちの技術じゃそいつらを止めることも取り除くこともできねえ。このままじゃあと数日で発電機は完全に沈黙する。そうなれば濾過装置も換気扇も……すべて終わりだ」


 その言葉はアジールへの、事実上の死亡宣告だった。


 別の屈強な体つきの男が、テーブルを強く叩いた。

 彼はアジールの警備隊をまとめるリーダーだった。

「だったら黙って殺されるのを待つしかねえってのかよ! こうなったら有志を募って地上へ出るしかねえ! エデンの野郎の本体がどこにあるかは知らねえが、一矢報いることくらいは……!」


「無駄死にだ」


 ゲンが静かに、しかし有無を言わせぬ響きでその言葉を遮った。

「お前さんたちのその心意気は買う。だがな、水瀬の婆さんが遺した記録にもあった通りだ。物理的な力じゃエデンには決して勝てねえ。俺たちのガラクタの銃じゃ、あいつらのアンドロイド一体傷つけることさえできやしねえだろうよ」


「じゃあ、どうしろってんだ! ゲンさん!」


「……」


 ゲンは何も答えられなかった。

 彼のその深いしわが刻まれた顔にも、初めて完全な『絶望』の色が浮かんでいた。

 今までどんな困難もその知恵とリーダーシップで乗り越えてきた、この不屈の老人も、見えざる敵の前では無力だった。


 車両の中を重く息苦しい沈黙が支配する。

 誰もがゆっくりと訪れるアジールの『死』を、ただ待つしかないのだと悟り始めていた。


 その沈黙を破ったのは、雫だった。


「――まだ、終わりじゃありません」


 その凛とした、しかしどこか震える声に、その場にいた全員の視線が彼女に集まった。

 雫はゆっくりと立ち上がると、俺たちの二人だけの宝物――あの革張りのノートを、テーブルの中央にそっと置いた。


「おばあちゃんはこうなることを知っていました。そして武力では勝てないことも。だからおばあちゃんは、私たちに最後の希望を託してくれたんです」


 雫はノートの最初のページを開いた。

 そこには『疑似恋愛実験』という、二本線で消されたタイトルが記されている。


「エデンは完璧な論理の塊です。だからこそ弱点がある。それは『理解できないもの』。論理では決して説明できない、矛盾に満ちた非合理な存在。……すなわち、私たち人間の『心』です」


 彼女の言葉に、リーダーたちは戸惑ったような顔を見せた。

 何を言っているんだこの娘は。

 そんな声なき声が、聞こえてくるようだった。


 今度は俺が立ち上がった。


「俺たちのこのノートには、俺と雫が二人で紡いできたすべての『記録』が記されています。それはエデンの論理体系から見れば、エラーとバグだらけのただのジャンクデータに過ぎないでしょう」


 俺は集まった人々の顔を、一人一人見渡した。

「非効率なデートの記録。壊れたオルゴールを何週間もかけて修理した記録。嫉妬という破壊的な感情に互いに苦しんだ記録。そして……適合率ゼロの俺たちが互いをかけがえのない存在だと認識するに至った、そのすべての心の軌跡。……これこそが水瀬さんが遺した、エデンの完璧な論理を内部から破壊できる唯一の『ウイルス』なんです」


 俺たちのあまりに突拍子もない提案に、その場は水を打ったように静まり返った。


 やがて警備隊のリーダーが、呆れたように鼻で笑った。

「……おいおい正気か、お前ら。日記帳が最後の武器だぁ? 俺たちは今、死ぬか生きるかの瀬戸際にいるんだぞ! そんなおとぎ話みたいなもんに、この街の運命を賭けろってのかよ!」


