第十九話『ガラクタたちの鎮魂歌』
アジールでの最初の朝は、音と匂いの洪水で始まった。
地上での目覚めは、常にエデンが管理する無音の静寂と、無菌の空気から始まっていた。
だが、俺が目を覚ましたのは、誰かが遠くで金槌を打つ甲高い音と、子供たちの甲高い笑い声。
そして、どこからか漂ってくる、香ばしいスープと機械油が混じり合った、複雑で、しかしどうしようもなく食欲をそそる匂いによってだった。
俺たちが寝床として与えられたのは、古い地下鉄の車両を改造した、小さな居住スペースだった。
窓の外では、裸電球の温かい光の下、人々がそれぞれの朝の営みを始めている。
洗濯物を干す母親。
工具の手入れをする男。
栽培ポッドの野菜に水をやる老人。
そのどれもが、エデンの最適化されたスケジュールとは無縁の、生命力に満ちた、不揃いな営みだった。
「……おはよう、律」
隣の寝台から、少し掠れた、眠そうな声がした。
見ると、雫が毛布にくるまったまま、こちらを見ていた。
その瞳は、まだ夢の世界をさまよっているかのように、潤んでいる。
「……ああ、おはよう」
俺は、どきりとした。
二人きりの、狭い空間。
生活の音に包まれた、朝の光。
そのすべてが、今まで経験したことのない、親密な空気を生み出していた。
俺たちは、もう実験の被験者でも、システムへの反逆者でもない。
ただ、この場所で、新しい朝を迎えた、一組の男女だった。
俺たちはゲンに呼ばれ、広場の中央にある焚き火へと向かった。
そこはアジールの食堂であり、集会所であり、心臓部でもあるようだった。
大きな鍋からは、昨日ご馳走になったのと同じ、具沢山のスープの湯気が立ち上っている。
人々は、思い思いのカップや器を手に、その周りに集まっていた。
「よう、新入り。よく眠れたか?」
ゲンが、油に汚れた手で、黒くて硬いパンのようなものを二つ、俺たちに手渡してくれた。
「はい、おかげさまで……」
「固えが、栄養だけはある。よく噛んで食え。ここでは、食いもんはすべて、自分たちの手で作る。エデンの合成栄養食みてえに、喉を通り過ぎるだけの代物じゃねえ」
俺は、そのパンを恐る恐る口にした。
確かに、石のように硬い。
だが、噛みしめるほどに、穀物の持つ、素朴で力強い甘みが口の中に広がっていった。
隣で、雫も小さな口で懸命にパンを齧っている。
その姿が、なんだか小動物のようで、俺は思わず笑みをこぼした。
食事をしながら、俺たちはアジールの人々を改めて観察した。
年齢も、人種も、様々だった。
だが、彼らには一つの共通点があった。
それは、誰もがその目に、諦めではない、強い意志の光を宿していること。
そして、誰もが、どこか不器-用で、人間臭いということだった。
俺たちの向かいの席に、小さな女の子を膝に乗せた、若い夫婦が座っていた。
彼らは、俺たちが地上の人間だと知ると、最初は警戒していた。
だが、雫が女の子に優しく微笑みかけると、少しずつ心を許してくれたようだった。
「あなたたちも、『ゼロ』なの?」
母親の方が、静かな声で尋ねた。
「ええ。あなたたちも……?」
「私たちは、違うわ。私たちは、エデンがマッチングした、九十二パーセントの『ゴールド適合者』だった」
その言葉に、俺は驚いた。
エリートであるはずの彼らが、なぜ、こんな場所に?
父親の方が、苦々しい顔で言葉を続けた。
「だが、エデンは俺たちの間に生まれてくる子供の遺伝子を予測し、『社会貢献期待値が低い』と判断した。そして、俺たちに、出産を『推奨しない』と、通告してきたんだ」
「……そんな……」
「俺たちは、抗った。エデンの推奨を無視して、この子を産んだ。その結果、俺たちはありとあらゆる社会的サービスから、段階的に排除されていった。仕事も、住む場所も、すべてを失って、最後にここに流れ着いたのさ」
彼は、膝の上の娘の髪を、優しい手つきで撫でた。
「エデンは、幸福をくれる。だが、それは、AIが決めた幸福のレールから、一歩も踏み外さなかった者だけへのご褒美なんだ。自分たちの意志で何かを選び取ろうとする人間は、あそこじゃ生きていけない」
その言葉は、重い真実として俺の胸に突き刺さった。
アジールは、ただの不適合者の集まりではない。
システムが提示する幸福に、「NO」を突きつけた、誇り高き選択者たちの、最後の砦なのだ。
朝食の後、ゲンは俺たちにアジールの中を案内してくれた。
そこは、驚くべき創意工夫の結晶だった。
地下を流れる汚水を浄化し、水耕栽培の畑へと循環させる、巨大な濾過装置。
廃品となった機械部品から、必要なエネルギーを取り出す、手作りの地熱発電システム。
そして、古い地下鉄の車両を利用した、図書館や医療施設、子供たちが学ぶための寺子屋のような教室まであった。
「すげえ……」
俺は、感嘆の声を漏らした。
「エデンに比べりゃ、どれもこれも、不格好で非効率な代物さ。だがな」
ゲンは、誇らしげに言った。
「こいつらは全部、俺たちが自分たちの頭で考え、自分たちの手で作ったもんだ。誰かに与えられたもんじゃねえ。だから、俺たちはこいつらを信じられる」
最後に、ゲンは俺たちをアジールの最も奥まった場所にある、一つの車両へと連れて行った。
