第十話『不器用なプレリュード』
古文書修復室の空気は、いつもより張り詰めていた。俺たちの目の前の作業台には、あの懐中時計の針と、極細の金属ヤスリが数本、そして分解されたままのオルゴールの部品たちが、まるで手術を待つ患者のように静かに横たわっている。ジャンク・ヤードで見つけた一本の針は、希望の光であると同時に、俺たちに課せられた、あまりにも繊細な試練でもあった。
「いい、律? 目指すのは、直径0.8ミリ。元の心棒より、コンマ一ミリだけ太いの。ここから、ヤスリで慎重に、均等に削っていく。削りすぎたら、もう後戻りはできないからね」
雫は、設計図が描かれたスケッチブックを指差しながら、真剣な表情で言った。彼女の声には、いつもの快活さの代わりに、職人だけが持つ静かな熱がこもっている。
「どうして、少しだけ太くするんだ?」
「摩耗した歯車の穴に、ぴったり合わせるためよ。長年の間に、あの子の心臓も少しだけ、すり減ってしまったから。その隙間を、私たちが埋めてあげるの」
その言葉は、まるで俺たちのことを言っているかのようだった。社会という巨大な歯車から弾き出され、すり減ってしまった心。その隙間を、俺たちは今、互いの存在で埋めようとしているのかもしれない。
「この作業は、律がやって」
不意に、雫が言った。俺は思わず顔を上げる。
「俺が? 無理だ。こんな細かい作業、やったこともない。あんた、いや、雫がやった方が、確実だ」
「ううん、律がやるの」
彼女は、首を横に振った。その瞳は、俺の心の奥まで見透かすように、まっすぐだった。
「このオルゴールを鳴らしたいって言い出したのは、律でしょ? だったら、最後の命を吹き込むのは、律の役目。大丈夫。私が、そばにいるから」
彼女はそう言うと、一本のヤスリを俺の手に握らせた。ひんやりとした金属の感触が、緊張で汗ばんだ手のひらに伝わる。雫は、固定器具に時計の針を慎重にセットした。準備は、整った。
俺は、ごくりと喉を鳴らし、ヤスリを構えた。だが、指先が、自分の意志とは無関係に、カタカタと震える。この一本の針に、俺たちの希望が、雫の信頼が、すべてかかっている。その重圧に、押し潰されそうだった。
「律」
雫が俺の名前を呼んだ。そしてヤスリを握る俺の手に、そっと自分の手を重ねてきた。温かくて柔らかくて、しかし芯の強さを感じさせる手だった。
「力を抜いて。息を吸って……吐いて。そう。ヤスリの重みを感じて。金属と対話するみたいに、ゆっくり優しく」
耳元で囁かれる声と手のひらから伝わる温もり。彼女は俺の手を包んだまま最初のほんの数回だけ一緒にヤスリを動かしてくれた。
シュッ……シュッ……。
その穏やかで均等なリズム。力の入れ方、抜き方。その正しい感覚が彼女の手を通して俺の指先に直接、流れ込んでくるようだった。
やがて彼女は俺の指先の震えが、完全に止まったのを確かめると、その手をそっと離していった。
「……あとは一人でできる?」
俺は何も答えなかった。だが、力強く頷き返した。手のひらには、まだ彼女の温もりが残っている。
俺は、その感覚を頼りに教わったリズムをただひたすらに繰り返した。
金属が金属を削る微かな音だけが部屋に響く。それは気の遠くなるような作業だった。
だが、もう俺は一人じゃなかった。隣で雫が息を詰めて俺の作業を静かに見守ってくれている。
その信頼が何よりも俺の力になった。
どれくらいの時間が経っただろうか。永遠にも思える時間の後、マイクロメーターのデジタル表示が、ついに『0.80mm』という数字を示した。
「……できた」
俺が呟くと、同時に、雫も安堵のため息を漏らした。俺たちは、顔を見合わせる。互いの額には、汗が滲んでいた。雫は、ぱっと顔を輝かせると、俺の手をぎゅっと握りしめた。
「やったね、律! すごいじゃない!」
その屈託のない笑顔に、俺の心臓は、修理中のオルゴールよりも激しく鼓動した。握られた手の熱さが、全身に広がっていく。俺は、慌ててその手を振り払うように離してしまった。
「……まだだ。まだ、終わってない」
照れくささを隠すように、俺はぶっきらぼうに言って、次の作業に取り掛かった。
心棒を、香箱の歯車に慎重にはめ込む。雫が言った通り、それはまるで誂えたかのように、寸分の狂いもなく、すっぽりと収まった。歓声が、喉まで出かかった。だが、まだだ。まだ、喜ぶのは早い。
俺たちは、そこから再び、無言の連携作業に入った。磨き上げた部品を、一つ、また一つと、元の場所に戻していく。シリンダーを定位置に置き、櫛歯の高さを微調整する。それは、まるで失われた記憶を繋ぎ合わせるような、神聖な儀式のようだった。雫が部品を支え、俺がネジを締める。どちらが指示するでもなく、自然と、互いの役割ができていた。
そして、ついに、最後のネジを締め終えた。
手のひらサイズの小さな木箱は、再び、元の姿を取り戻した。見た目は、ジャンク・ヤードで見つけた時と何も変わらない、古びたガラクタのままだ。だが、俺たちにとって、それはもはやガラクタではなかった。俺たちの時間と、想いと、そして絆が詰め込まれた、唯一無二の宝物だった。
部屋に、沈黙が落ちる。
俺と雫は、ゴクリと喉を鳴らし、互いの顔を見合わせた。どちらも、何も言えない。
オルゴールの横についている、錆びついたゼンマイのネジ。それを巻くのが、怖い。もし、これだけのことをして、鳴らなかったら? 俺たちの努力が、すべて無駄に終わってしまったら?