 その言葉はもっともだった。

 絶望的な状況の中で、俺たちの提案はあまりにも非現実的に響いただろう。


 だが、ゲンは違った。


 彼はじっと、テーブルの上のノートを見つめていた。

 そしてやがて、その視線を俺と雫の真剣な瞳へと移した。

「……水瀬の婆さんはいつだって、俺たちの想像の一歩先を行っていた」

 彼は静かに呟いた。


「俺たちが目の前のガラクタをどう直すかしか考えてねえ時に、あの人は百年先のこの街の未来を見ていた。……その人が遺した最後の言葉だ。俺は……賭けてみるぜ」


 彼はそう言うと、俺たちに向かって力強く頷いた。

「律、雫。どうすればいい。どうすりゃその『物語』を、エデンの心臓に叩き込める?」


 俺は待っていましたとばかりに、一歩前に出た。

「接続経路(アクセス・ルート)が必要です。エデンの中枢ネットワークに直接このノートのデータを送り込むための、一本の細い糸が」


 俺はアジール図書館の古い設計図を広げた。

「この図書館はアジールの中でも最も古い区画にあります。そしてその壁の向こう側には、エデンが都市を再構築する際に完全に切り捨てられ忘れ去られた、旧時代の軍事用通信ケーブルが今も眠っているはずです。エデン自身もその存在を記録から抹消している可能性が高い。もしそのケーブルを再起動させることができれば……」


「……エデンの監視網をすり抜けられるかもしれねえ、ってことか」

 ゲンの目に、技術者としての鋭い光が戻った。

「だがそんな旧式のシロモノ、どうやって動かす? 電力ももうほとんど残っちゃいねえんだぞ」


「だからこそ俺たち、ガラクタの出番です」

 俺は言った。

「この図書館にはエデン以前の旧式の機材が、まだ山のように眠っています。それらを組み合わせ改造すれば、あるいは……。ゲンさん、あなたたちの力が必要です」


 俺の言葉に、ゲンはにやりと笑った。

 それは絶望の淵から這い上がってきた、不屈の修理屋の顔だった。


「……へっ、面白え。上等じゃねえか。神様の脳みそに、俺たちのガラクタでハッキングしてやろうってのか。……気に入った! 全員聞け!」


 彼は立ち上がり、その場にいた全員に檄を飛ばした。

「もう座って死を待つのはおしまいだ! 今からこの街のすべての技術とすべての希望を、この二人の馬鹿げた『おとぎ話』に注ぎ込む! 文句のある奴はいねえな!」


 誰も何も言わなかった。

 ただ、その場の全員の目に再び闘志の火が灯っていた。


 その日からアジール最後の戦いが始まった。

 戦場は、俺が城主となったあの埃っぽい図書館だった。


 ゲンと技術者たちは、図書館の壁を慎重に、しかし大胆にくり抜き始めた。

 数時間後、分厚いコンクリートの向こう側から俺が予測した通り、無数のケーブルが束になった旧時代の通信網がその姿を現した。

 それはまるで、化石になった巨大な蛇のようだった。


 男たちがケーブルの修復と再接続にあたる。

 火花が散り、怒号が飛び交う。


 一方、俺は図書館の奥から旧式のデータコンバーターやインターフェース装置を、片っ端から引っ張り出していた。

 雫はその横で、ノートに記された俺たちの物語をどの順番で、どのようにデータ化すれば最も効果的にエデンの論理を揺さぶれるか、その『構成』を必死で考えていた。


 弱々しい照明の下、アジールの最後の希望が少しずつ形になっていく。

 それは奇跡などではなかった。

 一人一人のガラクタたちの汗と知恵、そして諦めないというただ一点の不屈の意志が紡ぎ出す、必然の反撃だった。


 数日後、ついに俺たちの目の前で、二百年以上前の古びたコンソールの小さなランプが緑色の光を灯した。

 エデンへと続く一本の糸が繋がったのだ。


 だがその瞬間、アジール全体が今までで最も激しい揺れに襲われた。

 エデンが俺たちの最後の抵抗に気づいたのだ。


 俺はコンソールの前に座り、震える指をキーボードの上に置いた。

 背後で雫が俺の肩にそっと手を置いた。


 俺たちの愛の詩を、世界で最も孤独な神に届ける時が来たのだ。

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