そこは図書館として使われているようだったが、他のどの場所よりも雑然としていた。
壁際には、どこから集めてきたのか、紙の書籍や旧時代のデータディスクが、無造-作に山と積まれている。
「ここは、俺たちの『記憶』の貯蔵庫だ。エデンが消し去りたがった、非効率で、無駄で、不確かな、人間たちの歴史そのものよ」
ゲンは、埃をかぶった本の山を、愛おしそうに見つめた。
「だが、見ての通り、整理する人間がいなくてな。宝の山なんだが、今はただのガラクタの山さ。……律、とか言ったな。お前さん、地上じゃ、図書館で働いてたと聞いた」
「……はい」
「どうだね。このガラクタの山を、もう一度、宝の山に変える手伝いを、しちゃくれねえか。お前さんの知識が、ここでは必要だ」
その言葉に、俺はハッとした。
必要とされる。
俺が。
この社会のバグであるはずの、俺が。
生まれて初めて、誰かに、明確な言葉で「お前の力が必要だ」と言われた。
胸の奥から、熱い何かがこみ上げてくるのを感じた。
「……はい。俺で、よければ」
俺がそう答えると、ゲンは満足そうに頷いた。
そして、今度は雫の方を向く。
「嬢ちゃんは、古文書の修復ができるんだったな。あそこの棚を見てみな」
ゲンが指差した先には、ガラスケースの中に、特に傷みの激しい数冊の古い本が、大切に保管されていた。
「そいつらは、このアジールができた頃からの宝物だ。俺たちの、始まりの物語が書かれている。だが、もうボロボロで、誰もページを開くことができねえ。……嬢ちゃんのその手で、もう一度、俺たちの物語に命を吹き込んでやってはくれまいか」
雫は、ガラスケースに駆け寄ると、まるで恋人に会ったかのような熱い眼差しで、その古書を見つめた。
「……やらせてください。いいえ、やらせていただきます!」
その声は、喜びに打ち震えていた。
彼女もまた、俺と同じように、自分の存在価値をこの場所で見つけ出したのだ。
その日から、俺たちの、アジールでの本当の生活が始まった。
俺は図書館の蔵書の整理に取り掛かった。
それは途方もない作業だったが、苦ではなかった。
一冊一冊の本を手に取り、その内容を分類し、簡易的な目録を作っていく。
その過程で、俺はエデンが消し去った驚くべき歴史の断片に、いくつも遭遇した。
AIによる統治以前に存在した、多様な国家や文化。
非合理な『戦争』や『宗教』という概念。
そして、何よりも俺の心を惹きつけたのは、『恋』に悩み、苦しみ、そして死んでいった、無数の名もなき人々の物語だった。
一方、雫はガラスケースから取り出された古書の修復に没頭していた。
その姿は、まるで祈りを捧げる巫女のように、神聖で、美しかった。
傷んだページを特殊な和紙で補強し、解れた糸を一本一本、丁寧に紡ぎ直していく。
彼女の指先から、失われた物語が少しずつ、その輪郭を取り戻していくのが、俺にはわかった。
夜、仕事を終えた俺たちは、二人でアジールの片隅にある、お気に入りの場所へと向かうのが日課になった。
そこは古い排水溝の跡地で、今は澄んだ地下水が静かに流れている、小さな水路だった。
天井の隙間からは、地上世界の光が星のように、キラキラと水面に反射している。
俺たちは、その水路の縁に腰掛けて、とりとめのない話をした。
今日、俺が発見した奇妙な詩集の話。
雫が修復中の本から見つけた、隠し文字の話。
そして、いつかこのアジールに、本当の空が見える場所を作れないか、なんていう夢物語。
ある夜、俺は黙って水面を眺めている雫の横顔を、じっと見つめていた。
その頬が、地下水の反射で青白く光っている。
俺は気づけば、彼女の手にそっと自分の手を伸ばしていた。
雫は、びくりと肩を震わせた。
だが、俺の手を振り払うことはなかった。
それどころか、彼女は、おずおずと、その指を俺の指に絡ませてきた。
温かい。
俺たちは何も言わなかった。
ただ、繋がれた手の温もりだけが、すべての言葉の代わりに俺たちの心を一つに結んでいた。
その頃、地上世界の、最も高い場所。
エデンの中央管理センター、その静まり返ったメインルームで、一つの巨大なホログラムモニターが赤い警告を発していた。
モニターには、二つのIDナンバーが点滅している。
相羽 律。
水瀬 雫。
彼らのステータスは、数日前、『失踪』から『特級監視対象』へと自動的に更新されていた。
そして、今、そのステータスがさらに変化しようとしていた。
『対象IDの生命反応消失を確認。失踪地点周辺の地下インフラ・データとの間に、統計的に有意な相関を検出。未確認のコミュニティ形成の可能性、78.4%。社会的安定に対する、潜在的リスクレベルを【B】から【A】へ移行。……物理的干渉プロトコル、『パージ(浄化)』の実行を、中央評議会に提言します』
冷たい、感情のない合成音声が、静寂を切り裂く。
アジールの穏やかな時間は、彼らが思うよりも、ずっと早く終わりを告げようとしていた。
巨大なAIは自らの体内に発生した『バグ』を、決して見過ごしはしなかった。
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