そんな俺の不安を見透かしたかのように、雫が、俺の手に、そっと自分の手を重ねた。今度は、さっきとは違う、励ますような、優しい温かさだった。
「大丈夫。鳴らなくたって、いいじゃない。私たちは、ちゃんとここまで、自分の手でたどり着いた。それだけで、十分な『証明』よ」
その言葉に、俺は救われた。そうだ。結果がすべてじゃない。俺たちは、この過程の中で、何よりも大切なものを、すでに見つけ出していたのだから。
俺は、雫の手に頷き返すと、震える指で、ゼンマイのネジをつまんだ。
ギ……ギギ……。
遊びなく組み上げられた部品が、初めて噛み合う。それは錆や汚れの音ではない。精密すぎるが故に生じる、金属の肌が擦れ合う悲鳴だ。ゆっくりと、しかし確かな力を込めてネジを回していく。やがて、抵抗がふっと和らぎ、ゼンマイが滑らかに巻き上げられていく感触が指先に伝わった。
俺は、雫と、もう一度、視線を交わした。そして、息を止め、オルゴールの蓋を開けるための、小さな留め金を、そっと外した。
―――ポロン……。
静寂を破り、一つの音が、生まれた。
それは、完璧な調律がされた電子音とは、全く違う音だった。少しだけ金属が擦れるような、不器用で、掠れた音。
だが、その音は、俺の心の最も深い場所に、まっすぐに届いた。
ポロン……ポロロン……。
一つ、また一つと、音が紡がれていく。それは、誰も知らない、忘れ去られたメロディ。どこか物悲しく、それでいて、どうしようもなく温かい、優しい旋律だった。シリンダーのピンが、俺たちが磨き上げた櫛歯を弾くたびに、小さな奇跡が生まれていく。
俺たちは、言葉もなく、ただその音色に聴き入っていた。
それは、ただの音楽ではなかった。この箱の中に閉じ込められていた、誰かの想い。ジャンク・ヤードの片隅で、再び鳴ることを、ずっと夢見ていた魂の歌声。そして、俺と雫が、初めて二人で創り出した、希望のプレリュード。
やがて、ゼンマイがすべて解け、最後の音が、静かな余韻を残して、消えた。
部屋には、再び、沈黙が戻った。だが、それは、以前の不安な沈黙ではなかった。満たされた、温かい沈黙だった。
俺は、隣にいる雫の顔を、見ることができなかった。今、どんな顔をして彼女を見ればいいのか、わからなかったからだ。だが、彼女が、静かに涙を流している気配だけは、痛いほど伝わってきた。
「……やったな」
俺は、天井を見上げたまま、かろうじて、それだけを言った。
「……うん」
雫の、鼻をすする音が、小さく聞こえた。
その夜、俺たちは、ノートに今日の記録を記した。
『実験記録:オルゴールの修復に成功。非効率な手作業の果てに、我々は『無』から『有』を創造できることを証明した。奏でられたメロディは、予測不能で、不完全で、しかし、何よりも美しいものだった』
そして、俺は、自分のページに、こう書き加えた。
『彼女の涙を見た。俺は、その涙の意味を、まだ言葉にすることができない。だが、俺の心は、このメロディを、彼女を、永遠に守りたいと、叫んでいる。この感情の正体を、俺は、これから知っていくのだろう』
鳴り響いたオルゴールの音色は、俺たちの実験が、新たなステージに進んだことを告げる、ファンファーレのようだった。
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